前回エントリーと同一の結論を繰り返しておきます。次の二点です。「我々が二分法を用いるとき、すでに前提として二分法がいくつも用いられており、そしてその前提となる二分法の存在はややもするとと見逃されがちなんじゃないか?」ということと、もう一つは、「ある人々が自明と思っている二分法が、他の人にとってはぜんぜん自明じゃないということがよくあるんじゃないか?」ということだ。
渡辺将人『見えないアメリカ』という本を読んだことがある。 アメリカにおいて保守とリベラルの対立は、日本の右翼と左翼の反目を凌ぐものがあるとは、まま言われるこてとではある。でもこれ知ってますか? 日本でもおなじみのスターバックスは、本家では「リベラルが好む」とされる代表的なブランドと目されているんだそうだ(P17)。
一方、ウォルマートは「労働保守層」向けの店とされる(P24)。こうした「あのブランドはリベラルのもの、このブランドは保守のもの」という色分けは、アメリカ社会の隅々まで広がっているのだそうだ。新聞やTVのメディアだけではないのだ。まるで地雷だね。
上掲書には、それぞれ「なぜそう考えられているのか」という説明もある。読んで、「はあ、確かに…」と思わないこともないが、他の社会に住むものとしては「だから何なの?」と言わざるを得ない。
ここでもう一つ注意しなければならないことは、かの国の中における「保守」と「リベラル」は、必ずしも日本の「右翼」と「左翼」に対応していない、ということだ。上掲書には「労働保守」という言葉が早々に登場し、一方で「リベラル」のステロタイプとして都市型ホワイトカラー層が示されることからも、松尾先生の「右翼と左翼」分類がアメリカにはそのまま適用できなさそうなことが即座に見て取れる。日本の保守のような労働組合敵視はアメリカ保守にはまれだし、アメリカ保守ほどの宗教志向は日本の保守には目立たない(あるけどね。日本会議とか統一教会とか幸福の科学とか)。社会が対峙しなきゃならない問題がアメリカと日本ではまるで違うのだから、対立点も違って当然なのである。
つまり、まず「日本とアメリカ」という二分法を踏まえたうえで「保守とリベラル」「右翼と左翼」という対立を考えないと、わけのわかんないことになる。
前々回のエントリーに、cider_kondo さんからこんなブックマークコメントをいただきました。cider_kondo さんは「はてなブックマーカー」として多くの尊敬を集める人なので、大変光栄に感じました。
「完全なる神と不完全な人間」という二分法が、我々の心を楽にしてくれることがあるんじゃないかと思った - しいたげられたしいたけ
http://bylines.news.yahoo.co.jp/bradymikako/20160116-00053462/(やブコメ)を読んでなんかもやもやして自分の中でまとまらなかったものに答っぽいものがもらえた気がする
2016/01/17 15:44
ただ、cider_kondo さんの「答っぽいもの」がどんなものか、もう少し知りたかった気がします。100字という制限がある中では、いたしかたないことですが。
こういうときは、人に何かを求めるんじゃなく隗より始めよで自分なりの考えを書くべきであろう。実はあの記事には、私ももやっとしていた。
次の日、 id:nofrills さんによる検証記事もホッテントリ入りしていた。ただしブコメ非表示設定のせいか、ブコメ数はブレディ氏の記事ほどは伸びていない。
この二つの記事を読み比べることが、うまいぐあいに「二分法の落とし穴」の演習問題を提供してくれているように思われたので書いてみる。
まず、ブレディ氏記事のタイトルに関して、nofrills さんは “1. 見出しにカギカッコが必要だと思う点について。” という指摘を行っている。まことにもっともだと思う。「左派」というのは「右派(および中間派など。つまり左派以外)」という概念に対立して示される言葉だろうが、英国においてイメージされる「左派」と、日本における「左派」は、とても同じと言えるものではないのだ。私は英国ウォッチャーではないが、それでも nofrills さんの解説を読んで「なるほど、そうだよね」と思える程度の知識は有しているつもり。
弊ブログでは「何を当たり前のことを」な機械的分類を、あえていちいち示すことにする。すなわち…
・「英国」の「左派」
・「英国」の「左派以外」
・「日本」の「左派」
・「日本」の「左派以外」
と、「左派」と「左派以外」の二分法を用いる前に、(とりあえず「英国」と「日本」以外は今はさて措くとして)「英国」と「日本」という二分法が非明示的に適応されてるでしょ。そして「英国の左派」と「日本の左派」が同じものでない以上、私もやはり「左派」にカッコは必要と思う。
次に、ブレディ氏が記事中で「左派メディア」の姿勢だけを取り上げ問題視していることに対して、nofrills さんは “2. ケルン事件は、英国では、どの報道機関でもニュースにするのが遅かった。” として、根拠となるリンクを挙げている。「NAVERまとめ」もある。http://matome.naver.jp/odai/2145236211776268501 結論を言うと「左派メディア」も「左派以外のメディア」も大差なかったというものだ。
長くなるので中途は省略させていただいて、nofrills さん「追記」部分から。ブレディ氏が「ムスリム系移民による大規模な性犯罪は以前から起きていた」とする部分に対して、まず何例もの「イングランド人」による大規模な性犯罪の例を示す。そして “「右派」は語っているのだろうか。語っていない場合、「右派はなぜ語らないのか」という声は上がっているのだろうか。” と問いかける。これは「どっちもどっち」に持ち込むためのものではない。ラストが圧巻なのだ。nofrills さんは、ブレディ氏が記事冒頭に示した「ガーディアン紙」のデブラ・オー氏記事の引用が、「つかみ」の部分の切り取りに過ぎなくて、全文を読むと結論がまるで違ったものであることを示す。
つまり、デブラ・オーはこの文章において、「なぜ左派は」云々と言っているというよりは、「左派も右派もなく、なぜ性暴力が軽視されるのか。なぜ難民である誰かが何かをすると難民全体の責任を問うような流れができるのか。そんな知的怠慢が許されるのか」ということを言っている。冒頭の「つかみ」はアレだが、そのあとは誤読の余地はない。
(強調は引用者による)
私のこのエントリー自体も、全文を引用することはできないので「切り取り」にならざるを得ません。正確を期すためには、ぜひ元記事をご参照ください。
つまり…
・移民に、性犯罪を犯す者がいる
・移民に、性犯罪を犯さない者がいる
・移民を受け入れる側に、性犯罪を犯す者がいる
・移民を受け入れる側に、性犯罪を犯さない者がいる
という二重の二分法が存在し、ここで問題にすべきは「犯罪を犯す者」と「犯罪を犯さないもの」の対立であり、「移民」と「移民を受け入れる側」の対立ではない、ということだ。もっと早く言えば「移民であろうがなかろうが、犯罪者は逮捕されるべきだ」という当たり前すぎるくらい当たり前のことにすぎないのだ。だが、なぜか往々にしてそこに錯誤が生じやすい。
すいません、nofrills さんのエントリーに乗っかって、ほとんど他人のふんどしで相撲を取ってます。また cider_kondo さんのおっしゃる「答っぽいもの」とは全く縁のない、あくまで私自身の意見であることを念のために繰り返しておきます(cider_kondo さんのブコメ以外の長文も読んでみたいので、たまにはブログも更新してください)。