MUSIC TALK

躊躇なく、いろんな世代と新しい音楽を 高橋幸宏(後編) 

  • 2016年1月19日

撮影/山田秀隆

  • 撮影/山田秀隆

  • メタファイブのアルバム「META」のリリースを記念したプレミアライブ(1月14日、東京・恵比寿リキッドルーム)
    撮影/SATOMI YAMAUCHI

  • メタファイブのアルバム「META」のリリースを記念したプレミアライブ(1月14日、東京・恵比寿リキッドルーム)
    撮影/SATOMI YAMAUCHI

  • 1月13日にリリースされた、メタファイブのアルバム「META」

 YMOの遺伝子は時代を超えて受け継がれ、多くのアーティストたち、そして国内外の音楽シーンに影響を与え続けている。高橋幸宏さんは国籍、世代、ジャンルを問わずに自然体に交流し、そこでまた新たな音楽が生み、進化の歩みを止めない。その「流儀」にかける思いとは?(文 中津海麻子)

    ◇

前編から続く

逆輸入で巻き起こったテクノブーム

――YMOは、まず世界で大きな話題を呼び、逆輸入の形で日本でもテクノブームを巻き起こしました。

 1978年にリリースしたファーストアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」を、アメリカのA&Mレコードのプロデューサー、トミー・リピューマ氏が気に入ってくれました。日本でリリースしたアルファレコードとA&Mが提携したことがきっかけでした。翌年には彼が立ち上げたホライゾン・レコードというレーベルから全米で発売されることに。それを聴いたロックバンド、チューブスが「おもしろい」と飛びつき、自分たちの公演のオープニング・アクトに僕らを指名。いわゆる前座だったのにもかかわらず、観客が総立ちするほどの反響があり、すぐに単独ライブも決まりました。

 帰国したら大騒ぎになっていた。サディスティック・ミカ・バンドのときとはあまりに違いすぎていて、驚きました。時代が変わったんですね。翌年には、イギリスを皮切りに2度目のワールドツアーをスタート。当時人気だった「スター千一夜」というテレビ番組で、司会の坂本九さんが駆けつけてくれ、羽田空港から生放送で盛大に見送ってもらったことも覚えています。

世間を裏切ってでもマニアックなことを

 2枚目のアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」はオリコンで1位に。僕は今でもオリコンとかってあまり気にしないんだけど、当時はもっと疎くて、周りに「すごいことなの?」なんて聞いて驚かれた記憶があります。80年代に入って「ライディーン」や「テクノポリス」がヒットしたころには、4枚のアルバムが同時にベストテンに入りし、まさに熱狂の渦の中に放り込まれたようでした。僕らのファッションやテクノカットと言われた髪型などが社会現象にもなり、街を歩くことすらできなくなった。そして僕たちはだんだんすさんでいっちゃうんです。

 こんなはずじゃない、1回ファンを断ち切ってでも本当に自分たちのやりたいマニアックなことをしよう――。そんな思いで作ったアルバム「テクノデリック」では、最先端のサンプリング・マシーンのサウンドを取り入れるなど前衛的、実験的なことを盛り込み、YMOとして音楽的にはやり切った感がありました。今一緒にバンド、メタファイブをやっているテイ・トウワくんやまりん(砂原良徳さん)は、このあたりの影響を強力に受けているなぁと感じます。

 それでもまだ世間を裏切りたい、キッチュなものを、という屈折した気持ちから生まれたのが「君に、胸キュン。」でした。最後はオリコンの1位を取るようなテクノ歌謡をやってやろう、と。ヒットはしましたが、ある曲に阻まれてトップにはなれなかった。松田聖子さんの「天国のキッス」。皮肉なことに、作詞家の松本隆さんと組んで細野さんが作った曲でしたね(笑)。

 そして83年、YMOは「散開」を宣言。それから10年近く、3人がそろうことはありませんでした。

いろんなジャンル、世代とコラボすることの醍醐味

――「散開」後は、国籍も世代も超え、さまざまなアーティストとのユニットやコラボレーションに取り組まれます。

 若いころから、自分のバンドだけでなく、いろんなアーティストやバンドのバックで演奏したりスタジオミュージシャンをしたりして、いろんな人と一緒にやるのが癖みたいになっている。昔から続けてきた同世代だけでなく、自分より若い子たち、新しく出てきたおもしろい人たち、すべてにリスペクトする気持ちがあって、どんどん一緒にやってみたい。僕の側には何の躊躇もないんです。

 その根底には、「日本にはロックのオリジナリティーがない」と言われていた1960年代真っただ中に、僕らの世代がビートルズやモッズ、R&Bからサイケデリックまで、洋楽の洗礼を直接受けて、それを日本の中に伝えるという役割を担ってきた、という思いがあるからかもしれません。YMOに影響を受けた子たちは僕らのバトンを、たとえば、永ちゃん(矢沢永吉さん)が好きだった若い人たちは永ちゃんのバトンをそれぞれ受け取り、「日本のロック」が確立されてきた。そしてその人たちが次の世代にまたバトンを渡し、新しいものを生み出していく。いろんなジャンル、世代の人とコラボすることの醍醐味はそこにあるんじゃないかなぁ。

 この間、「幸宏さん、いっぱいバンド作ってるけど、まったく違うタイプの音楽ですね」というようなことを言われて。だって、同じタイプの音楽なら同じバンドでいいじゃん(笑)。鈴木慶一と続けているビートニクスも、高野寛くんや原田知世ちゃんとやってるpupaも、僕のロックのルーツを改めて表現するIn Phaseも、もちろんメタファイブも、それぞれのバンドを作るには意味がある。そこから生まれるのは、それまでにない新しい音楽だから。

――細野さんとの「スケッチ・ショウ」、その後のYMOの再結成は、ファンならずとも興奮する大ニュースでした。

 「スケッチ・ショウ」は、最初は僕のアルバムを細野さんにプロデュースしてもらう、みたいなノリだったんですが、やっているうちに「バンドにしちゃおう」と。2002年、アルバム「オーディオ・スポンジ」をリリースしました。するとそれを聴いた教授がしびれを切らしたように連絡してきた。「なんで二人でやってるわけ?」って(笑)。ごめんごめん、ということになり、スケッチ・ショウ+坂本龍一で「ヒューマン・オーディオ・スポンジ(HAS)」というバンドを結成、04年、スペインのバルセロナで開催されたエレクトロニカイベント「ソナー」に出演しました。実質は再結成だったわけですが、権利関係でYMOが名乗れなかったという事情もありましたね。しかし07年、あるチャリティーコンサートに出演することになったとき、もう大丈夫だと。そして正式に「YMO再結成」となった。その後、08年から僕がキュレーターを務める夏フェス「ワールド・ハピネス」のエンディングにも5年連続で出演し、トリを取ることになりました。

「メタファイブ」誕生のきっかけ

――改めてYMOの3人でやる。どんな気持ちでしたか?

 大人になるっていいことだな、と思いましたね(笑)。感動的だったのが、2013年末、「EX THEATER ROPPONGI」(東京・六本木)のオープニング期間に行われた細野さんと坂本くんのジョイントライブです。もともとはYMOで何かできないかっていう話だったみたいですけど。僕は数曲だけゲストドラマーとして参加したんですが、ピアノとベースとドラムだけのアコースティックな「ライディーン」などを演奏しながら、ふと「ああ、この二人が一緒にやってる」と(笑)。二人の間に入って苦労していた昔を思い出すと、感極まるものがありましたね。

 そして、実はこのライブがきっかけになり、メタファイブが誕生するのです。

――どういう経緯だったのですか?

 オープニング期間のうちの1日で、僕にもなにかライブをやってほしいという依頼を受けていたんです。2013年の秋までジェームス・イハ等と「高橋幸宏 with In Phase」としてロックバンドをやっていたので、全く違うものをやりたくなっていて。そこで、In Phaseとは真逆のアプローチができる小山田圭吾くん、砂原良徳くん、テイ・トウワくん、ゴンドウトモヒコくんを誘おうと。そしてIn Phaseの活動が縁でグッと近い関係になった、英語に堪能で、ニューウェイブの香りがプンプンするLEO今井くんも誘いたいと思って。とはいえ、それぞれが第一線で活躍しているアーティストなのでそうそう都合が合わないだろうと思っていたら、奇跡的にその日のスケジュールが全員空いていた。とりあえず食事会で集まって、ついでにアーティスト写真みたいなものも撮影し、YMOの曲、たとえば「バレエ」なんかを当時のアレンジでやろうか、という話に。でも一から作るのは大変だよなぁと言うと、まりんが「完コピしたトラックあります」と。いつか使えるときがあるかもと、完全に個人的な趣味で作っていたらしい(笑)。じゃああれもやろう、これもやるか、この際テクノっていう言葉も使っちゃえ! と盛り上がり、ライブ名は「テクノ・リサイタル」に。ちなみに、はじめのころグループ名は「高橋幸宏とクールファイブ」とか「高橋幸宏とピチカート・ファイヴ」とか言ってたんだけど、それじゃ違うバンドだと却下され(笑)、結局、「高橋幸宏とメタファイブ」に落ち着きました。アルファベットにしたときの絵面がよくてね。

 1日限りの企画ライブだったはずなんですけどね。その後いくつかの音楽フェスなどに出演して、2015年になってバンド名を「メタファイブ」に改名し、活動を続けることにしました。

――新年早々、アルバム「META」もリリースされました。

 じつは、アルバム作ろうって誰が言い出したのかナゾなんです(笑)。なんとなく走り出して、データのやりとりがどんどん始まって。1曲目の「Don't move」は、最初に小山田くんがメロディーもない簡単な骨組みを作り、それにLEOくんがAメロと歌詞を加え、Bメロと歌詞のイメージをテイくんがLEOくんに伝え……という具合に、どんどん曲ができ上がっていった。横で見ていて「すごいなぁ」と、他人事みたいに感心していました(笑)。

 これまでたくさんのバンドを作りましたが、いつも僕がプロデュースの中心にいなければならなかった。YMOのときだって僕以外の二人に任せるということはなかった。こんなに任せきりのバンドって初めてなんです。ルーツはYMOでも、それぞれが自分たちなりの進化をしてスタイルを築き上げてきた連中なので、自然と役割分担が決まり曲ができていく。でも、本人たちも驚いている部分はあるみたい。いい意味で、あんなに暑苦しい勢いのあるアルバムになるとは誰も思っていませんでしたから。メタモルフォーゼ、つまり突然変異がどんどん起きて進化していく様を目の当たりにしました。

――これからについてお聞かせください。

 いつも新しいことをやりたいな、とは思っています。昨年は28年ぶりに別のアーティストのドラマーとして、ラヴ・サイケデリコの全国ツアーもやったしね。体力的には大変だったけど、楽しかった。でも、そうは言ってももうあまり時間はない。僕が還暦を迎えたとき、細野さんから「65歳までは保証する。でもそれを超えるとつらいよ」と聞かされたんです。ビートニクスのアルバムも10年ごとに作ってきましたが「もっと急がなきゃ」って慶一と話しているし、久しぶりに知世ちゃんに会ったら「pupaは?」って聞かれてやらなきゃと思ってるし(笑)。国内外からフェスなどのオファーも来ていて、やりたいこと、やらなきゃいけないことがまだまだたくさんある。限られた時間の中で、いろんな人たちとどんどん新しいことに挑戦したいとは思っています。

 でもなぁ、細野さんは65歳過ぎてもめちゃくちゃツアーとか精力的にやってる。残された時間がないって、いまいち信ぴょう性がないですよね(笑)。

  ◇

高橋幸宏(たかはし・ゆきひろ)
1952年生まれ。サディスティック・ミカ・バンド解散後、サディスティックスを経て78年、細野晴臣、坂本龍一とともにイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成。83年「散開」。ソロとしては現在までに通算23枚のオリジナル・アルバムを発表。また、ソロと併行して鈴木慶一(ムーンライダーズ)とのザ・ビートニクスとしても活動。2001年、細野晴臣とスケッチ・ショウを結成。07年、小児がんなど病と闘う子どもを支援するコンサートに、スケッチ・ショウ+坂本龍一のユニット、ヒューマン・オーディオ・スポンジ(HAS)で出演。同年、原田知世、高野寛、高田漣、堀江博久、ゴンドウトモヒコとともにpupaを結成。08年から毎年、野外夏フェスイベント「ワールドハピネス」のキュレーターをつとめている。14年、小山田圭吾、砂原良徳、テイ・トウワ、ゴンドウトモヒコ、LEO今井とともに、高橋幸宏&メタファイブを結成(15年、メタファイブに改名)し、16年1月にアルバム「META」をリリース。

高橋幸宏オフィシャルサイト:http://www.room66plus.com/

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