地獄の釜で煮えられながら生きる人間たちの悲哀と憤怒。怪物的な傑作『薩摩義士伝』
最近は時代劇画ばかり読んでいる。おもしろいのだからしょうがない。
このコーナーでも紹介した、とみ新蔵の『薩南示現流』(リイド社。時代劇画の金字塔だ)や『柳生兵庫助』(リイド社)、それに老剣術家と弟子がタイムスリップして、ローマの剣闘士やフランス貴族のフェンシング、三国志最強の男である呂布と剣を交えるなど、ありとあらゆる世界の武術家や武将と戦う異色作『剣術抄』(リイド社)も新鮮だった。

さて今回はとみ新蔵の兄であり、やはり劇画界の鬼才である平田弘史の『薩摩義士伝』(リイド社)を取り上げたい。コンビニに並んでいたのでなにげなく買い、そしてガーンという擬音つきで驚愕したのだった。「こんな作品が……不覚。腹を切らねば」と思ったのです。大袈裟ですけれども。
『薩摩義士伝』はもともと1982年に刊行された作品。1754年~1755年にかけて、幕命により薩摩藩が行った濃尾平野の治水工事を描いたもので、洪水が頻繁に起きる木曽川、長良川、揖斐川から住民を守るため、長大な堤防や堰を築いたという、事実に基づいた物語である。この工事は、鹿児島の人にとっては有名な話であり、総奉行を務めた平田靱負(ひらたゆきえ)を知らぬ人間はいない……らしい。
藩が傾くほどの莫大な費用に怒りを募らせつつ、冷たい川の水に浸かりながら、もくもくと土木作業をする薩摩武士たち。また、毎年のように洪水に悩まされる地元住民たち、工事費用をちょろまかして私腹を肥やす同僚に愛想を尽かして、あえてハードウェイを選ぶ幕府側の役人(じっさい、あまりに薩摩藩いじめがひどかったため、監視役の徳川側の役人からも抗議の切腹をするものが二名出た)
物語はまず薩摩武士の荒々しい気風と、大藩でありながら幕府による婚姻政策などによって、財政がどんづまりの状況にある様が描かれる。身分の低い下級武士は大工仕事や畳作り、百姓の手伝いなどをしなければ食っていくこともかなわず、「銭金こつ言うな! 大判小判なぞは木の葉の腐ったもんぞ!」と、武士としての気概と誇りを示しつつも、それでもカネ欲しさに働き続けなければならない矛盾を抱え、鬱屈をぐつぐつと溜めこんでいた。薩摩といえば立木を木刀でぶっ叩く示現流が有名だが、武士たちの怒りのエネルギーは凄まじく、立木をへし折るどころか、松の大樹すらも三日で倒す者もいたという。その薩摩武士の煮えたぎるマグマのような激情を、平田弘史のド迫力の画で再現するのだから、くらくらするほどの殺気と怨念が伝わってくるのだった。
薩摩武士の気風を象徴的に描くのが、冒頭の「ひえもんとり」と呼ばれる行事である。甲冑を身につけた侍たちが東西両軍に別れ、死罪人を馬に乗せて放ち、これの生肝を争奪するという実戦さながらの風習(処刑ともいうが)である。死罪人は槍や刀でバラバラに引き裂かれ、武士たちは日ごろの怒りを死罪人に思いきり叩きつけるのだった。

貧窮にあえぎながら暮らすなか、15万両にもなる大工事をやれと幕府が命じてきたのである。治水と薩摩イジメの一石二鳥を狙ったものだった。憤慨した家臣たちは揉めに揉める。幕府の見え透いた魂胆に怒り、「いっそ幕府と一戦交えよう」と合戦を望む者も出てくる。徳川相手に死に花を散らそうといきり立つ家臣を前に、家老・平田靱負が言葉と肉体で説得するが、そのあたりのシーンは本作品のハイライトだろう。平田劇画の真髄ここにありという激情のうねりを見ることができる。人物たちのセリフも筆文字で描かれ、ちょっと読みにくいが、臨場感を生み出している。
とはいえ、バランスの取れた完璧な作品とは言い難い。「アレ?」と思うような点はいくつもある。始めこそ薩摩武士ふたりが主役のように描かれるが、いつの間にかフェイドアウト。話のたびに主役が変わる群像劇に変わっていく。全力投球で描かれた美麗な画があるかと思えば、えらくテキトウかつまっ白なところもある。みんなごついツラの持ち主で、誰が誰だか区別しにくい……などなど。ひと言で言えば、非常にわがままな作品なのだ。
平田弘史といえば「血だるま剣法」という問題作がある。被差別部落出身の侍が、剣の道で身を起こそうとするものの、他の門弟や師匠から出自を知られ、風当りが強くなり、やがて発狂して師や門弟たちを殺害するという物語。本作品もまた身分差別という制度の理不尽を、治水工事を通じてえぐりだしている。幕府という絶対権力があり、最終的には40万両にも膨れ上がる工事と化し、幕府役人はなおかつあの手この手で薩摩武士をいじめ抜く。しかし、その薩摩藩もまた城下士と郷士の差別があり、城下士が郷士を斬り殺しても、紙一枚提出すればお咎めなしになる。その下にいる百姓や女たちはもっと悲惨だっただろう。
じっさい、財政が大きく傾いた薩摩藩は、奄美諸島のサトウキビに目をつけ、血も涙もなく収奪。自家用の砂糖まで残らず奪い取ったという負の歴史もある。奄美の人々は「黒糖地獄」と呼んで薩摩藩を恨んだという。人間の暗い闇を見つめたエネルギッシュな傑作といえるだろう。
◆深町秋生(ふかまち・あきお)
1975年生まれ、山形県在住。第3回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞し、2005年『果てしなき渇き』(宝島社文庫)でデビュー、累計50万部のベストセラーを記録。他の著書に『ダブル』(幻冬舎)『デッドクルージング』(宝島社文庫)など。女性刑事小説・八神瑛子シリーズ『アウトバーン』『アウトクラッシュ』『アウトサイダー』(幻冬舎文庫)が、累計40万部突破中。
『果てしなき渇き』を原作とした『渇き。』が2014年6月に映画化。
ブログ「深町秋生のベテラン日記」も好評。ブログはこちらからご覧いただけます。
深町氏は山形小説家(ライター)になろう講座出身。詳細は文庫版『果てしなき渇き』の池上冬樹氏の解説参照。詳しくはこちらからご覧いただけます。