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7月16日(火)付け上毛新聞に、今年の12月に前橋文学館で矢頭右衛門七の企画展が開催されるという記事が載っていました。
なぜ、矢頭右衛門七なのかというと、前橋文学館の近くの大蓮寺に右衛門七の母の墓があるからということです。
記事には、
>右衛門七の死後、母るいと妹3人は縁戚に当たる松平家の家臣団に身を寄せた。松平家の前橋転封(1749年)に伴い前橋に移ってきたとみられ、3年後に死去し大蓮寺に眠っている。るいの墓は1945年の前橋空襲で破損したため、戦後復元した墓とともに敷地内に安置されている。
とありました。
恥ずかしながら、全て初耳でした。赤穂から遠く離れた群馬県に、右衛門七のお母さんのお墓があったとは。(^_^;
今日、前橋で仕事でしたので、早速そのお寺に行ってきました。
元の墓石はかなり破損していました。この墓石の奥に、戦後復元された墓石も設置されていました。写真の右側が元の墓石、左側が復元された墓石です。
新聞記事にある「松平家」について調べてみますと、この家は松平大和守家で、家康の次男結城秀康の血筋です。以下のように転封を繰り返しています。こんなに国替えがあってはさぞ大変だったことでしょう。
寛永元年(1624)越前勝山3万石→寛永12年(1635)越前大野5万石→正保元年(1644)出羽山形15万石→慶安元年(1648)播磨姫路15万石→慶安2年(1649)越後村上15万石→寛文7年(1667)播磨姫路15万石→天和2年(1682)豊後日田7万石→貞享3年(1686)出羽山形10万石→元禄5年(1692)陸奥白河15万石→寛保元年(1741)播磨姫路15万石→寛延2年(1749)上野前橋15万石→明和4年(1767)武蔵川越15万石
矢頭右衛門七の親類書に依れば、右衛門七の父も父方の祖父も赤穂浅野家の家臣ですが、母方の祖父の中根弥兵衛(も祖母の父の古田五郎右衛門も)は松平大和守の家臣です。
赤穂事件の起こったとき、松平家の領地は陸奥白河ですが、右衛門七の生まれた貞享3年の4年前までは播州姫路を領していますので、播州赤穂の矢頭家と播州姫路の中根家とは、この頃に縁ができたのでしょうかね。全くの推測です。
そんな縁で、右衛門七が切腹した後、右衛門七の母や妹は松平大和守に仕える縁戚に身を寄せることになったのでしょう。そして、松平家の転封に伴って前橋に移ってきたものと思われます。
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寺の解説板に依れば、右衛門七の母が亡くなったのは、松平家の前橋転封の4年後の宝暦2年(1753)で、享年85とのことです。逆算すると寛文9年(1669)の生まれとなります。
そうすると、元禄15年(1702)の討ち入り時、右衛門七の母は34歳ということになります。映画やTVドラマでは、右衛門七の母は高齢に描かれることが多いようですが、実際は結構若かったのですね。
討ち入り後17人の浪士を預かった細川家の堀内伝右衛門の筆記『赤城義臣対話』には次のような記事があります。
>(矢頭右衛門七の)叔父ハ越後之太守松平大和守様御家中ニ居申候。是ニ母を預候て母子をも道中荒井迄参候処、若輩と申初旅故女切手を持参仕候事を不存荒井より立帰申候。
この「叔父」というのは、右衛門七の母の弟ということになりましょうか。当時この松平家は奥州白河を治めていましたので、文中に「越後之太守」とあるのは不審です。
これも、映画やTVドラマでは、右衛門七は母を連れて江戸へ下る途中、路銀が尽きて難儀するという風に描かれることが多いのですが、実際には、江戸ではなく、奥州白河までお母さんを連れて行こうとしたようですね。
そして、女性の旅行には特別の道中手形が必要だったのに、歳が若かった右衛門七はそのことを知らず、東海道の荒井の関所を越えることができずに、そこから大坂に引き返したもののようです。
>>1
江戸時代の人の動きはなかなか把握しにくいのですね。
国学者も、学問的なつながりは師弟関係だけではないので、思いもよらないところにつながりを発見することがあります。
それにしても、源さんの赤穂浪士の追っかけっぷりには脱帽致します。
>>2
晴南さん
コメントをありがとうございます。
本当に人の動きや繋がりは興味深いです。上代では史料も限られていますが、近世になると夥しい量の史料が残っているでしょうから、今後も新しい発見が期待できますよね。
期待できるといいますか、そのためには地道な努力が必要なわけですよね。晴南さんはそういったお仕事にも従事されていらっしゃるわけで、頭が下がります。
もうだいぶ前ですが、細川家では、預かった浪士達の切腹の後、幕府から庭を清めるための役人が派遣されたとき、当主細川越中守が言ったという「ここで果てた勇士達は当家の良き守り神なので清めるには及ばない。そのままにしておくように」という言葉を書きました。
それに晴南さんが興味を示されましたね。
あの言葉はNHKの「その時歴史が動いた」で知ったものでしたが、今回、矢頭右衛門七のことを調べていて、越中守の言葉の出典が見つかりました。
1で引用したのと同じく、堀内伝右衛門の筆記『赤城義臣対話』に次のようにあります。
>扨後に場所清メ申ため真蔵院へ御奉行所より申参候得共、不能其儀候。尤達御聴候得は夫ニ及不申。其儘召置候へ。十七人の勇士共ハ御屋敷の能キ守神と被為思召候との御意承候。
この少し後には、
>其後御心安キ御客様御出之節、切腹の場所を名所にて候と御挨拶被成候と及承候。真蔵院は御清メさセ不被遊候をいな事と申而江戸中の沙汰広く奉誉候と承候事。
ともあります。この屋敷に心やすいお客様(多くは大名仲間でしょうね)が来訪したとき、越中守はこの庭を自慢したということでしょうか。
>>3
お答えになるかどうかわかりませんが、細川幽斎の400年忌に細川家から青竜寺城以来の家臣団と、田辺城以来の家臣団にご招待があり、青竜寺城以来の家臣団に属する我が家からは主人と私が出席しました。
この時、同席した方の中に、この赤穂浪士の介添え役を務めた家の子孫という方がいらっしゃいました。
細川家が赤穂浪士の方々を預かったことを不名誉と考えていたりするなら、こうした方が遠忌に招待されるはずはなく、伝承のニュアンスはどうであれ、細川家が赤穂浪士を大切に思っていたことは間違いないように思います。
>>3
高輪に切腹の地が残されてますよね。よく花が手向けられてます。
そこは背後が崖になっていますし、木も茂って薄暗いところです。
切腹の絵図や、細川家高輪邸の図面もあって、もう少し広い場所のようなのですが、現場からはいまひとつ切腹の場面が浮かばないんですよ。
>>5
惟光さん
コメントをありがとうございます。
これですね。泉岳寺からほど遠からぬ所にある。
戸が閉められていて、まだ中に入ったことがなく、残念です。
花は、戸のあたりに手向けられているのでしょうか。
>>6
中には入れませんけど、塀に窓が開けられていますので、そこから撮影しました。(^_^)
冬でしたので、いちょうの葉っぱが散り敷いていて、ちと季節外れですが。
庭の一部だけ切り取って保存しているのでしょうね。向こう側は中学校ですよね。
崖というのはどちら側になりましょうか?
>>7
塀の向こう側ですね。
中学校が一段下にあるので、崖(急斜面)になっています。
図面だとこの崖がはっきりわからないんです。
だから、白州のような広い空間を考えがちなのですが、建物と庭と地形から判断すると、そうではないような……
ということで。
>>8
惟光さん
早速にありがとうございます。
なるほど。塀の向こう側の中学校は、同一平面上ではなくて、低くなっているのですね。
塀の窓から覗いたくらいでは、なかなか分かりません。今度、そのつもりでまた覗いてみます。
中学校側から覗いてみたい気もしますが、学校の敷地に侵入するわけにもゆかず、我慢しています。(^_^;
>>9
正面から右手方向突き当りを左折するのが中学校の敷地に沿った道で、金網なので中が見えますよ。そのまま直進すると細川家高輪邸に生えていた椎の大樹が残ってます。その脇の階段を下りると東京メトロ白金高輪駅です。中学校越しに切腹跡地が望めますが、森にしかみえません。
>>10
惟光さん
ありがとうございます。
今度探索してみます。
中学校の方を眺めるときは、不審者として通報されないように気をつけながら。(^_^;