教師が授業で必要な専門的な力や基礎訓練とは何か

 教師は授業者としての専門的な力をもっていなければならない。
 教師としての専門的な力を持っていることによって、教師は授業をつくり出すことができ、授業のなかで、どの子どももが持っている可能性を豊かに引き出すことができるからである。
 教師がそういう専門家となるためには、専門家としての基礎訓練を受けなければならない。
 一般教養とか教材に対する専門的な力を持っていることはとうぜんとした上で、さらに具体的に仕事をする上に必要な、授業の一般的な原則とか技術とか方法を身につけていなければならないことである。
 さらに必要なことの一つは、具体的に子どもと対面した場合の教師の豊かな表現力である。自分の持っている内容とか子どもに伝えたいものとかを、身体とか声とか表情で十分に表現できるということである。
 そういう力が教師にあったとき、授業は豊かになり生きたものとなる。子どもたちは授業のなかに全心身ではいってくるからである。
 いままでの教師は、大学においても現場においても、専門の教師としての技術とか、技術にともなう表現方法とかを専門的に訓練されるということはなかった。
 やはり教師は、技術や表現方法の基礎訓練を大学や現場において受ける必要がある。そうでないと、教師にどんなねがいがあっても、授業は貧相で形式的なものになり味気ないものになってしまうだけである。
 そういう意味で島小学校の教師たちは、自分たちの一般教養を高めたり、人間を豊かにする努力をするとともに、自分たちを解放された表現の豊かな人間になるための努力をした。
 授業実践をし、授業研究・教材研究をするとともに、職員合唱をやったり、職員演劇をやったり、舞踏をやったり、歩く練習をしたりした。朗読とか話し方とかの訓練もした。また、絵や文章をかいて、その合同批評会をしたりもした。
 たとえば、音楽に合わせて、教師全員がいっしょに前後左右に動きながら、さまざまの表現をする練習をする。演出者の指示で教師は表情をさまざまに変える。そこには少しの恥じらいも、てらいもない。外が暗くなるまで練習をした。
 舞踏とかステップとか歩く練習とかは校庭でもした。先生たちが全力をあげて表現している姿から、子どもたちもまたさまざまなものを学び、自分たちを解放していったわけである。
 教師はそういうことができてはじめて解放されていくのである。解放された人間になったとき、授業での自分の表現を豊かで自然なものにしていくことができるわけである。
 またそういう授業をすることによって、さらに表現力も身につき、解放された生き生きとした教師になっていくわけである。
(斎藤喜博:1911年-1981年、群馬県生まれ。1952年に島小学校校長となり11年間子どもの可能性を引き出す学校づくりを教師集団とともに実践し、全国から一万人近い人々が参観した。退職後全国各地の学校を教育行脚、「教授学研究の会」を主宰した。多くの教師に影響を与えた昭和を代表する教育実践者)

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子どもたちは自立心と友だちをつくり助け合うことの喜びと大切さに気づいてほしい

 私は1944年に軍人としてフィリピンに着任し、終戦(1945)後も潜伏していたフィリピンのルバング島から1974年、53歳で日本に帰国した。日本はすっかり変貌して知らない国のようだった。
 どんな仕事をしてよいかわからずにいたとき、ブラジルに移住していた兄から「牧場をやらないか」と勧められた。ルバング島30年の体験で、熱帯の風土や気候は肌で知っている。自然と牛が相手なら、人間関係に悩むこともないだろうと考えてブラジル移住を決めた。
 簡素な木造の家には電気も通っていなかったが、寝る間も惜しんでブルドーザーを運転し、ジャングルを開拓した。現在、私の牧場は牛を1800頭を飼育している。
 牧場経営が軌道に乗ってきたとき、日本の少年犯罪が多発していることを新聞で知り「日本の子どもたちは追いつめられている。このままでは日本がダメになる」と考えた。ブラジルの牧場経営は私がつきっきりでいる必要はなかったので、1984年に日本に帰り、富士山麓で子どもたちのキャンプ場を開いた。
 私は子どものとき、親に反抗し、困らせてばかりいた。私に子どもを指導する資格があるとは思えないが、自然のなかでサバイバル技術と知恵なら子どもに授けられる。この自然塾での子どもの指導は私の人生の最後の仕事となった。
 キャンプは小学三年生から中学生まで約80人。三泊四日と六泊七日のコースがある。一人で生き抜くつらさ、困難、寂しさ、友だちをつくり助け合うことの喜びと大切さに気づいてもらうことが目的だ。
 キャンプで火をおこし、森にある道具だけを使った牛肉の燻製づくり、ナイフやロープの使い方、北斗七星やカシオペアの位置から時間を計る方法などを教えている。
 もちろん、どのグループの指導も順調にはいかない。年長の子が年少の子の面倒をみようとしなかったり、衣服が汚れるから地べたに座れない子もいる。それに、友だちをつくるのが下手だ。
 親が子どもをペットの犬をかわいがるように子どもを育てていると、子どもは増長する。犬は成犬になってからの調教は難しい。待て、座れ、お預けは子犬のときに教え込むしかない。叱られたことのない犬は、自分をその家の権力者だと勘違いし、気にくわないと飼い主を噛むようになる。
 暴力や学級崩壊は、秩序や礼節が欠落してしまった家庭の破綻の延長線上にあるのではないか。犬も人間も、しつけができていないと手に負えなくなる。怖いもの知らずがいちばん怖い。
 キャンプでは腕力や気の強さの違いがすぐわかり、強い子が弱い子をたたく心配も出てくる。私はキャンプの初めに「自分がされて嫌なことは他人にしないこと。他人をたたけば、その子は私たちスタッフに強く叱られても文句は言えないよね」と必ず話している。
 教師は人にやさしくしなさいと教えるが、強くなければ、やさしくはできない。寒い山の中で凍えている人に自分の上着をかけてやるのはやさしい行為だが、上着を脱いだ自分はさらなる寒さに耐えないといけない。「頑張れ」と言葉で励ますだけなら、見物人と同じである。
 私はジャングルで一人だったが、子どもたちには、手を伸ばせば手をつないでくれるかもしれない仲間がいる。サバイバルのいちばんの術は、自立心と仲間・友だちなのだ。
 私は今年、80歳を迎える。私の人生はすでに一回、減価償却してしまった。小学校の同級生も三分の一は戦死した。私は何かのはずみで死なずにすんだだけで、残りの人生はもうけものだと思っている。もうけは独り占めにするのではなく、子どもたちに返したい。
 松下幸之助さんは、かつて成功の秘訣を聞かれ「成功するまで続けること」と答えた。私が子どもたちに伝えたいこともこれである。
(
小野田寛郎:1922年-2014年和歌山県生まれ、1944年陸軍軍人としてフィリピンのルバング島に着任し1974年に帰国した。半年後ブラジルに移住して牧場を経営。少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛め、健全な日本人を育成したいと、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰。自らの密林での経験を元に逞しい日本人を育成するとして、講演会や野営等を行った)

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けんかでケガをさせたのに、加害者の親が被害者の親に謝らないとき、どう対応すればよいか

 子どもがけんかでケガしたときに、学級ごとに対応がばらばらなことがある。不公平な対応と親が感じれば問題が大きくなってしまう。トラブルがあった場合、対応マニュアルをつくっておき、教師相互の共通理解を図っておくとよい。
 学校であった事件は、その日のうちに担任は管理職と一緒にケガをさせられた子どもの家にお見舞いに行くことが必要だ。指導が行き届かなかったことを丁寧に詫びれば、親に学校の誠意が伝わるはずだ。この初期の対応が遅れると「なぜ、ケガをさせた子どもの親が謝りにこないのだ!」と、問題が広がっていく。
 ケガをした子どもの、傷ついたという事実にきちんと目を向け「辛かったね」などと優しく声かけしてあげよう。子ども自身が教師や友だちから大切に扱われていることを実感できれば、教室でのトラブルも減り、親の信頼感も高まるだろう。
 けんかでわが子をケガさせられてうれしい親はいない。傷つけられたことに怒るのは当然といえる。「お怒りはもっともです」と親の心情に訴えながら、まず、親を落ち着かせてから話し合うようにする。「これからどうしましょうか」と、親が自ら今後の処理について言い出すように話を進めていく。
 子ども同士の関係修復を第一に考えたい。子ども同士の関係修復を第一に考えるという方針が円滑にすすめば、親の騒ぎはしぜんに収束に向かうことになるでしょう。そのために、たとえ不満があっても相手を傷つけてしまったことに対してだけば謝らせ、一応のケジメをつけさせる必要がある。
 ケガをさせた方の親に事件の内容、子どもへの指導、被害者の親に対する学校の対応を説明する。ケガをさせられた相手の親に謝るよううながしても、電話も謝りもしないときがある。
 よくあることだが、学校での出来事と子どもが家に帰ってから親に話すことが食い違っていることがある。また、本当の被害者は暴力をふるった子どもであることも多い。
 謝らないのは、きっとその親にはなにか納得できない理由がある。担任の指導や対処の仕方、けがをさせた子どもとの過去のかかわり、これまでわが子の扱いへの不満など、納得できないことがあって、謝れないのかもしれない。
 まずは、なぜ謝りたくないのか、素直に理由を聞いて、それを確かめる。事実の認識に食い違いがあれば、その親の視点も取り入れて事実の再調査をする。食い違いがあれば、それをただすだけで、ある程度問題は解決する。
 学校での事件でも、傷害事件は親にも責任があり、治療代など負担することが原則であることを説明する。対応を誤り、被害者が警察に届けたり、民事裁判になって莫大な費用と時間がかかったりした事例を紹介する。また、事件になると、子どもを傷つけることにもなる。電話や文書、訪問による謝罪や弁償が大切であることを説明する。教師も謝罪に同行してもよいと提案する。
 校内で起きたことは学校に管理責任がある。両方の親へ監督不行き届きの点を詫びることで、担任もケジメをつけなければならない。暴力を誘発するような周りの子どもたちの言動など、問題があれば、それに対する指導の方針も親に知らせながら取り組んでいく。担任の姿勢に納得すれば、加害者の親もけがをさせたことに対して被害者に謝るだろう。
 子どもが事件をおこしたとき、親が謝罪する姿をわが子にみせれば、子どもは事件の重大さに気づき、子どもなりに「すまない、もう二度としない」と心に誓うようになる。家族のきずなが、わが子が再び過ちを起こさないための最大の抑止力になる。
(
家本芳郎:19302006年、東京都生まれ。神奈川の小・中学校で約30年、教師生活を送る。退職後、研究、評論、著述、講演活動に入る。長年、全国生活指導研究協議会、日本生活指導研究所の活動に参加。全国教育文化研究所、日本群読教育の会を主宰した)

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教師の遊び心が子どもとの距離を縮める

 教師の遊び心が子どもとの距離を縮めると斎藤修、篠崎純子はつぎのように述べています。
 子どもたちは、いろんなことで傷ついています。だからリハビリ期間が必要なんだと思うんです。そして、こんなに傷ついていたんだというのが分かれば、教師にも余裕が出てきて、遊べます。
 例えば「タイムぴたり賞」などと名前をつけて、どのグループが決められた時間にピッタリ来るか、作戦を立てて競わせる。あるいは、何歩で歩いて来るか、誰が一番少ない歩数で来るかとか。
 あるいは三分で終わるゲームを用意する。早く終わってしまうので、遅れて来た子には「ああ、惜しかったね、三分で終わっちゃった!」
 そういうふうに、ありとあらゆる方法を試す。ピッタリうまくいくのは少ないのですが、だけど何かは出てくる。
 掃除が早く終わったら「五分で読める怖い話」を読んであげたり。教師というのは、日々子どもと接しているので、遊び心をどれだけ持っているかというのもすごく大事だと思います。例えば教室に入るのもどうやって入るとか。でもその遊びって、自分が楽しいことをやる。
 なんといっても、相手は子どもだから、言葉だってボケてくれる。そこに突っ込む楽しさだとか、教師の遊び心が子どもとの距離を縮めてくれるんですよね。また管理的な学校に風穴を開けることにもなるんですね。
(
斎藤 修:千葉県公立小学校教師、篠崎純子:神奈川県公立小学校教師 ともに全国生活指導研究協議会常任委員)

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怒鳴り込まれたら勝ちと思え

 私はよく、「カウンセラーをしていて怒鳴り込まれたら勝ちと思え」と言っています。怒鳴り込みに来られたら、じつはこっちの勝ちなのです。
 どうしたらいいと思いますか。そういうときは、一生懸命、話を聞いたらいいのです。なかでも一番大事なのは「腰をすえて聞く」ということです。相手は怒りに来ているのですから、どうしても話が堂々巡りになる。
 ところが、相手の言い分をじっくりしっかり聞くということをこちらがやると、相手はもともとこころの底のほうでは自分はおかしいと思っているわけですから、ワーッと言っているうちに、だんだんわかってくる。そういう人は多いのではないでしょうか。
 相手がいかに怒っていても、どういう状態であっても、そこにちゃんとした土台をもった関係ができるということが、すごく大事なことなのです。カウンセラーというのは、人間関係や、関係性というものについての専門家であるといっていいのではないかと私は思っています。
 ある教育長さんから聞いて私はびっくりしたのですが、ある高校で援助交際をしている子がいることがわかりました。その子は担任の先生からすごく叱られて、泣いて家に帰りました。
 すると、その子の母親が校長室に怒鳴り込んできて「うちの子が入学したときに、校長先生は、一人ひとりが自分の個性を大事にしてくださいと言われたでしょ。うちの子はその通りにやっているのです。頭のよい子は学力で勝負しているでしょうが、うちの子は美貌で勝負しているのです。どこが悪いのですか」と言われた。
 その校長先生は素晴らしい人で、そのお母さんに「ああ、そこまで個人というものを大事して、子どもさんのことを考えておられるのですね」と言ってお母さんの言うことを聞いておられた。
 カンカンになって怒っていたお母さんが、そのうちに「校長先生、ほんとにうちの子を躾けるにはどうしらいいのでしょうか?」と、ころっと変わってきたそうです。本当はそのお母さんも、どうしたらいいのかと困っていたのです。困っているのだけれど、よくわからないから腹が立つのですね。
 自分の言っていることがおかしいというのは、こころの底ではわかっているのです。そこでじっくり話を聞いてみたら、そこに関係ができる。これがわれわれカウンセラーにとって非常に大事なことではないかと思います。
 日本人はこれまで、物がないためにみんなで分け合って生活してきた。寒くても暖かい場所は一つしかないので、そこに集まって生活せざるをえないとか、なんとなく、みんなが一体感のある関係をもって生きていくようなシステムがありました。日本的な人間関係を意識してみんながなんとなくつながっていました。
 ところが、今、そのシステムが急に変化して、日本人の生き方が根本的に変わってきたのです。家のしがらみが嫌になった。みんなが関係を切るほうに一生懸命になり、個人主義が利己主義になってしまった。「これからどう生きていくのか」というものすごく難しい問題を、今の日本人が背負っているのです。
 人間関係が急にギスギスしてきて、関係性がどこにもなくなってしまい、ぽんと孤独になるような人が出てきます。そういう苦労をしている一人なのだから、わけのわからない人とかいうのではなく、「絶対に役にたつのだ。私の前に来たこの人の人生に、意味のある役に立つことをする。そのために自分はここにいるのだ」という強い信念をもち、この人にどういう援助ができるのか、ということをじっくり考えていくと、最後には「ああ、やっぱり自分の家をなんとかしなければ」というふうに思ってくれると思うのです。
 意識して家族関係を維持しようという自覚や意識が足りなくて、本当は家庭教育でやるべきことを学校までもちこんできていることが多いのではないでしょうか。今の学校でたいへんなのは、家庭教育でやるべきことを学校でもやらねばならないということです。
(
河合隼雄:1928- 2007年、臨床心理学者。京都大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。日本における分析心理学の普及・実践に貢献し、箱庭療法を日本へ初めて導入した)

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教師に必要な力とは何か、教師の力は学級の雰囲気や子どもとの関係を決定する

 教師に必要な力について渕上克義はつぎのように述べています。
 教師の力は学級の雰囲気や子どもとの関係を決定するといっても過言ではありません。学級経営は教師のもつ力いかんにかかっているのです。
 教師がまじめで熱心でありさえすれば、学級経営や子どもとの関係がうまくいくわけではありません。親しみやすい受容的な教師であっても、専門性がなければ集団をまとめることは難しいでしょう。
 子どもを納得させて動かすには、教師の力とその適切な用い方が必要です。
 実際に教師はどのような力を用いながら子どもを動かしているのでしょうか。
(1)
専門性
 教師の持つ専門的な知識や能力。
(2)
準拠性
 教師の人柄や魅力などから生じるもの。
(4)
親近感・受容性
 教師の人間としての親しみやすさ
(5)
正当性
 組織の地位や役割などから生じるもの。
(6)
強制
 罰や叱責など。罰に対する恐れから表面的には服従させることができる。しかし、嫌悪感や反発心を抱かせやすい。
(7)
報酬
 ほめ言葉や励まし。
(8)
明朗性
 明るく朗らかなこと。
(9)
権威
 子どもを無視した権威的なふるまいは、多くの場合、子どもの反発をうむ。
 子どもからみた教師の力は、小学生の場合はまだ自我が十分でなく、教師に依存的です。教師の外見・容貌を重視しています。中学生の場合は、教師の明瞭性や親近感・受容性を重視し、教師の性格や教師との関係に注目するようになります。
 小学校、中学校を通して中位をしめているのが、専門性、明朗性、準拠性、親近・受容性、正当性です。
 子どもたちに良い印象が残っている教師は、専門性や親近・受容性が強くあって、しかも、この力の使い方がじょうずな教師であったといえそうです。
 これに対して、教師に悪い印象として心に残った教師は、専門性や親近・受容性の評価が弱い傾向があったようです。
(
渕上克義:1959年佐賀県生まれ、岡山大学教授。専門は社会心理学、教育心理学。集団や組織におけるリーダーシップ研究を行っている)

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保護者対応の鉄則とは何か

 保護者の意識はこれまでと明らかに違ってきています。教師はサービスの提供者で満足がいかなければ、クレームをつけるのは当然というわけです。保護者が理解者・協力者になってもらうには、信頼感を獲得するしかないと思います。
 
「しっかりとした実践をしていれば、保護者はわかってくれ、協力してくれる」と期待するだけではダメで、「適切に保護者に伝える」「保護者のニーズを実践に生かす」という対応が求められます。それも「先手の対応をしていく」ことが大事です。
 現代の教師は「保護者の信頼を勝ちとりながら実践をしていく立場になった」という認識が必要でしょう。
 教師と保護者が良好な人間関係をつくるためには、まず教師から保護者に「教育実践を伝える」、「保護者のニーズをつかむ」ことです。
 「教育実践に自分はどのように取り組むのか」を具体的に表明します。このとき、教師自身がどういう人間なのか、出身地、専門、家族、趣味、特技など保護者が教師を身近に感じられるような情報を伝えます。「先生は○○というタイプの人だから、あのような教育方針を持っているのか」と理解しやすいからです。
 日常の教育実践の様子や子どもたちの学級生活の様子は、定期的に伝えます。授業や休み時間の様子、給食のトピックスなど保護者は知りたいものです。
 学期や学年の終わりに、学習の成果などを数値化してグラフで示すと保護者は理解しやすいと思います。私が開発したQ-Uテストを用いると、子どもの学習意欲や友人関係などが数値化され全国平均とも比較できるため、妥当性のある目安となります。
 情報は全員の保護者に均等になされることが大事です。保護者会で説明するとともに、学級通信でも伝えることが肝要です。保護者が教師の方針、学級の様子、友だち関係などを知らないと、学級内の小さな出来事に対しても、教師への強い批判がでるおそれがあります。
 保護者は「自分の子どもが教師に常に気に留めてもらっている」ということで安心するものです。それが教師に対する信頼にもつながっていきます。連絡帳による欠席連絡は、今日一日の学級の出来事を家庭に伝えることで保護者は安心します。教師は気になっている、心配している、ということをそのままにしてはいけません。教師は電話で保護者にまめに伝えることが求められます。その際、最近の出来事、学級や子どもの様子を知らせたり、家庭での様子を聞いたりしてコミュニケーションをはかり、理解を深めていくことが大事です。
 教育実践や学級経営をより充実させるためには、子どもたちの実態やニーズ、保護者のニーズを的確に把握する必要があります。マッチしていなければ、かみ合わず、子どもにも保護者にも評価されません。
 学級通信で保護者からの感想や意見を呼びかける。保護者の参観する行事などでアンケートを取る。それらの結果を整理して、保護者の主要な要望を開示する。要望に対する対応、教師の考えを全体に伝える。要望を取り入れた実践の成果を学期ごとに全体に伝えるようにします。
 保護者会はいろいろな相手と情報交換ができるよう設定しておくとよい。事前に話し合いたいテーマを学級通信などで打ち合わせ、保護者の関心を高めておくのもよいでしょう。実際の話し合いでは、四人くらいに分かれて、フリートーキングで話してもらうと、会話も弾みやすくなります。その後、各グループで出た話題を全体に短く発表してもらい、その中のポイントを全体で話し合うのもよいでしょう。
 地域の保護者の人間関係が希薄化してきたので、教師は保護者の人間関係づくりをリードしていくことが求められます。保護者同士の人間関係が深まれば、学級のことに関心を持ってもらえますし、問題が起きたとき、話し合って解決していこうという雰囲気が生まれやすくなります。
 保護者が教師にクレームを言ってくる場合、不信感が伴い、感情が高ぶっていることが多い。ここで最も重要なのは、教師も感情的に対応してしまうといった事態にならないようにすることです。ポイントは教師の正当性をとにかく伝えようとすることではなく、保護者の不信感を払しょくし、子どものために「教師と保護者が協同して対応していく」ことを確認するために、話し合うことを意識して進めることです。その際、第三者の立場の人が話し合いの場をリードしてくれるとよい。
 まず怒りを静めなければ建設的な話し合いはすすめられません。そこで、保護者に言い分を十分に話してもらいます。途中で反論しないで一通り話してもらいます。その話を整理して「~のように受け取ったならば、不信感をもたれる気持ちはわかります」と保護者の怒りの感情を受け止めます。
 そうして、今度は教師が行ってきた対応を時間を追って説明していきます。弁明くさくなるのは禁物です。ポイントは解釈したこと、考えたこと、行動したことを識別して分析的に説明します。
 教師の説明を聞いても納得できない保護者も多い。どちらが正しいか白黒つけようという姿勢ではダメです。今後の協力が得られなくなってしまいます。
 そこで、教師は保護者に「どのような対応を期待していたのか」を質問します。教師が受け入れられない部分があれば、否定するではなく「他の子どもたちの○○という反発が予想されますが、どう対応すればよいのでしょうか」と謙虚に質問します。異なる考えを持つ子どもや保護者がいることを気づいてもらうようにします。
 保護者との意見の食い違いがあった場合は、今後、教師と保護者が連携して子どものためによりよい対応していくために何をすればよいか、という視点で話し合うことが求められます。
 教師と保護者が連携して対応する内容を確認していきます。経過報告は二週間おきぐらいが妥当でしょう。その後は問題が改善されるまで対応を続けていきます。きちんとした丁寧な対応をすることで、保護者の信頼を回復するという目的もあることを忘れてはなりません。
(
河村茂雄:1959年生まれ、早稲田大学教育・総合科学学術院教授。15年間公立学校教諭を経験した。学級崩壊,学級経営など教育実践に生かせる研究成果を多数提供している)

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いじめのおかげで私は成長した、人生の出発に年齢はない

 父は荻原朔太郎です。名の知れた詩人で、娘である私は何不自由のなく育ってきたと思われているようだ。しかし、家庭のぬくもりはまったくなかった。妹は五歳のとき高熱を出したが母は恋に夢中のため手遅れになり、知恵おくれの後遺症が残った。母は31歳のとき「子どもたちの犠牲にはなりたくない」と私と妹を捨て、家を出て恋人のもとへ走り去った。
 その後、祖母が母代わりなった。祖母は憎い嫁の子である私を恨み、毎日「虫けらにも五分の魂というが、葉子には一分の魂もない」、「お前は死ぬしか能がない」などと罵倒した。少女時代の私は、自分を虫けら、ダメな人間と決めつけ、毎日死ぬ場所をうろうろ探していた。
 私が21歳のとき父が亡くなった。父の死後、親族が家を乗っ取り私と妹は身一つで追い出された。
 私は職場結婚したものの、四畳半一間のアパートで内職をし、その日食べるだけで精一杯だった。貧困生活と夫の暴力に鬱々した暮らしに明け暮れた。やがて母は夫に捨てられ私が引き取った。母はわがままで脳軟化症となり妹とけんかをし、刃物が私の足元に飛んでくることもあった。母は夫とも刃傷ざたまで演じた。夫とは八年後離婚した。
 私は38歳から執筆活動を始めた。あの悲惨な少女時代を書かずに死んだら、それこそ虫けら以下、犬死にになってしまうと思った。虫けらにも取りえはあるはずだ。自分の体験を文学に昇華させ、完結させることが、私の人生の課題だと思うようになった。
 「蕁麻(いらくさ)の家」(女流文学賞を受ける)は、こうした私の小学校三年生から21歳のとき父が亡くなるまでの家族の出来事を題材にした小説です。蕁麻の葉と茎の毒のように、家族に毒のトゲを刺されて苦しむ少女のイメージを重ねて題材にした。
 この作品は悲惨で暗いのに、ベストセラーとなり、連日たくさんの手紙が読者から届いた。「自分と似た運命で感動して読んだ」「自分よりずっと困難ないばらの道を歩いてきた人がいることを知り、死のうと思っていたがやめた」という手紙が多かった。「親に反抗していましたが、反省しました」と書かれた小学生からの手紙もあった。
 自分を不幸だと思っている人が、自分よりもっと不幸な人の存在を知ることは魂の浄化になるようだ。この作品で私は自分を解放したが、お会いしたこともない読者のお役に立ったことを素直に喜んだ。
 虫けらはいつまでも虫けらのままではない。サナギになり、やがて蝶になる。私も作品を一つずつ仕上げることで脱皮していき、蝶に近づいていった。死ぬことばかり考えていた少女時代と比べれば格段の進歩である。
 私の信条は「人生の出発に年齢はない」である。実際、私が「蕁麻の家」を書き始めたのは四十代後半、猫を中心としたオブジェ創りは六十代半ばからで個展も開いている。
 人間はだれしも「楽」を望むらしいが、私は不思議なことに楽を追求したことはない。楽は人間をダメにする鬼門だと思っている。
 これまでの私は苦しみの連続で、今日の明るい自分など想像もしなかった。楽のできる環境だったら、このような暮らしは訪れなかっただろう。自分の能力探しや生き方も「蕁麻の家」が出発だった。その意味で父に感謝してよいのかもしれない。
(
萩原葉子:
19202005年東京都生まれ、小説家、エッセイスト。「父・萩原朔太郎」で日本エッセイストクラブ賞を受賞、「天上の花」で田村俊子賞、「蕁麻の家」で女流文学賞を受ける)

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教室に「お笑い」を持ち込むと子どもは失敗を恐れなくなります、「なんか楽しい」という感覚が学びのベースになる

 「教室は間違うところだ」と教室に掲示しても、なかなか子どもたちには届きません。しかし、私が得意とする「お笑い」を教室に持ち込めば、子どもたちは失敗を恐れなくなります。
 たとえば「お笑い、お絵かきバトル」というゲームです。教師が「ミッキーマウス」「サザエさん」などのお題を一つ出します。子どもたちは、その絵を一分間で描くだけ。ウケを狙わないのがポイントです。その方が結果として面白い作品ができあがります。
 これだけのネタですが、大爆笑の作品が次々と完成します。そして、その大爆笑の作品を子どもたち同士で見せ合って、ツッコみ合います。
 これは、いわば失敗を楽しむ遊びです。サザエさんが上手に描けないからって、傷つく子はいませんからね。
 こういう失敗をくり返すことで、失敗が怖くなくなります。失敗を笑い飛ばせるようになるのです。こういう失敗を楽しむ遊びを教室で試してください。
 教師に向いているのは、サービス精神が旺盛な人です。子どもを喜ばせるのが好きな人は、間違いなく教師向きの性格です。子どもが成長したり喜んだりすることに充実を感じるのが教師という人種だと思います。
 だから、私は最近「私が楽しいのが一番だ」と強く思っています。教師が楽しいと感じているときは、子どもたちも楽しいに決まっています。だって、私が楽しいのは、子どもたちが楽しいから。そして、教師が楽しそうだから、子どもたちも楽しいのだと思います。ものすごくいいサイクルになっていますね。
 授業でも、「なんか楽しい」という感覚が大切だと思っています。「なんか楽しい」という感覚が学びのベースだと思います。
 学力テスト対策で、多くのプリントばかりをこなす授業。そんな授業に楽しさはないですよね。「なんか楽しい」という感覚のない子どもたちは、いつか学ぶを止めてしまうのではないかと心配しています。
 学びのベースである「なんか楽しい」という感覚を大切にして欲しいと思います。
(
中村健一:1970年山口県生まれ、山口県岩国市立小学校教師。授業づくりネットワーク、お笑い教師同盟などに所属。笑いとフォローをいかした教育実践は各方面で高い評価を受けている。 また、若手教師を育てることに力を入れ、多くの学生に向けて講演も行っている)

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笑顔は教師を変え、子どもを変える。教師が変わろうとするかしないかで教師の成長は大きく差が開いていく

 私が大切にしたいと考えていることは「教師自身が変わろうとする力」です。このことを「教師の笑顔」を例にとって考えてみます。
 教師を続けていると「いつも笑顔でいること」のむずかしさを痛感することがあります。正直に言えば、教師が毎日、笑顔でいるのはきつく、簡単なことではありません。決して笑顔で笑えないような状況に陥ることがあります。私が新任教師のころ、本当に仕事がつらく、辞めようかと思ったことが少なくありませんでした。
 「いつも笑顔でいること」を心がけるには、つらいことや苦しいことに対して意識して自分を変えていく必要があります。笑顔でいることができる状況にするということは、日常を変えるということにつながります。そのため「いつも笑顔でいること」ができるように、自分の生活を見直してみることはとても大切なことであり、それが教師として成長につながっていくと考えます。
 私は辞めようかと思ったときに、何がつらいか考えてみました。生活を一つひとつ見直していくうち、通勤時間が長いことに気がつきました。バス通勤でしたので、椅子に座ることができるバスに変えました。そこで読書をするようになりました。読書で私は様々な人に出会うことを通じて、私の表情は笑顔になり、今の私につながりました。
 私の話はちょっとしたことかもしれません。しかし、笑顔になるために毎日の生活を見直し、それを続けていくだけで実は大きな変化があります。
 少し笑ってみてください。子どもたちも笑顔の先生が好きです。子どもたちが自然と集まってくるはずです。笑顔がある日常にすることは、実は教師を変え、子どもを変える第一歩になるのです。
 変わろうとするかしないかで、教師としての成長は大きく差が開いていくのではないかと考えています。
(
長瀬拓也:1981年岐阜県生まれ、横浜市立・岐阜県公立小学校教師を経て岐阜県公立中学校教師。2004年に「第40回わたしの教育記録」で新採・新人賞を受賞。NPO法人「授業づくりネットワーク」理事、教育サークル「未来の扉」代表代行、『教師になるには』編集代表、クラス・マネジメント研究会代表)

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思春期の子どもとのコミュニケーションはどのようにすればよいか

 思春期の子どもとのコミュニケーションの取り方について月村祥子はつぎのように述べています。
 私は臨床心理士の資格を持って少年相談専門職員ということで相談をお受けしています。相談は、親、子ども、学校関係者などが自主的にお見えになり、中学生・高校生についての相談が主になります。
 思春期は自立に向けて親離れ子離れという時期で、一時的に親子関係が悪くなります。友だちのほうが大事になります。
 思春期の子どもとのコミュニケーションの取り方として注意することは、たとえば「何々しなさい」とか「どうせこうだろう」という命令口調や断定的な言い方や上から目線でものを言うようなことは気をつけていただきたい。
 可能であれば「どう思う?」というようなことを言って、子どものほうが多く話すような環境をつくる。
 あとは、過去の話を持ち出さない、だらだら話さない、短くわかりやすい言いまわしをすることなどが大切だと思います。
 それから、子どもの要求を予測して親のほうが振り回されないようにします。思春期の子どもというのは「携帯を買ってくれないと学校へ行かない」と、親がドキッとするようなことを言うんですね。そこで「それは別のことでしょう」とうまくかわしたり、ユーモアで返すというようなことをしていただきたい。
 子どもと適度な距離を保つことも大切です。
 話をしていて子どもがイライラしてきたら、やめて親がその場からいなくなるというような、親が引くことも大切だと思います。また、別の機会に同じことを話すようにします。
 話し合いというと対話をしなければと思いがちですが「とりあえず言っておく」ということも大事なことだと思っています。子どもは言われると「ウザい」と言うのですが、言わないと「言われなかったからやらなかった」と言います。ですから、子どもがゲームをやっている後ろ姿にでもいいから「とりあえずこうだよ」と伝えておく。そして、あとで考えさせる。そういう距離を保ったつき合い方ができればいいと思います。
 注意などはメールで伝えて、顔を合わせるときは楽しくする。メモで置いておくなど、いろいろ工夫をしていただきたい。
 思春期の子どもなので、その子なりのプライド、落としどころを考えておく、ということも大切です。家出した子が「帰ってきてやった」という態度を示したりしても、気にしないで、いまはそうなんだろうと受け止めていただく。
 やはり大人のほうが、なるべく先入観を持たずに広い視野に立って、プラスの解釈をしてあげるということ。それから、子どものした「わずかなことでも評価して努力を認める」こと、自己肯定感を持ってもらうこと、失敗したことを怒るよりは、次に失敗しないような方法を考える、などが、できればいいと思います。「悪いところをなくすよりは、いいところを伸ばす」ほうが早いと感じています。
(
月村祥子:警視庁巣鴨少年センター少年相談担当主査を経て東京都世田谷区役所教育センター 総合教育相談室主任教育相談員)

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子どもが教えてくれたいじめの実態と解決策

 私はわが子をいじめ自殺から守れませんでした。私がいじめの問題に向き合うようになると、わが子の痛みを理解できるようになり、今の子どもたちが同じ苦しみを抱かえ生きているという現実を実感しました。
 いじめ対応は非常に難しいというのが私の実感ですが、わが子を守れなかった自分の失敗の理由を探し、見つけ、それを生かす手段を探すようになりました。
 私はわが子からいじめを訴えられたとき「つらいけどその経験があなたを成長させるはず」と、今でこそわかるのですが、とんでもない的外れの励ましでした。いじめが発覚したら何をしたらよいのか、どういう方法があるのか、その知識を持ちあわせていなかったのです。
 いじめを解決しようとするとき、まず、いじめの事実確認を行なわなければなりません。
 いじめられている子はいじめられている事実を否定します。そのため「ちょっと聞いたんだけど大丈夫?」と尋ねることが非常に有効になります。
 子どもが「大丈夫です」と答えた場合は、いじめがあるか、何かあるということを意味します。というのは、子ども自身に心当たりが何もなければ「何のこと?」と聞き返してくるはずです。
 いじめ相談や告白をする子の多くは「大したことではない」と前置きしてから、話し始めます。これがいじめを受けている子の特徴です。つらく苦しい現実を「これはいじめではないんだ」と思い込むことで自分自身の心のバランスを保っているのです。
 親になぜ相談できなかったか子どもたちに聞くと「親に心配をかけたくない」「みじめな姿を親に見せられない」「相談してもどうせ解決できない」「親に相談したらもっと問題が大きくなるかも」「親が先生にいうかもしれない」と答えています。
 教師への相談は親への相談よりハードルが高いと感じる子どもが多い。
 いじめている子も、認めることはありません。いじめている子は、相手が嫌がるからこそやっているのです。いじめている子は自分が被害者になる不安をふっしょくするために、自分の立場の安定を図っているのです。
 私が学校で講演している時に、寝た振りをしたり、しゃべったりして講演を妨害しようとする子はいじめている子です。自分の行為がわかっているからこそ、その場にいることが嫌になるのです。
 周りの子も、「教師にチクッた」と思われたくないので否定することがあります。友だちを助けるということは、子ども社会では、次のいじめのターゲットになります。自分の身を守るためとはいえ、傍観者の子もつらい気持ちで過ごしています。
 でも実は、クラスの中で起きていることは、子どもたちは早い段階から知っているのです。ですから、周囲にいる子どもたちから、出所を明かさないと約束して事実を確認すると、意外な事実がわかるのです。
 子どもからいじめを相談されたとき、ささいな問題でも、よく耳を傾け、「そうなんだ」と復唱して、その思いを受け容れ「つらかったね」とその痛みに寄り添ってください。そして、早期に対応することです。いじめは命にかかわる問題なのです。子どもからSOSサインがあった時点で、その子は精神的にギリギリの状態まで追いつめられている可能性が高いのです。
 いじめている子どもは、実は心の痛みや不安を抱えていることが多いのです。自分のことを心配してくれ、愛される実感を欲しているのかもしれません。人は愛されてこそ人を愛することができるのだと思います。ですから、周りの多くの人たちからの愛情がより必要なのです。
 学校で講演するとき、教師に「いじめている子がいたら『どうしたの? 何かつらいことない? 聴くことしかできないかも知れないけれど、いつでも待っているよ』と、思いきり優しく関わってあげてください」と言います。本来、その子が持っている優しさを引き出す術を、私たち大人が見出さなければならないのです。
(
小森美登里:1957年神奈川県生まれ、1998年高校1年の娘をいじめ自殺で失う。2003年いじめ・暴力のない社会づくりのための「ジェントルハートプロジェクト」を設立し理事。いじめアドバイザーとして全国で講演)

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全国から一万人近い人々が参観した島小学校の授業とは

 島小学校では、授業の形態を「個人学習」「組織学習」「一斉学習」「整理学習」の四つにわけていた。
 授業は原則的にこの四つ形態を使って追っていく。しかし、どの教材の場合でも、この四つの形態を使って追っていくものではない。ある教材の場合は、一斉授業だけですますこともある。この四つの形態を使って追っていく場合は、その教材で徹底的に子どもと追究することによって、子どもたちの学習訓練ができると思ったときである。
 したがってそういう質を持った教材のときである。教材によって五時間かけることもあるし、10時間とか15時間とかかけることもある。そういうことがあるので、一年のうちに二回とか三回とかは、四つの形態をつかって授業をしていく。
 子どもたちは、四つの形態の学習の訓練を受けることにより、論理が強じんになり、追究力とか創造力とかも強いものとなってくる。教師も授業者としての強じんな力を持つようになる。
 そういう体験をしている教師や子どもは、一斉授業での、一斉指導や一問一答式の教師中心の授業でも十分に子どもたちは授業のなかにはいり、主体的に思考を働かせていくようになる。 
(1)
個人学習
 それぞれの個人が自分一人で学習し、一般的な基礎的なものを自分のものとする。自分一人でやる学習である。
(2)
組織学習
 自分一人の個人学習を、学級の仲間や教師とつなげながら、拡大したり深化したり、変更したりしていく。中心は自分にあるが、部分的であっても他の子どもたちと交流しながら自分の学習を深めていく。すなわちこの学習によって、学級全体の学習が組織されていく。
 四つの学習形態のなかで、もっとも時間をかけるのは「組織学習」である。この学習によって子どもたちは、自分自身の課題とか疑問とか考えとかを、自分のものとしてつくり出すからである。また、学級の他の子どもたちとも交流し、力を合わせ、自分の考えを変えたり、自分の考えを強固にしたりしていくからである。また、教師が一人ひとりの子どもや学級全体に、こまかい手入れができるのもこの時間だからである。
 授業においては、組織学習は重要で、もっとも力をつくし、時間も十分にとらなければならない。
 組織学習で子どもたちは、自分の疑問とか課題とかをつくり自分の考えをノートに書く。それをもとにして、さらに教師や友だちのところへ持っていって確かめ、自分の考えを変えたり拡大したりする。
 教師は一人ひとりの子どもが学習しているところへ行って、指示したりヒントを与えたり、課題や問題のつくれない子どもには、教師がヒントを与えたり、課題をつくってやったりする。また、同じ考えのものとか、反対の考え方とかを紹介してやり、その子ども同士がいっしょに考えるようにしてやる。意味のない問題をやっているときや、その段階で明らかにしてしまったほうがよい問題とかは、その子どもにはっきり言ったり、学級全体の前に出して解決してしまう。
 学級全体の子どもの学習の状況をみて、ここではっきりさせたほうがよいと思うことは、教師が全員にはっきりと説明する。
 これらの指導をしながら教師は、一人ひとりの子どもがどのような課題にとりくみ、どのような考えを出しているかを頭に入れる。そしてそれらを一つ一つ、つぶしたり発展させたりしながら、だんだんと学級全体の子どもの学習を整理し、学級全体で一斉に学習する一斉学習での、二つか三つの追究課題をつくりだしていくわけである。
 組織学習が終わりに近づくと、考え方や解き方のちがう幾人かの子どもを指名する。指名された子どもは自分の考え方や解き方を小黒板に書き掲示する。
(3)
一斉学習
 学級全体が一つの共通問題を対象にしながら追究していく場面である。
(4)
整理学習
 授業の全過程で追究し獲得したものを整理し、確実に学級全体や一人一人のものにする作業である。この場合は、単に獲得した知識や論理の結果だけでなく、追究の仕方とか、追究のすじみちでの問題なども考えられる。
(斎藤喜博:1911年-1981年、群馬県生まれ。1952年に島小学校校長となり11年間子どもの可能性を引き出す学校づくりを教師集団とともに実践し、全国から一万人近い人々が参観した。退職後全国各地の学校を教育行脚、「教授学研究の会」を主宰した。多くの教師に影響を与えた昭和を代表する教育実践者)

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教育の演出はどのようにすればよいか

 子どものなかにある可能性が、豊かに引き出され拡大していくように演出していかなければならない。目的や意図を持った演出でなければならない。
 教材や子どもは絶えず変化する。教材は子どもの変化に伴い、その価値、必要度が絶えず変化し流動していくものである。教材とか子どもに対する解釈は、固定化したものではなく、対象の側に立って、そのなかにある真実とか方向とかをみきわめ、それをさらに高い正しいものへと引き出していくものでなければならない。
 子ども・学級・学校の状況を的確に把握する。子ども・学級・学校が、今どういうものをもっているか、どういうものを必要としているかを、はっきりと見定め、それを明確に把握する。
 子どもや学級、学校の可能性を引き出す創造的な脚本・演出をする。 それにふさわしい材料を与え、ふさわしい演出をしていかなければならない。どのように演出すれば子どもの持っている力が最高にでるか配慮していかなければならない。
 教材の解釈は、隅から隅まで詳細にわかっていること。教材のあらゆる部分について、いくとおりもの解釈や考えや発見や疑問を持っていなければならない。
 どの子どもは教材のどの部分を、どのように解釈しているか、どういう疑問を持っているか、どういうような誤りをしているかということを知っていなければならない。一人ひとりの子どもがどのように変化したり発展したりしているか絶えず詳細に的確に記憶していなければならない。
 教師は、豊かな感覚を持ち、すぐれた解釈力とか洞察とかを持ち、とっさに対象に対応したり変化させたりすることのできる力を豊かに持った人間になっていなければならない。
 例えば、子どものかすかなつぶやき、なにげない発言、目にみえないような表情の動きとかのなかにある、可能性の芽とか真実とかを見落とさず、敏感にとらえ、みんなのものとしてとりあげたり、生かしたり、創造的に発展させたりするような仕事ができなければならない。
 押しつけない。一方的に教師のもっているものを押しつけていくというものであってはならない。子どもが可能性をだしていけるという、意識とか信頼感とか喜びが全体にあることが前提になる。
 教師の演出により、子どもや学級が組織され、相互交流が起き、それぞれの子どもが持っている力が二倍にも三倍にもなってでてくる。
 演出は直観的である。教育の演出は、時々刻々に展開し変化していく対象の瞬間をとらえてとっさの処置をとらなければならないので、きわめて直観的なものであり、条件反射的にやらなければならない場合が多い。
 緊張関係をつくり出す。緊張関係がないと、教育も教師も子どもも一歩も前進しないし新鮮な創造的なものは生まれてこない。
 問題を投げかけることによって大きく波紋を起こし、それによってみんなが激しく衝突し、葛藤を起こしそのなかから新しい考えや疑問や問題をみんなのなかにつくり出す。
 演出は、子どもと子どもの交流・衝突・葛藤のなかでひびき合いを集団のなかにつくり出すことによって、子どもの可能性が引き出され、拡大・深化し再創造されていく。このことにより、子どもは明るくなったり、自信を持ったり、人を大事にしたり親しんだりすることのできる人間になっていく。
 教師が創造的な人間にならなければならない。教師が創造的な人間になるためには、自分の実践に身を打ちこみ、実践により自分を変え、自分の可能性を出し、自分を創造的にしていくことである。
(斎藤喜博:1911年-1981年、群馬県生まれ。1952年に島小学校校長となり11年間子どもの可能性を引き出す学校づくりを教師集団とともに実践し、全国から一万人近い人々が参観した。退職後全国各地の学校を教育行脚、「教授学研究の会」を主宰した。多くの教師に影響を与えた昭和を代表する教育実践者)

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叱り方の極意とは

 叱るべきとき、自信がないと人を叱るのは気が重い。どう叱ったらよいか方法がわからないと叱る自信が持てない。どう叱ったらよいか、叱り方のポイントを考えてみると、
 怒るのではなく叱る。それには相手を育てようという思いを、しっかりと持つことから始めなくてはならない。
 何を叱るか事前にわからせておく。一貫した叱る方針を立てて事前に、みんなにわからせておく必要がある。何を叱り、何を叱らないかを日頃から自分の考えを伝えておく。感情に左右されることなく、日ごろの方針にしたがって叱るようにする。
 同じ目線で叱る。上から目線でえらそうな態度や言い方で叱るのではなく、問題を自分の中に入れて、同じ立ち位置で叱る。その上で、どうすればミスを繰り返さないですむかについて、一緒に話し合う。考えが違えば基準が異なる。相手にわからせ納得させるには、短気を起こさず、相手にも理解を示し、ねばり強さが求められる。
 叱るタイミングを外さない。叱るとき、言いにくいと思うと考えすぎて、つい先送りしてしまい、結局タイミングを逸して、叱れなくなってしまう。叱り方が「強いことばで責めとがめる」だけでは、相手の反発をまねく。「諭す」「注意する」「気づかせる」など、範囲を広げるべきだろう。そうすれば、気負わないで叱れるし、タイミングを外さずに叱ることができる。
 また、シッョクがさめやらぬ内に、厳しく叱責するのは考えものだ。反感をかったり、余計に落ち込ませてしまう恐れがある。気持ちが落ち着いて、話が聞ける状態になるのを待ったほうがよい。
 一度にあれもこれも叱らない。叱ろうと思いながら、我慢していると、その思いが蓄積されて抑えきれずに、あれもこれもといっぺんに叱ってしまう。気になったら、その都度、口に出して注意し、ため込まないことだ。
 原則は一対一で叱ること。みんなが見ている前で叱られるのは辛いことである。恥をかかされたと、恨みに思ったりする。よく考えたうえで、ここは人前で叱ったほうがよいと判断したときに限るのがよい。
 感情的になったら、一呼吸おく。人間に感情はつきものである。カッとなると自分を見失う。一呼吸おくとは、自分を取りもどす間合いのことだ。怒りがこみ上げてきた瞬間、深呼吸するなり一呼吸おいて、気を静める。間合いの取り方は、各自工夫してみるとよい。
 相手の人格を否定しない。「だからお前はダメなんだ」と言うのはタブーである。
 強く叱ったあとはフォローを忘れない。不機嫌なまま、お互い、わだかまりを持ち越すことのないようにしたい。叱った後は、カラッとできるようでありたい。翌朝「おはよう、昨日は言いすぎた。でも、わかってくれたと思う。よろしく」明るい口調で、さらっとひと言、言っておく。
(
福田 健:ヤマト運輸入社、言論科学振興協会の話し方運動に参加し理事を経て、話し方研究所を設立し会長。話し方、聞き方の指導・研究・啓蒙にあたり、コミュニケーション・リーダーシップ、人間関係などをテーマに各企業・官公庁で講演・講座活動を行っている)

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 「この子さえいてくれなければ」と考えた子どもを「この子がいてくれるおかげで」と位置づけたときから教育は始まる

 私は、教師になってからもなかなか子どもを「かわいい」と思えませんでした。「かわいい」と「憎い」のどちらに近いかというと「憎い」方に近い、そういう私でした。一番適切なことばは何だろうかと考えてみると「ずいぶんやっかいな奴だ」ということになるような気がしたものです。
 子どもが「やっかいだ」というのは、子どもが生きているからである。生きているから、こちらの思うようにはなってくれないのであって「それはたいへん結構なことである」とわからせてもらったのはずっと後のことでした。
 生きているものは、みんな伸びたがっているし、花をつけたがっているし、実を結びたがっているとわからせてもらったのは、またその後のことでした。
 そして、生きているのではなくてどうやら生かされているようだぞ、と分からせてもらったのはさらに後のことでした。
 どす黒い、いやな荷物を子どもはすでにいくつもいくつも背負っているけれども、それなりに光を求め、うるおいを求め、安らぎを求めずにはおれないように、生かされているようだぞ、と分からせてもらったのです。
 「この子さえいてくれなければ」と考えた子どもを「この子がいてくれるおかげで」と位置づけたときから教育は始まります。いくらふりまわされても、信じることのできるものは子どもだけです。
 生きているものは、光っている。どの子も子どもは星。みんなそれぞれが、それぞれの光をいただいてまばたきしている。
 子どもという、いのちの袋の中には、いろんな宝物が入っている。その宝物は、子ども自身さえ知らずにいる。それを教師が読み取るものだ。ねうちというものは、こちらが発見するものだ。すばらしいものの中にいても、意味が読みとれず、ねうちが発見できないなら、瓦礫の中にいるようなものだ。
 子どもから学ぼう。子どもの感動に学ぼう。子どもの胸の中の「ドキドキ」をキャッチする心を持とう。
 子どもがしていることで、子どもはものを言っている。私たちは「ことば」に頼り過ぎていないか。子どもが「体でものを言う」「生き方でものを言う」というのが、ほんとうの「ことば」であろう。
 Aちゃんは、ものは言わない。しかし、その動作の一つ一つは美しいことばだ。
 暴力も、あれは子どものことばだ。大人の目から見ると、困ったことばかりしている子どもでも、なぜそういうことをせずにおれないか、というそのわけを、伝えたがっているのだ。「非行少年」というのは、ほんとうにわかってくれる人にめぐりあえないで迷っている「不幸少年」といえる。
 人間にくずはない。人生にむだはない。子どもは抵抗をほしがっている。反抗してみて、子どもは大きさに目覚める。子どもの中でも、早く引き抜いてしまわなければいけない「雑草」の方が、私たちが育てようとしている「作物」よりも、相当、力が旺盛だ。
 子どもを大切にするということは、子どものわがままや衝動をのさばらせることではありません。本来の生き生きしたものを客観性のあるものにしてやること。個の尊厳を守るということと、「エゴイズム」を許容することとは違う。
 教育という仕事は、子どもを自分の脚で歩けるようにしてやることだ。人間は頭のよしあしの違いや、体力の違いなどよりも「志」のあるなしが基本である。「ぼくの十年先を見ていてください。」ということにならないと、人間はほんとうの人間になれない。志が確立してはじめて、体力も能力もその本来の光を放ちはじめる。志があいまいなものである間は、その人間に転換を与えるものにはならない。
 志が確立して体力も能力も光を放ちはじめる。志を立てるということは、生活現実に密着した決断である。それは、生き方、何を目ざしてどのように生きるかという「現実との取り組み方」が問題となる。志を立てるのに大きな教育力になるのは、親や教師の現実への取り組み方、生き方である。
(
東井義雄:19121991年、 兵庫県生まれ、小・中学校長。ペスタロッチ賞を受賞。生活の中から問題を解決していく学力を育てた「村を育てる学力」が大きな反響を呼ぶ。生活綴り方教育の代表的な実践家)

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子どもが教師に自然に引きつけられ、従いたくなるようにするには

  シュタイナーのいう教師の権威は、子どもたちが自然に引きつけられ、従いたくなるような権威である。
 そのような自然な服従を引き起こす力は、どのような教師から生まれてくるのだろうか。それには「教師が、子どもとの出会いに感謝し、子どもを尊敬の念を持って迎え入れるところに生じる」とシュタイナーはいう。
 子どもが尊敬の念を持ちうるのは、子どもに内在する向上意欲である。それは子どもの内部で、おのずから生じてくる善なる衝動である。
 この事実を教師が素直に認め受け入れたとき、教師は自然と子どもに尊敬の念を持つはずだというのである。
 教師が子どもとの出会いに感謝し、心から尊敬の念を持って子どもに臨むとき、子どもも当然先生から大事にされているという実感を持つということはじゅうぶんにうなずけることである。
 子どもはこのような教師に全幅の信頼を置いてあらゆるものを学び、生きたいと思うのも当然のなりゆきといえよう。
 たとえどんなに教科内容を正確にわかりやすく教えたとしても、教科内容を教えるだけの授業には、子どもは必ずしも満足しない。今の時代を生きている血の通った人間としての教師に触れたいという願望を持っているからである。
 人間は誰でも失敗もし、悩み、そして傷つき、苦しむものである。また理想を持って前向きに生きようとし、喜び、向上もするのである。
 子どもは授業で教科の勉強をするとともに、このような大人や教師の心臓が鼓動している面にも触れたいのである。個性的で主体的に生きる教師の人格に触れて、そこから多くを学び、それを通じて成長したいという願いを子どもは持っている。
 私は長い年月にわたって教科指導をしてきたが、このことを強く感じてきた。何らかの形で子どもの期待に応えていくことが必要だと思ってきた。今日の子どもたちの置かれた状況では、ますますその必要性が増していると感じている。
(大阪隆夫:1941年生まれ横浜市立中学校四校に勤務。「生き方を探求する会」会長として道徳教育を研究。シュタイナー教育を研究し各種学習会等で講義。ネット上の教育相談室で相談員)

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遊びを取り入れ、子どもたちを引きつけて楽しく学級作りをする

 今は、なかなか教師の指示が通らない学級が増えてきている。大声をだしても話が通じない。騒がしくて教師の声がかき消される。伝えたことを何度も聞きにくる。席に着こうとしない子どもがでてくる。
 そんな状況のとき、私たち教師はどのような手段を取るのがよいのだろうか。つぎのようなパターンが考えられる。「思い切りしかりつける」、「静かになるまでじっと待つ」、「無視して進む」、「派手なパフォーマンスで引きつける」、「子どもの興味を引きつける工夫をする」最良は最後の方法であろう。子どもの自発的な集中を生み出すからだ。
 子どもの興味を引きつける工夫もいろいろ考えられるが、手っ取り早く実行できるのが「遊び」である。なかには、しらけてのってこない子どもがいるが、それなりに魅力的な遊びを教室に持ち込み、子どもたちの興味と集中を引きつけていくことができれば、授業はもっと魅力的なものになるのではないか。
 「遊び」を取り入れれば、叱ったり怒鳴り付けたりすることなく、明るく楽しく集中を生み出すことができる。「遊び」には、楽しく学級作りを進める力が秘められている。
 かつてどの地域にも子どもたちだけの「遊び」の世界があった。子どもたちが集団のなかで生きていくためにもっとも大切なものであった。その遊びで子どもたちは多くのことを学んでいた。
 そんな「遊び」が持つ、友だちと交わる力、集団を大切にする力などの教育力を是非活用したい。楽しくしっかり学べるからだ。
 ルールを守ることは大切であるが、学校の秩序を前面に出しすぎる真面目一辺倒の要求を突きつけても、子どもたちは疲れ反発するだけである。子どもたちにとって魅力的でないことに集中させようとしても無理が生じるからだ。
 しかし、楽しいことをみんなで楽しむためなら、子どもたちは進んでルールを守ろうとする。「楽しいときほどルールを守る」である。だから今こそ、「遊び心」でアプローチしていくことが求められているのだ。「遊び心」で「遊び」を取り入れ、子どもたちを引きつけ、楽しく学級の集中を生み出していくようにする。
 「遊び」を取り入れれば、叱ったり怒鳴りつけたりすることなく、明るく楽しく集中を生み出します。「遊び」には、楽しく学級作りを進めるための力が秘められているのだ。
 例えば、なんだか集中しないなあと感じたら「めざせ、1分間ゲーム」と拍手しながらゲームを始める。
 教師の方を向いたら、「皆さん、机に伏せて目を閉じてください。スタートの合図から1分間たったと思ったときに、そのままの姿勢で静かに手を挙げてください」とルールを説明する。
 教師は、ストップウォッチを見つめながら「用意、スタート!」と声をかける。子どもたちは目をつぶって、机に伏せる。
 一番先に手を挙げてしまった子、一番1分に近かった子の名前とその時間をチェックしておく。1分10秒くらいになったら「やめ!」と声をかける。
 「一番はやかったのは、○○君の35秒、一番近かったのは△△さんの58秒でした。やめの時間は1分10秒でした」と、結果を振り返る。
 1分間を30秒とか1秒にして時間を変えてゲームをするのもよい。1秒のときは、一人ずつ順番にストップウォッチを持たせて、ダブルクリックさせ、ぴったり1秒を目指させる。
(
澤野郁文:1959年生まれ、岩手県公立小学校教師、日本群読教育の会副会長)


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はじめから新たな試みを成功させようとするのではなく、小さな失敗をくり返しながら試行錯誤していくことが大事だ 

 はじめから正解を当てようとするのではなく、小さな失敗をくり返しながら試行錯誤していくことが大事だ。
 僕は「よのなか科」の授業を考えついたら、まずワークシートをつくってやってみます。小さく始めてみるんですね。生徒にウケなかったところ、勘ちがいしていたところを実際の授業を通じて直していく。「正解主義」ではなく「修正主義」です。
 「スターバックス」というカフェを知っていますか?
 今、人気のカフェ「スターバックス」を見ると、ボクたちはそれがあたかもずっと以前から現在のような姿であったかのように錯覚してしまいます。はじめっから「正解」だったから当たったんだと。それに、親や学校の教師を「正解主義」の権化のように見えてはいませんか?
 じつは、親だって悩みながら子育てしているし、教師だって、何にでもそんなに確信があるわけじゃない。本当は「スターバックス」のようなカフェも試行錯誤の結果、ヒットするに至ったんです。
 このカフェの創業者は当初、完ぺきなイタリアンスタイルの店を考えていました。立ち飲みのほうがおしゃれだからと、椅子がなく、店員は蝶ネクタイ、オペラが店内に流れていたのです。
 これではうるさいし、落ち着けないし、客は入りませんよね。じつは、スタイルの修正と店舗の改善をくり返して、今日の姿にたどり着いたというわけです。
 はじめから成功を意図して正解を当てようとする「正解主義」ではなく、小さな失敗をくり返しながら試行錯誤していく「修正主義」が大事だということ。
 小さく賭けて、失敗に対して素早い学習をくり返すこと。このことは、子どもたちの学校生活や受験にも、教師の授業の改善や保護者のみなさんのビジネスや人生の選択にも通じる一大原則です。
(
藤原和博:1955年東京生まれ、リクルート社を経て、東京都初の民間人校長として杉並区立中学校の校長を務めた。身近なテーマを材料に世の中の仕組みを伝える授業「よのなか科」や進学塾と提携した夜間の有料授業「夜スペ」など斬新な手法で注目を集めた。2008年大阪府知事の特別顧問。14年から佐賀県武雄市特別顧問、16年奈良市立一条高校校長)

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知識や才能に乏しくても、強い熱意や信念があれば、磁石のように周囲の人を引きつけ、情勢も大きく動かしていく

 竹にはフシがある。フシがなければ、風雪に耐えるあの強さも生まれてこないであろう。せめて年に一回はフシをつくって身辺を整理し長い人生に耐える力を養いたい。
 そういう意味では、お正月は意義深くて、おめでたく、心もあらたまる。常日ごろ考えられないことも考えたい。そして、新たな勇気と希望も生み出したい。すがすがしいお正月はいいものである。
 私は高野山に登って、非常に教えられたことがあります。高野山は現在、日本仏教の聖地の1つである。「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。
 標高約800mのあれだけへんぴなところを開拓し、そこに道場をたてるという弘法大師の執念、信念というものは想像もできないほど強いものがあったと思うのです。
 私はそのとき、人の心、一念、信念というものは偉大なことを成し遂げるものだということを痛切に感じて、私も自分の分に応じた一念、信念をもたなければいけないなと感じたのです。
 いかに才能があっても、知識があっても、熱意の乏しい人は画ける餅に等しいのです。反対に少々知識が乏しく、才能に乏しい点があっても、一生懸命というか、強い熱意があれば、そこから次つぎとものが生まれてきます。
 その人自身が生まなくても、その姿を見て思わぬ援助、目に見えない加勢というものが自然に生まれてきます。それが才能の乏しさを補い、知識の乏しさを補って、その人の仕事を進行させ、全うさせる、ということになるわけです。
 あたかも磁石が周囲を引きつけるように、熱心さは周囲の人を引きつけ、周囲の情勢も大きく動かしていくと思うのです。
 また、人間がほんとうに真剣に何かに取り組み、ぜひとも成功させたい、させねばならないと思うとき、そこにおのずと何ものかに祈るというような気持ちが湧き起こってくるのではないか。
 そこには神仏に祈念するというかたちをとる場合もあろう。そういうことは真剣さの現われであり、また自らの決意を高めるという意味からも、大いにあっていいことだと思う。
(松下幸之助:18941989年、パナソニック(旧名:松下電器産業)創業者。経営の神様と呼ばれた日本を代表する経営者)


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人の心などわかるはずがない、簡単に決めつけず、未来の可能性に注目すること

 臨床心理学を専門にしていると「他人の心がすぐわかるのではないか」とよく言われる。しかし、予想とは反対に、私は人の心などわかるはずがないと思っている。人の心がいかにわからないかということに確信を持って知っているところが専門家の特徴である。
 一般の人は他人の顔つきを見るだけで「悪い人」とか「やさしそうな人」とわかったように思う。専門家はやさしそうに見える人でも「恐ろしいところがあるかも知れない」と思う。怖い顔つきの人に会っても「あんがいやさしい人かも知れない」と思っている。
 要するに、簡単に判断を下さず「人の心というものはどんな動きをするか、わかるはずがない」という態度で他人に接しているのである。
 たとえば、我々カウンセラーのところには、札つきの非行少年と呼ばれる子が連れて来られるときがある。親も先生も立ち直らせることに努力してきたが、みな裏切られてしまった。だれもが見離し、我々のところに連れて来られる。
 専門家に期待されることは、この子や親の心を分析したり、探りを入れたりして、非行の原因を明らかにして、どうすればよいかという対策を考え出すということである。ところが、ほんとうの専門家はそんなことをしないのである。
 一番大切なことは、この少年を取り巻くすべての人が、この子に回復不能な非行少年というレッテルをはっているとき、「果してそうだろうか」という気持ちを持って、悪い少年ときめてかからないことなのである。
 そんなつもりで、少年に会ってみると、あんがい素直に話をしてくれる。涙を流しながら、実は母親が怖い人で、叱られてばかりだったと言う。これを聞いて「母親が原因だ」とすぐに決めつけてしまう人は素人である。
 すぐに母親が怖い人、母親が原因などと即断できるはずはない。我々は母親に会うときも、簡単にきめつけられたものではないという態度で会う。そうすると、それまで見えなかったものが見えてくるし、思いもよらなかったことが生じてくるのである。ふと幼いころに母にやさしくして貰ったことを思い出すときもある。
 もちろん話はそれほど簡単ではなく、上がったり下ったりしながら変化していくのであるが、ここで一番大切なことは、我々がこの少年の心をすぐに判断したり、分析したりするのではなく、それが「これから、どうなるのだろう」と未来の可能性の方に注目して会い続けることなのである。
 即断せずに期待しながら見ていることによって、今までわからなかった可能性が明らかになり、人間が変化してゆくことは素晴らしいことである。しかし、これは随分と心のエネルギーのいることで、簡単にできることではない。
 むしろ「わかった」と思って決めつけてしまうほうが、よほど楽なのである。この子の問題は母親が原因だとか、札つきの非行少年だから更生不可能だ、などと決めてしまうと、自分の責任が軽くなって、誰かを非難するだけで、ものごとが片づいたような錯覚を起こしてしまう。
 心の処方箋は、現状を分析し、原因を究明して、その対策としてそれが出てくるのではなく、むしろ、未知の可能性の方に注目し、そこから生じてくるものを尊重しているうちに、おのずから処方箋も生まれてくるのである。
(
河合隼雄:1928- 2007年、臨床心理学者。京都大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。日本における分析心理学の普及・実践に貢献し、箱庭療法を日本へ初めて導入した)

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学級崩壊の実態と学級経営の充実のためのさまざまな取り組みとは

 学級崩壊を私なりに定義すると「子どもたちの攻撃的行為や非協力的行為により、学級集団の教育活動が円滑に働かず、停止してしまう状態。子どもたちは自由勝手に発言したり、動いたりし、教師がリーダーシップをとれないでいるため、騒々しい授業となって表面化する」である。
 小学校の低学年の学級崩壊は、幼稚園や保育園で集団生活の基礎を学んでいないので集団で行動することを積極的にしようとしないところがあり、家庭でしつけができていない。そのため、基本的な集団生活の習慣をつけようとしても、なかなかできない。授業に非非協力的な行為が多い。子どもは行為の善悪の判断がついていないから、よけい取扱いにくい。家での生活の延長で、逸脱行為をしているだけである。
 小学校の高学年の荒れは、ほとんどが確信犯である。友だちをからかう、いじめる、教師に反抗してみてその様子をうかがうなどのパターンがある。学級崩壊になることに快感を覚えるも子いるので始末が悪い。学級集団の中で意識的に荒れようとするのが高学年の特徴といえる。
 小学校の学級崩壊の割合は、東京都の調査(1999)では学級数の割合は二%以下である。学年別では六年生の割合が高い。
学級経営の充実のための取り組みの調査(東京都1999)結果は
(1)
子どもの指導は、最低限指導しなければならないことを共通理解して取り組んでいる。
(2)
校内研修で、子どもの変化について事例研究をした。
(3)
子どもの変化とその対応について、専門家を招いて助言や指導を受けた。教育委員会の資料で研修を行った。
(4)
ティーム・ティーチング等、協力授業を行っている。
(5)
子どもの変化について、保護者や関係機関と話し合った。
(6)
子どもの変化に対応した指導法について校内研修を行っている。
(7)
教師相互で授業公開し、学級をひらくようにした。
(8)
学年集会や合同授業等を恒常化して学年経営の充実をはかった。
(9)
学年経営を低・中・高学年や低・高学年の単位で行い、指導協力をしている。
(10)
交換授業や教科分担等、教師の専門性を生かすよう校内の指導組織を改善した。
(11)
一定期間、保護者や地域の人に全学級公開を行っている。
 現代の社会では、学級崩壊はいつ起っても不思議ではない。学級崩壊が起きるきっかけは、広い意味での教師の教育技術と、子どもを見る感性にかかっていると言ってもよい。
 教師の子どもの見方や接し方で、学級の雰囲気というのは、ガラリと変わる。よい授業も、騒動しい授業も教師しだいであることは、昔も今も変わらない。学級崩壊が起きる根本原因は、他の人の気持ちを思いやることができない、自分だけがよければという子どもが増えたことだが、実際に起きるか起きないかは、教師の学級経営しだいである。
(
小宮山博仁:1949年東京都生まれ、教育評論家。私塾を開設、学研メソッド取締役を経て学研エデュケーショナル顧問。一貫して「小・中学生に本物の学力を身につけさせるにはどうしたらよいか」をテーマに講演)

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授業中に注意しても反発される教師はどうすればよいか

 授業中に私語が多いのは、半分は教師の授業の進め方に問題があり、授業を改善する必要があると思います。
 教師に対して反抗的な子どもの場合、集団の中では関係がうまくいかなくても、個別に話すとけっこう話せる例もあるようですので、個別に話をして信頼関係を作っていくことが大切だと思います。
 また、集団全体に対しては、「あの先生は本気だ」と思わせるような態度が一番効を奏するように思います。
 原因は自分の指導力のなさにあるとばかり考えて自分を追いつめたりせず、たとえ一日でも一度ゆっくり休養をとって下さい。
 そして自分の長所を再確認し、それを日頃の教育活動の中で生かすように工夫してみられたらいかがでしょうか。
 もちろん、困ったことがあればスクールカウンセラーに教師も相談できるのです。スクールカウンセラーが教師にとっても役に立たなければ意味がありません。教師のために「教師としての喜びを感じながら教育活動ができるように援助する」ことだと私は考えています。
 子どもへの対応に苦慮して「カウンセラーならどう言うだろう」と参考意見を聞きに来ていただいてもいいですし、「話を聞いてもらってすっきりしたい」でも、「少し混乱しているので、頭の中を整理したい」でも、「たぶんこんな対応でいいと思うんだが、確認したい」でもけっこうです。
 また、子どものことに限らず「教師になって何年も走り続けてきたが、教師としての自分を一度振り返ってみたい」ということでもかまいません。中には、自分の家族のことを相談に来られる方も何人もおられました。
(竹内健児 1962年生まれ 立命館大学心理・教育相談センターカウンセラー、臨床心理士)

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教師の成長は、どのようにしてなされるのでしょうか

(1) 実践による教師の成長
 教師としての成長の過程は、教職生活の中枢をなすものといえるだろう。赴任から退職にいたるまでの教師の仕事は、納得のゆく教育を求めて、日々「新たな実践に挑戦して、反省する」ことをくり返す。どのような教師であるべきかをさがしもとめ、教師であることの意味を問い直して、自分の殻から脱皮しつづける過程である。
 「もっともよく学ぶ者のみがもっともよく教えることができる」という格言は、教育の本質をいい当てているだけでなく、教師そのものの核心をもついている。
 しかしながら、教師かどのような道筋で、どのような教師へと自己形成をとげるかは、時代により学校により人により千差万別である。教師の個性と個人的経験を反映して、その成長の姿は多様であり、個性的である。
(2)
子どもの発見をきっかけに教師が成長する       
 子どもの発見をきっかけとする教師の成長がある。
 大正自由主義教育における「子どもたちを学習の主体としたときの新たな子どもの姿の発見や文化の創り手としての子どもの発見」、昭和前期の綴り方教師たちによる「子どもたちの生活実態を題材とした作文から、子どもたちの現実の発見」に代表されるように、
 「一人ひとり個性をそなえた主体」として子どもをとらえ直すことは、子どもを客体として扱ってきた近代の学校の実践に対する反省を促し、教師の信念や役割意識や使命感に転機をもたらすものとなった。
 なかでも、指導困難な子どもや不登校の子どもとの出会いは、教師にさまざまな葛藤と模索を要求するだけに、成長や挫折の大きな契機として機能している。
(3)
実践の挫折や模索をきっかけとした教師の成長  
 実践の挫折や模索をきっかけとする成長がある。
 教師は長い教職生活の中で、何度も実践の停滞を経験し、破綻と挫折の辛苦を味わう体験をする。
 実践の破綻や挫折は、教職生活においてもっとも苦しい体験である。それまでの信念や理論や方式が崩壊し、秩序だっていた世界から混沌の中に投げ込まれて依り所を失い、喪失感と孤独の中で煩悶の日々を過ごすこととなる。
 そこで経験される成長は、もはや部分的で改良的なものではありえない。自分の信念や理論や方式の根本的な変化がもとめられ、教職生活の全体にわたる構造的な変化が要求されるものとなる。
 教師たちは、このような破綻や挫折を何度も経験し、ある教師は保守的意識にとらわれて硬直し、ある教師は無力感を抱かえ込んで逃避し、また、ある教師はこれまでの通俗的な規範だけを依り所とするようになる。そして、ある教師は、その破綻や挫折をくぐって、制度化された教育に対抗しうる実践の主体となって成長していくのである。
(4)
教師相互の学びあい         
 教師としての成長は、教師相互の援助と学び合いにもある。実際、教師たちは、学校の職場や地域のサークルにおいて、学び合いのコミュニティやネットワークを網の目のように形成し、育ち合う関係を築き上げて成長している。経験の相互交流と見識の伝承のないところでは、教師は成長しえないのである。そうだとすれば、教師の成長過程は、専門家としての共同体に参加し、その周辺から中心へと年月をかけて移行する過程であるといってもよいだろう。
 無数におよぶインフォーマルなコミュニティやネットワークの存在は、わが国の教師文化のひとつの特徴である。明治以来、わが国の教師たちは、学び育ち合う同僚関係や先輩後輩関係を豊富に築き上げ、そのインフォーマルな機能によって、自律的な専門文化を形成することに努力してきた。その伝統は、危機的な状況を迎えてはいるが、現在もなお生きつづけており、制度化された研修では達成しえない機能を、学校や地域において発揮しつづけている。 
 なかでも、授業を観察し検討する校内研究会は、もっとも強力で有効な成長の機会になっている。 明治以来、同僚で授業を参観し批評し合う校内研修に多大な努力を傾注してきた。
 今ではその伝統は衰退したとはいうももの、行政主導の研修よりも、はるかに大きな機能をはたしており、教師の成長の中心的基盤となっている。 
(
佐藤 学:1951年生まれ 東京大学教授を経て学習院大学教授 学校を訪問(国内外2800)し、学校現場と共に学び合う学びの改革を進めている)

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父親は学校や子育てにどのようにかかわればよいか

 多忙な父親が学校を理解しようと思えばどうすればいいでしょうか。参観日に出席すればよいと思います。参観日は早めに学校へ出かけ職員室に入ってください。先生は一般の人と比べて、とても親切ですから感動します。心から先生が好きになります。
 黒板の前あたりに教頭先生がいますから、名刺交換した後で「○年生まれの△△ですが、何年何組になりますか?」と聞けば、何年何組か知らなくても、すぐにわかります。それから、今学校が抱えている問題は何か、担任の長所や短所はどこかなど、聞きたいことを聞けばよいと思います。謙虚に教わり「今後とも親子ともどもお世話になります」と結べばよいでしょう。
 そして、授業参観が始まれば、わが子の様子だけでなく、あちこちのぞいてみると、クラスの個性も、先生の教え方、親のマナーの悪さも見えます。
 あなたなりの感想を書きとめて、帰りには担任に名刺を渡し、疑問点や注意する点を簡単に聞けば、よろしいと思います。そして、職員室、校長室にもご挨拶をし、感想や前向きの提言をしておけば、一日でお互いに理解がかなり深まります。
 理解が深まれば、わが子のことだけでなく、教育全般への関心も理解も深まるでしょう。ここまでやっておけば、今後何かあっても、校長先生にも教頭先生にもお目通りはかなっているので、話はしやすく、わが子は絶対に学校で不利益をこうむることはありません。
 父親が学校に参加して企業で身につけた経験を生かせば学校が活性化します。両親が学校を楽しんでいれば、子どももおもしろく学校生活を送ります。子どもの前で学校をこき下ろしていると、家族は学校に嫌気がさします。学校に行くなら楽しく行って、新しい人間関係を楽しみましょう。
 子育てを女性だけに押しつけていると、必ずどこかでおかしくなってきます。子どもと親は友だちではありません。子どもは守り育てるものです。父親として、今まで生きてきた人生を失敗も含めて、家族に語れますか。いつもは黙っていても、子どもや妻が病気、いじめ、不登校などのトラブルで悩んでいる時、乗り出せますか。
 父親は子どもへの説教は独断と偏見と言われようが少しの妥協を残して、自信をもって言い切りなさい。包み込むような愛情があれば、子どもはまっとうに育ちます。努力していれば、やがては実力がつきます。子どもは父親を頼りに生きているのですから。
 子どもが難しい決めごとをするとき、「自分で考えて決めなさい」と無責任に決断を子どもに押しつけないことです。いけないものは「いけない」と断言してやった方が子どもは気が楽です。要は子どもの真の幸せとは何なのかを真剣に考えられるか、につきるでしょう。
 子どもを持てば、家庭は子育てのためにあると思っていても間違いはないでしょう。夫が妻を大事にすることです。人間、大事にされれば同じように夫も大事にします。夫婦仲良くということですね。子どもには家庭という安心と規律秩序が不可欠です。子どもの居場所のない家は家庭失格です。
(
小寺やす子:香川県生まれ、自分の子どもをきっかけに親の学校交渉法を研究し実践する。学校問題アドバイザー)

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学級を立て直すには道徳を核にしながら、学級経営と連動させていくことが大切

 学級崩壊という域まで至ってないが、学級に活気がなかったり、トラブルが多く発生している学級はけっこうあるのではないでしょうか。これらの学級は学級崩壊の予備軍です。これらの学級を立て直していくためには、道徳を核にしながら、学級経営と連動させていくことが大切です。
 担任は自分の学級経営がうまくいかない場合、その現状を隠そうとします。自分一人で解決しようと様々な手段をとる。しかし、その手段は担任が得ることができる情報内で行うため、限界がある。その結果、学級経営が更にうまくいかなくなり、最終的に学級崩壊になるケースがある。
 学級崩壊が起こる要因といえば、教師の指導力やしつけなどが考えられます。指導力には、学級経営(技術)的なものとその担任が持っている雰囲気(性格)的なものがある。
1 しつけ
 
しつけにはつぎの四つのポイントがあると私は思います。
(1)
一貫した指導をする(教師がその都度、指導を安易に変えては、子どもは教師を見下ろしてしまう恐れがある)
(2)
家庭の協力を得る(「百人の教師は、一人の親には勝てない」ということわざがある。親の協力をもらうことにより、より効果が期待できる)
(3)
励ます(単に、子どもにがんばれと言うのではなく、意欲を喚起するような励まし(声かけ)が大切である)
(4)
見届け(しっかり見届けすることにより、子どもは教師を信頼するようになってくる)
2 学級経営
 学級経営は、担任と子どもたちが一緒に学級生活を送ることが楽しく張りのあるものにしていくことです。そのために、みんなで楽しい企画をし、役割分担します。いろんな遊びをはじめとして様々な活動を工夫する必要があります。学級経営の急所は、子どもたち一人ひとりへの対応と、学級集団への対応をいかに結びつけていくかだと思います。
 そのためのポイントは
(1)
目標づくり
 学級目標を作り、それとのかかわりで個人目標を作ることが大切だと言われます。どんな思いで目標を作っていくのかが重要です。なぜ、私はこのクラスにいるのだろうか。その意味を子どもなりにとらえられることが大切です。そのためには、道徳の時間が大切なのです。
(2)
しくみづくり
 学級の中で自分がなくてはならない存在で、みんなに認められ大切にされ、役にたっていると実感できることです。係活動の意義を理解し、誇りをもって取り組めるように係にプロという言葉を使う。
(3)
活動づくり
 朝の会と帰りの会を重視する。歌と一分間スピーチがあります。歌は一体感を生み、スピーチは自立を培う。
(4)
集団遊びを仕掛ける
 現在の子どもは一人遊びをする傾向がある。対人関係がうまくつくれない子どもが増えている。そこで、教師から集団で遊ぶことができる遊びを仕掛け、遊びを通してよりよい人間関係づくりをしていく。
(5)
家庭学習(宅習:日記帳)
 「あいうえお日記」を行う。文の書き出しを今日が「あ」なら、明日は「い」というように変えていく。担任が日記の評価(よいA:普通B:努力不足C)をし、A、Bなら宝くじコーナーに参加でき、担任がサイコロを2回振り、2回とも合った人だけが印鑑をもらえる。10個たまれば、日記一回パス券がもらえる。日記に使った合計の漢字の数を記入する。
(6)
年度初め
 学級経営がうまくいくかどうかは四月の年度初めが大きなポイントになる。一日目は、担任の紹介、三つの経営方針(いじめをするな。教室は間違えるところである。努力を惜しむな)、宅習の仕方を練習する等。二日目は、子どものよいところ(声の大きさ、返事、掃除等)をほめる。朝の会、帰りの会の練習をする。掃除区域・給食当番を分担する。係活動(新聞・挨拶・給食・保健・掲示・図書・生き物・配り等)を決める。「いじめ」テーマにした道徳をする等。
 子どもは担任の力量や性格を見抜こうと、いろいろ質問したり、要望を出す。その時、担任が容易に子どもの要望に応えたり、あいまいな反応をしてしまってはダメである。ダメなものはダメと確固たる態度を示すことが大切である。
3 学級経営の核は道徳
 学級崩壊を立て直していくためには、道徳を核にしながら、学級経営と連動させていくことが大切です。学級経営の極意の最大のポイントがここにあります。
 道徳の授業をすることによって、今、学んでいること、存在していることの意義を一人ひとりが自覚できるようになります。
 願いとしては、「前向きに生きてほしい」「思いやりの心を持って」、特に高学年としての自覚を持って「権利」を大切にし「自己抑制」をしながら「正義感」を持ち、「勇気」を出して自分にできることをしっかりできる子どもに育ってほしい。
 道徳の授業の自作資料は事実をもとに作成します。その根底には人間としての愛が感じられるもの、人間への愛を引き出せるものである。ワークシートを使っていて、これをファイルしていけば、確実に意識が積み重なっていきます。例を次に示します。
「自分にできること」(小学校3年~中学校3年)  
1ねらい(正義と勇気の気持ちを持ち、自分ができる範囲内で、できることをする大切さを理解させる)
2特徴(ワークシートとセットになっている。グラフを使って視覚に訴えることにより、子どもに興味関心を持たせることができる)
3展開
発問1 授業中「席を離れて自分のすきなことをする。先生の言うことを聞かずに自分勝手なことをする。勉強のじゃまをする」このような状況を何というのでしょうか。
説明 「学級崩壊」といいます。
指示1 なぜ、学級崩壊が起きるのでしょうか。ワークシートにその原因を考えられるかぎり書きましょう。
発問2 これらは、何のグラフでしょうか。
提示 3つのグラフ(暴力行為、いじめ、不登校)を提示する。
説明2 グラフ1は暴力行為、2はいじめの発生件数、3は不登校児童数です。
指示2 崩壊している学級の中では、「いじめ」「不登校」「自殺」が起こるケースがあります。仲のよい友だちがいじめられて不登校にったとします。あなたは、いじめをしている子どもに対して、どうしたらいいと思いますか。ワークシートに考えられるかぎりの案を書きましょう。
指示3 今、出された意見の中であなたができそうだなあと思うものをワークシートに書きましょう。
指示4 あなたは、不登校になっている子どもと出会ったときに、どのように対処しますか。ワークシートに書きましょう。
指示5 今、出された意見の中であなたができそうだなあと思うものをワークシートに書きましょう。
助言 その人の立場や性格により、できるものや、できないものがあるのも事実ですね。でもね。
発問3 略
指示6 今日の授業の題名をワークシートに書きましょう。
指示7 授業を受けて、自分なりに考えたことや感じたことをワークシートに書きましょう。
(
大江浩光:1963年和歌山県生まれ、鹿児島県公立小学校教師。押谷由夫昭和女子大学教授と道徳教育を研究。全国各地の道徳や特別支援教育の講演会講師)

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子どもを育てるのに必要なのは「この人は、私のことを本気で見てくれているんや!」という「愛」と「信頼」やと思うで

 僕は小学校のPTA役員として運動会の放送関係を手伝うことになった。子どもたちにできるだけ本当の実況をさせたいと思った。それで、運動会の実況をするとき僕の口真似をさせたんや。僕が「まずは、白がいいスタートを切りました」って耳元で言うたら、子どもはその真似をして「まずは、白がいいスタートを切りました」って叫ぶねん。「それを追って赤!」「赤組がんばってください」と真似をして子どもが叫ぶ。
 初めは声が小さな子も、真似をすることで、どんどん声が出てきた。そしたら、すぐに「エエ感じや、最高や」ってほめる。それが午前中の後半になると、子どもがもうアドリブで、どんどんしゃべっとんねん。練習のときに「エエかあ、絶対に前向きな言葉でいくんやで。『赤組遅いですね』『あー、抜かされました』とか、やる気なくなるような言葉は絶対あかんでぇ」と注意を与えていたんや。それを見事に守ってる。すごい!
 でも、そういうのがすぐにできる子どもばかりじゃない。中には「キミなぜ放送部なの?」っていう子もいる。カツゼツは悪いし、暗い声しか出ない。けど僕はその子の隣にいて、その子がしゃべるたびに「うまい! イケてる!」ってほめた。そしたら、どんどん声が出てきて、語尾も上がっていった。それが子どものすごいところよ。「出来た! レモンさんにほめられた! 先生にもほめられた!」これって、自信につながるよね。そういう子どもの隠れている才能を引き出すのが教育やなぁって、本当に思うたね。
 ただ、ほめ方も本気でほめなぁアカン。ただのオベンチャラは通用せーへん。本気でほめたくなる部分に気づくことや。しかし、ほめてばかりやったら、これまたアカン。やっぱり「ここは、こうしたほうがさらによかったかな?」っていう言い方も必要やね。
 でもね、よう勘違いして、ただただ怒っている大人がいる。いちばん肝心なのは「その相手にその人の『愛情』が伝わってんのか?」ということと、「その相手との間に『信頼関係』がしっかり出来てるのか? それに気づいて言うてるのか?」ということ。
 そこをなくして「厳しく、厳しく」なんて思ってると、今の時代えらい目にあうし、えらい目に遭わせることになるんや。
 スパルタがよいとか、優しく言うのがよいとか、そんなものさしやないんやで。やり方の問題じゃないねん。時代が変わろうと真理は変わらんねん。「この人は、僕のことを本気で見てくれているんや!」という「愛」と「信頼」やと思うで。
(
山本修嗣:1964年生まれ、大阪府出身のラジオDJTBSラジオの『全国こども電話相談室・リアル!』、NHK Eテレの『きらっといきる』、ニコニコ動画の『ミュージックボンバー』などの番組に出演している。自らの子どもが通う小学校でPTA会長を5年間務めた。その後もPTA顧問を続けている)

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何かを変えたいと思ったら、まずあなた自身が変わらなくてはいけません

 女性実業家の広岡浅子()は人生の生き方についてつぎのように述べています。
 私たちには、素晴らしい力が秘められています。ところが、その力を十分に活かしきれていない人がほとんどです。
 人は無意識のうちに、先入観や思いこみにとらわれて生きていることがあります。みずから勝手につくりあげた常識や、生活習慣、生き方に縛られているのです。頭の中でつくりあげた生き方が、自分の限界をつくり出し、あなたの成長を阻んでいるかもしれません。それを捨て去ってしまえば、あなたの人生はもっと自由な生き方ができるようになるでしょう。
 自分の力を思うぞんぶん発揮するには、知識の入れ替えが必要です。そのためには、まず、いったん古いものをはき出して、新しいものが入ってくるスペースをつくること。それが、あなたの新しい世界を創造する第一歩です。
 何かを変えたいと思ったら、まずあなた自身がみずから立ち上がり、変わらなくてはいけません。ただ考えているだけでは、何もかわりません。これまでの古いものを脱ぎ捨て、殻を破り、新しい自分を手に入れなさい。
 前に進んでいくためにはプランが必要です。自分の強み、弱みは何か。何を持っていて、何が不足しているのか。これから成長していくために、必要なことは何か。みずからを振り返ってみれば、おのずと道は見えてきます。
 何かをなしとげ、成功をおさめた人たちはみな、常軌を超える勢いで突き進んでいます。情熱は天をも動かします。信念を燃え上がらせることで、巨大な変化を生み出すことができたのです。
 いまこの瞬間、最善で最大の努力をしましょう。人生の希望は、いまこの瞬間にこそあります。それが本当の希望です。その努力は、必ずあなたをひとまわり成長させてくれます。挑戦と成長をくり返ししていくうちに、いまの自分では考えられないほどの高みに到達していることでしょう。
 すべてを捨て、心をひとつに集中して仕事にとり組んでいると、自分が自分ではないような気分になることがあります。その結果、まるで精霊の助けを得たかのような、奇跡とも思える成果を生み出すことだってできるのです。
 もし何かに失敗しても、失敗のまま終わらせないことが大切です。失敗から学べることが、たくさんあるからです。失敗が教えてくれるものは何か、考えてみる。原因を究明し、次は同じことをくり返さないよう手を打つ。そうすれば失敗を重ねることはありません。
 人生に悲劇が訪れたとき、人は世の中に対する失望感に包まれます。けれども、それはものごとの表面にすぎません。そこには学びの種がひそんでいることに気づいてください。厳しい逆境を乗り越えたとき、新たな人生がひらけ、人生はもっと価値のあるものになり、より深くその後の人生を生きることができます。
 私の座右の名は「九転十起生」です。たとえ九回転んでも、10回起き上ればいいのです。
(
)広岡浅子:18491919年、NHK「あさが来た」(2015)のヒロイン。京都の豪商三井高益の子として生まれる。大阪の豪商加島屋(米問屋・両替商)に嫁ぎ、崩壊の危機を救う。九州の炭鉱を経営、加島銀行や大同生命の創業に参画。日本初の女子大学(日本女子大)の創立に尽力した)
(
坂本優二:東京都生まれ、日本歴史学会員、歴史家・文筆家。NHK文化センター等の各種機関の講師)

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保護者対応のコツとは

 学校は生徒・保護者に教育サービスを提供する場とする傾向が強くなってきています。こうした傾向が保護者のクレームを増やし、モンスターと呼ばれるほどの行きすぎた要求をする保護者まで生み出しました。
 しかし、学校はサービス業ではありません。社会的要請である規範意識の醸成や学力を形成し社会に有用な市民を育てることをめざす教育機関です。従って保護者の要求をなんでも聞き入れるというわけにはいきません。教師に必要とされる対応力が高度になってきているのです。保護者対応のコツは
(1)
まずは話を聞く
 保護者のクレームを受けて深刻な問題になったという教師を私はこれまで何人も見てきました。中にはその保護者のクレームをきっかけに気持ちの糸が切れてしまい、休職せざるをえなかったという方もいました。
 そうした教師の特徴は、プライドが高く、保護者から責められることに耐えられずに、言い訳に走ったり、反論していたということです。そういう態度がよけいに保護者を怒らせ、頑なにさせて、解決する問題も解決させなくしているといった印象でした。
 自信をもっている教師ほど、保護者に対して自分は正しいと主張したくなるものです。しかし、保護者と正面から対峙すると摩擦が高くなるばかりです。
 まずは保護者の言い分をしっかりと聴いて、余裕をもって対応することが必要です。多くの場合、じっくりと保護者の話を聞く姿勢を示しただけで、深刻な問題にまで発展しないものなのです。
(2)
すぐに対応
 学校でトラブルがあって生徒が指導に納得していないとか、ちっと怒鳴りすぎたかなと思われるような指導があった場合には、保護者への第一報が生徒から入るか教師から入るかということが、クレームになるかならないかを分けることがあります。とにかく、第一報は教師が入れるのがよい。電話連絡は生徒が帰宅する前にしたほうが良い。
 逆に「帰り道、うちの子が○○くんに殴られたと言うんですよ」とかいった電話が保護者からあった場合
「すぐに対応します。○時頃までに経過をお電話します」と、保護者に見通しの見える形で応えるのが原則です。
(3)
保護者の心情に沿う感覚をもつ
 どんな保護者もわが子のことを最優先で考えます。それが親なのです。このことを頭におきながら、
「ぼくも残念に感じたんですけれども」と保護者の心情に沿いながらトラブルを説明します。保護者と接するとき、これがとても大切なことです。
(4)
こまめに保護者に連絡する
 保護者と電話して話しをするときのコツがあります。保護者が専業主婦であれば生徒が学校に来ている時間に電話をかけます。働いている保護者であれば、塾などに行っている時間帯にします。生徒がいない場で行います。
「担任の堀ですけども、よろしくお願いします」と挨拶をしたあと、
「実は○○くんが、△△の時間にこんな良いことをしまして・・・・・・」と、まず良いエピソードを語ります。
 次に「実は、○○くんと話していたとき、伏し目がちの表情に見えたものですから、ちょっと気になりまして。お母さんのほうで何か思いあたることはございますでしょうか」と、いったように、保護者に多く語ってもらえるように。
 そして「この先生は細かいところまで見ているな」と思ってもらえるようにします。この電話の効果はすさまじいものがあります。
(
堀 裕嗣:1966年北海道生まれ、札幌市立中学の国語科教師。92年、国語教育研究サークル「研究集団ことのは」を設立、道内の民間教育団体でつくる「教師力ブラッシュアップセミナー」の代表も務める)

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子どもたちが「話しを聞いてくれる、ルールを守る」ようになるためにはどうすればよいか

 私の学級の子どもたちは話をしてもなかなか聞いてくれませんでした。家本芳郎の本で学んだことは「子どもたちがいかに納得するか」でした。子どもが納得できれば指導は浸透します。
 子どもたちが話を聞いてくれないとき、家本さんから学んだことを生かして、私はしっかり聞いてくれている子をほめていきました。まず姿勢「姿勢がいいね」、次に目線「しっかり目をみているね」、最後は静けさ「静かに聞いているね」と、最初はとにかく、たくさんほめました。すると、子どもたちは徐々に聞いてくれるようになりました。「聞くことがよいことである」と納得したからだと思います。
 つぎに、みんなで協力することを徹底させます。自分だけでなく、班やクラス全体のことを思って助け合って学習する意識をもたせようとします。
 また、教科書の読み方、ノートの書き方、話し合いの時の言葉使いなど具体的なルールを徹底します。細かな学習のルールを守ることが、自分や仲間の学習にプラスとなるということをしっかりと意識させます。
 このような指導をするときに大切なことは、怖い顔でなく、守るまで笑顔で言い続けることです。そしてこれを継続していくことが重要です。継続して守らせる厳しい教師になろうと私は努力しています。
 さらに、子どもたちに授業の見通しをもたせるようにします。次に何をするのか分かれば子どもは安心して授業に入りやすくなります。
 私は教室に授業の流れを掲示します。学習課題に取り組むときは、活動ごとに番号をつけ、視覚的に分かるようにします。指示・発問・説明は分かりやすくはっきり伝えるようにこころがけています。
 立ち歩いてもよい時間をつくり、あと何分座っていれば立ってよい時間になるかをクッキングタイマーで知らせます。立ってよい時間帯には自分が調べたことを仲間と交流したり、ノートを写してもよいことにしています。
 また、子どもと人間関係をつくることが大切です。まず、笑顔です。
毎日、にこやかな表情で子どもを迎え入れるようにします。笑いがあれば楽しい授業になり、好意や信頼感を子どもたちからえられます。また、ちょっとした声かけを意識して行います。
 叱るときは、どんなことをしたら叱られるか、基準を明確にしておくようにしています。
 子どもたちにどうしても伝えたいルールは、私の場合、学級びらきでつぎの三つを示します。「人を傷つけない」「自分を傷つけない」「クラスや学校を傷つけない」です。とくに、人と自分を傷つけることは、とても叱ると伝えています。実際、子どもたちには厳しく接し徹底するようにしています。
 子どもたちにどうしても伝えたいルールは「短く、はっきり」と伝えることが大切だといえます。つまり、いじめてはいけない、相手の嫌がることは絶対してはいけないといった「明確で絶対的なルールをつらぬく」という姿勢が大切になります。
 ルールの達成を目に見える形にすることがとても大切です。私のクラスでは、朝の会でめあてを決めます。その、めあてを帰りの会で確認し、三分の二以上であれば、黒板に☆印を書きます。そして☆がたまったら、お楽しみ会をすることになっています。
(長瀬拓也:1981年岐阜県生まれ、 横浜市公立小学校教師、岐阜県公立小・中学校教師を経て私立小学校教師。授業づくりネットワーク理事、教育サークル「未来の扉」代表代行、教育委員会などの研修講師も務める)

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学校のきまりを守らず乱暴な子どもを親と連携してどのように指導すればよいか

 問題を起こす子どもは、家庭や学校で自分の欲求が満たされないことが原因となる場合が多い。子どもの問題行動(授業態度が悪い、きまりを守らない、乱暴、けんか等)を起こす原因を考え、家庭にのみ問題があるとしない。人間はだれにでも、かけがえのないよさがある。その子のよさに着目し、親とともに連携して問題解決をはかるように指導をする。
 乱暴はある意味、元気な子どもであると受け取り、本人を生かし充実感が味わえる雰囲気のある学級づくりをしていくと、問題行動は少なくなっていくと考えられる。
 学校の中心は授業にある。学習が楽しいものでなければ、子どもたちの欲求は満たされない。自分で問題を発見し、自分で解決できる授業をつくっていくよう教師は心がける必要がある。楽しく、わかる喜びを味わえる授業をつくることが問題解決の根本である。
 親と連携する機会を多く設けるようにし
(1)
学校生活で現われた子どものよい行いを連絡帳で親に知らせる。それをもとに、親はわが子をほめるように促す。親が学校に出向く機会や、担任が家庭訪問をする機会を多くして、子どものよさ等を知らせるようにする。
(2)
親はわが子に問題があることは、うすうすは気がついている。しかし、担任から言われると親のいたらなさを追求され、責められる思いになる。子育ての方法に問題があることを指摘しないで、冷静に親の考え方、子どもとの接し方はどうなのか聞くようにしたい。親自身が気づくような話し方をする。
(3)
親と共に考え、共に解決する態度をもつようにする。事実をもとに話し、憶測や記憶に頼らず、日常から記録をとり、それに基づいて話すようにする。親と担任が一体となって問題解決に向けて取り組む姿勢をもつようにする。
(
田代俊博:東京都公立小学校教師)

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崩壊した学年が再建請負人の教師が入って、アッという間に立て直されてしまった

 崩壊した二学年をどう立て直すのか。これが年度当初の校内人事の最大のテーマであった。三学期がはじまった頃から校長は手を打ち、転任する時期であった生徒指導主任のS先生を新学年の担任・生徒指導・生徒会・学年行事の担当にした。つまり、新三学年四クラスの生徒たちを一人でとりしきることになったわけである。
 三年生の変わりようは目をみはるものがあった。新年度の最初の一週間で生徒の顔つきがひきしまってきたのがわかった。険のある顔つきの生徒がまったくいなくなり、動さもキビキビし、明るくなった。
 二年のとき疲れきった顔をしていた教師たちが生きかえった。みんなS先生を軸に一つにかたまりはじめたのである。これまで、生徒一人ひとりを大切にする、自由を大事にするという考え方で教師がバラバラに動いていたのが、それだけではどうにもならないことがわかったということなのだろう。個性の強い、リーダーシップがとれるS先生が入って一つの方向に向かって動きだしたのである。
 S先生が担任に入ったことで、アッという間に立ち直った。彼はどこが違うのだろうか。決定的な点は、生徒たちがS先生の言うことを聞く「権威がある」ということである。だから、他の教師たちも、S先生を先頭に押し立てて進んでいけば、生徒たちからバカにされないということがあるのだ。生徒たちはなぜ、S先生の言うことをきくのかというと、
(1)
生徒との距離がハッキリしている。生徒に対してクールな関係をとることができる。他の教師のように物わかりがよく、ベタベタつきあうことをしない。
(2)
それでいて、時と場合によって、とっても生徒にやさしく対応できる。言葉づかいや、顔つきが、その時、その時で変えられるのである。
(3)
生徒に対して誠実である。約束したことは必ず守るし、生徒のために一生懸命やるから、生徒からとても頼りにされる。生徒たちはS先生のことを信用し、信頼している。
(4)
集団を指導できる。行事の指導などで、S先生の指導に従ってがんばるといい結果がでるのである。生徒たちの絶大な信頼をかちえている。
(5)
生徒を差別しない。
(6)
生徒を全身で怒ることができる。ただ叱るというのではなく、体中で相手に怒りをぶつけることができ、生徒はその怒りに恐れを感じることがあるようだ。
(7)
生徒を一人前の人間として扱い、生徒に自分で決め、自分で責任をとらせるようにしている。
(8)
最大の点は、不気味なところがあることである。これが他の教師と決定的に違う点である。何をするかわからない、何を考えているかわからない、という怖さがある。生徒たちは、ここに畏敬の念をいだいているのである。
 他の教師たちは行動の予測が立つからこわくないのである。大人にはなりきれない教師が多いなかで、子どもにはわからない大人の世界があるということでもある。子どもとはまったく違う何かをもつ、ということなのである。
 S先生のような教師は、もうほとんどいなくなってしまったが、このような教師が一人いれば、学年の教師たちは一つにかたまり、生徒たちもピリッとするのである。つまり学年の大わくをつくることができるということである。
 崩壊した学年が、S先生の加入で、アッという間に立て直されてしまうというのは見事であった。S先生はプロ教師と言っていいと思うが、このような教師がいないと、学校が維持できなくなっていることは確かである。
(河上亮一:1943年東京都生まれ、埼玉県公立中学校教諭、教育改革国民会議委員、日本教育大学院教授を経て、埼玉県鶴ケ島市教育委員会教育長、プロ教師の会主宰)

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インターネットの世界で最も危険なのは、無知であること、トラブル防止には教師が体験する事が大事

 スマホは画面が大きく見やすくなり、操作もタッチパネルで便利になりました。ネットは子どもたちの人間関係を作る場となっています。しかし、便利になった反面、インターネットによるトラブルや犯罪がスマホの流行で増えています。
 ネットには出会い系サイトや学校裏サイト、アダルトサイトだけでなく、合法的なコミュニティサイト、LINEなどから、子どもたちが被害や加害者になっています。
 学校でスマホやネットのルールをきちんと示すことが大切です。また、生徒会が中心となって意見をまとめると、正しく使うための意識が子どもたちの中で芽生えることになります。
 家庭や友だちの間でもINEをやる時間やルールを作ることが重要です。子どもと保護者の間で定期的に話し合い、状況を把握しておくようにしましょう。
 LINEを利用する時間や場所、書き込みについてはトラブルが多いため、話し合いやルールを決めることで改善される場合があります。例えば、夜9時以降は使わない。すぐ返事がこなくても怒らない。自分や他人の個人情報は書かない。
 授業で眠そうにしている子どもはいませんか。ネット依存を治す薬はありません。ネット依存になってしまっている子どもには、こちらから強く規制をしていくしかありません。
 インターネットの世界で最も危険なのは、無知であることなのです。いかに無防備な子どもたちが多いことか。いかに無関心な保護者や教師が多いことか。どんな危険があるのか、どう対処したらよいのかを知るべきです。
 それには、自分が体験してみることが大事です。教師が中途半端な知識で子どもたちと接していては逆効果となります。教師がスマホに詳しいことがわかると、子どもたちも安心して相談できます。子どもたちには、常にインターネットへの危機感を持たせるために、ネットによって起こった事件や新しい情報について話し合ってください。特に「ネットで誹謗中傷を書いていないか」「個人情報や写真を掲載していないか」「知らない人とコミュニケーションをとっていないか」など、常に子ども声かけすることが重要です。
 LINEは子どもたちが気軽に使えるが、子どもの間でのトラブルも多い。子どもたちのやり取りでは、見てからすぐに返信しないと感じが悪いと思われ、グループから外される「LINEはずし」が起こります。子どもは振り回されて疲れを感じていることが多い。
 閉ざされた場所でやりとりが行われているため、取り返しのつかない事態を招きます。LINEから生じるトラブルは深刻です。いじめ問題も報告されています。教師同士が連携を取り、保護者からの情報も集めて対策を練る必要があります。子どもたちに弊害をしっかりと認識させて、状況によっては使用禁止も含めて、強い態度で接してください。
 今や小学生でも自分専用のスマホを持つ時代です。「これはダメ、あれもダメ」とおさえつけるのではなく、大人がルールやモラル、ネットの危険性などをしっかりと子どもに教え、安全に正しく使えるように管理監督することが大事です。そして、スマホを目的や危機意識をしっかりと認識させたうえで与えるということを忘れてはいけません。
(
赤木 聡:SNAスクールネットワークアドバイザー代表。プロとして20年の経験を生かし、子どもたちをネットによるトラブルや犯罪、ツイッター、FacebookLINEでのトラブルから守るべく全国各地で講演活動中)


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子どもを指導するには、その方法よりも教師としての人間のあり方が問われる

 学級指導の第一歩は、率先垂範に尽きる。学級指導の原則は「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」(山本五十六)の言葉が示している。これをどの程度実践できるかが教師力のレベルである。
 私が勤務する小学校に限って言えば、教師が模範を示すことができるか否かで、子どもに理解されるか否かが決まると言ってよい。
 例えば、子どもに「ちゃんと掃除をしなさい」と、言うよりも、教師自身がほうきを使って掃いてみせたりして、見せたりするほうがいい。掃除はどうすればよいのか分からないでいる子どもが意外に多い。まずは手本を示す。
 私ならば机の上を雑巾で拭きながら
「気持ちがいいねえ」「目の前がきれいになるのは気分がいいね」「わあ、きれいになった」と、みんなに聞こえるような声で言うこともあれば、つぶやくこともある。あくまで自然さを失わない程度で声を出す。
 聞いた子どもは、側に寄ってきて私が掃除した箇所を確かめ「ほんとだ!」と声をあげる。すかさず手に持っている雑巾を見せると、雑巾が手のひらの形で汚れている。これも見せる。
 そのうえで、子どもに掃除をやらせてみる。手本を示したうえで「ちゃんとやりなさい」のひと言は効力を発揮する。よいところを、目をこらして見つける。望ましい方向に変化している点を見つけ出すのである。
 どうしてもやろうとしない子どもには「一緒にやろう」となかば強引に引き込む。私ならば「やれっ!」と恫喝する。そして、目を皿のようにして美点を探す。
 ここで留意することは、できた「こと」ではなく、もっと細かく、できた「点」で観る。例えば、雑巾の「絞り方、持ち方、おさえ方、動かす速さ、洗い方、干し方」などである。雑巾だけでなく、動作時の表情や力の入れ具合、真剣さをほめてもいい。教師の観察力にかかっている。
 そして、掃除しているときにほめる。
「○○さん、力のこもった絞り方だね」「○○さん、すばやくなったね」「四角に雑巾を動かせるようになったね」と、見たことをそのまま言葉にすれば、ほめ言葉になる。多くの子どもをほめるために、ほめ言葉は短いほうがよい。短いほうが子どもにも分かりやすく伝わりやすい。
 誰でも正当に評価されるとうれしい。努力を認められればうれしい。教師が自分のことを観てくれていると実感することができれば、子どもは喜び、意気揚々とことに当たろうとする。子どもが教師の心を感じることがあれば、子どもは動く。
 説得とは言葉で子どもを説き伏せることである。子どもが教師をどう思っているかによって、同じ言葉を言っても全然通じないことがある。例えば、私が「さっ、掃除をしよう!」と言っただけで、子どもがさっさと動くのに、別の教師が同じ言葉で動かそうとしても全く反応しなかったりすることがある。原因は、子どもに「信頼・尊敬・好かれて」いるかの違いである。
 指導を成立させるためには、教師自身が子どもに「信頼・尊敬・好かれて」いるか、この三点について評価する必要がある。日々の教育活動の中で謙虚に自分を見つめ、人格向上に努めるべきだ。
 指導方法、つまり「やり方」よりも、教師として人間としての「あり方」をこそ私たち教師は追及し、修養を積み重ねるべきなのである。
 信頼され、尊敬され、好かれている教師ならば、子どもは説得に応じ、学級崩壊などあり得ない、と私は信じている。
(
駒井康弘:青森県公立小学校教師。徹底反復研究会東北支部長)

 

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優秀な教師ほど「親の愛・大人の厳しさ・子ども心」の三つ立場を実にバランスよく使い分けている

 私が教師になって間もないころに、校長が
「きみは教師であるが親ではない。大人であるが子どもではない。これからどんなふうに子どもに接するつもりかな」と問われ即答できませんでした。
 すると、校長は
「『P・A・C』であたりなさい。つまり『P』はペアレント、つまり親の立場で、『A』はアダルト、つまり大人の立場で、『C』はチャイルド、つまり子どもの立場です」
「この三つの立場をバランスよく使い分けてクラスの子どもたちに接するように」と言われました。
 言い換えれば、時には親のような、かけがえのない愛情で、またある時は、社会の一員である大人としての厳しさで、さらには、ピエロのように子どもと同化できる子どもの心を忘れずに、ということでしょう。優秀な教師ほどこの三つを実にバランスよく使い分けています。 
 この「P・A・C」の話が実感として理解できるようになったのは、五、六年後のことです。子どもの心をつかみ、心に響く教育を実践するためには、頑なに自分のスタイルを堅持し、硬直した手法で事に当たってはいけないことを教えてくれたものでした。
 どんな場面でも、自分自身のとっている立場を冷静に分析してみることが教師力を磨くことになるでしょう。
(1)
(ペアレント):親の立場で
 教師は異質なものを厄介ものと決めつける傾向があります。親の要望に対しても「学級全体のことを考えているのに、わが子のことしか考えてない、なんてわがままな親だ」とあきれたりします。愛情過多の「わが子可愛さ」的な要望には、ある程度寛容にならなければいけない。親になってみて初めて実感したものです。高い関心を持ってくれているのだというようにとらえ方を変え、協力者であると思うことが大切でしょう。
(2)
(アダルト):大人の立場で
 すぐキレしてしまう子、ルールなどお構いなしに勝手気ままに行動する子、人の傷つく暴言を平気で吐く子、などが学校現場で横行しています。
 ルールを守れない子や人権を傷つけるような行動には、毅然としてシビアに対処したいものです。親に厳しすぎると非難されても、秩序を守れない子には社会の一員としての制裁は当然です。子どもが大人になり恥をかいたり、疎外されることのないように、大人の目線で見つめることです。
 学級崩壊は子どもたちの社会性の欠如が最大の要因で起きることを再認識することが大切です。
(3)
(チャイルド):子どもの立場で 
 子どもが先生を大好きになるスタートラインは教師が子どもの心で触れ合うことから始まります。子どもたちの輪に入り汗だくで走り回ったり、大声で笑ったりする教師の姿は微笑ましいものです。
 いつも「お山の大将」を演じていると息切れしてよい結果につながりませんが、タイミングをとらえて道化役を演じプロ魂をみせてほしい。
(4)
低学年の子どもには
 Pを土台にし、Cを意図的に頻繁に演じてみせる。危険な遊びやけんか、人を傷つける行動にはAも時には必要です。
(5)
中学年の子どもには
 個々の子どもの特性を理解したうえで、PとAとCをバランスよく使い分けることが必要でしょう。
(6)
高学年の子どもには
 Aを土台にしながら、状況に応じてPとCを小出しにすることが効果的です。
(
小谷川元一:1959年千葉県生まれ、千葉県松戸市公立小学校教師・指導主事(25年間)、学級崩壊やいじめの解決に全力、2007年退職、東京福祉大学・大学院准教授。子育て・教育支援スペース「こたにがわ学園」理事長。24時間子育て・教育相談事業「いじめ・虐待SOS」を展開)

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保護者との接し方の基本とは

 保護者と接する基本は、子どもをよりよく育てるために力を合わせるパートナーとして信頼関係を築くことにある。そのためには
(1)
子どもを思う親心を理解する
 わが子が一番かわいいと思うのが親心である。わが子への期待感が生きがいとなっている親の心境を理解し、対応することが大切である。
(2)
子どもの長所や得意な部分を強調する
 親は子どものことをほめてもらえればうれしいし、親しみをもつ。その子の長所や持ち味を強調し、親の心をつかむことが大切である。逆に欠点ばかりを指摘されれば、反発の心が生まれるものである。
(3)
保護者と共にという姿勢をもつ
 保護者の協力なくしては学校教育は成り立たない。子どもの成長や学力の向上という共通の目標に向かって共に協力し合っていくという意識をもつことが大切である。
(4)
保護者の教育に対する考え方や感じ方を理解する
 保護者の教育観は多様である。教師に何を求めているかを理解しなければならない。
(5)
謙虚な姿勢で常に反省する
 教師は子どもが問題を起こした場合、原因を保護者や子どもに求めがちになる。しかし、教師は自分の指導に問題がなかったか、謙虚に反省し改善していく姿勢が大事である。
(6)
親の努力を認める
 問題をかかえた子どもであっても、子どもを育てきた親の努力を認めなければならない。親を責めても協力は得られない。
(7)
親の子育ての悩みに共感する
 子どもが学校生活でつまずいたとき、親の心は深刻である。教師は親の悩みに耳を傾け、真剣に対応し、どんな協力も惜しまない姿勢を示すことが大切である。
(8)
親に協力することと迎合を区別する
 教師が親と心を一つにして対処することは大切であるが、親に迎合することでない。教育者としての信念に基づき、親の協力を得て教育目標を達成していくのが教師である。「教育への情熱」「子どもへの愛情」「親の意向や子どもの気持ち」を大切にしながら自信をもってあたりたい。
(9)
親への親しみとなれ合いを区別する
 「親しきなかにも礼儀あり」の心を忘れずに、立場をわきまえ、一定の心の距離を考えた、さわやかな接し方を心がけたい。
(10)
学校として一貫性を保つ
 保護者への対応が、教師により、また年度により異なるようでは、学校への信頼を得られない。常に学校としての一貫性をもたなければならない。学校の教育目標、各分掌の指導方針を理解し、学年・学校としての立場で行動する心がけが大切である。
(11)
人権尊重の精神を忘れずに
 保護者への対応、子ども成績や性別などで差別のある態度をとらず、常に公平な立場で行動することが大切である。何気なく口にした言葉が親や子どもの心をひどく傷つける場合がある。そのことが原因で学校嫌いになることもあり、言葉づかいには十分に気をつけたい。
(
岡田克己・鈴木博子:東京都公立小学校校長)


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若い経験の少ない教師が荒れた学級を立て直すにはどのようにすればよいか

 私が新卒1年目のとき学級は荒れていた。私は未熟で、高慢で、いい気になって謙虚さのかけらもなかった。人間は謙虚さがなくなると、まわりが見えなくなるし、自分自身も見えなくなる。
 新学期の始業式を終え、教室に入ると子どもたちは神妙に私の顔を見ていた。今思えば、その静かな時間は黄金の時間だったのだ。どんな腕白な子どもでも「今年こそは」と思っている貴重な時間だったのだ。どの子どもも新しい学年に胸をふくらませている。しかし、そんな自覚のない私は何を子どもたちに言ったのかほとんど覚えていない。休み時間になって、子どもたちが「給食残していいですか」といったことを聞いてきた。これらの質問は「この先生はどこまで許してくれるのか」を見るためのアドバルーンだった。私は見逃していた。一つ一つ全員の前で確認しなければいけなかったのに、そんなことには気づかなかった。
 荒れた学級を受け持つときでも、荒れてない場合でも、初日の出会いが肝心なのだ。その日までに、これから受け持つ子どもたちのできるだけ多くの情報を仕入れ、必要ならば本を買い、専門家に聞いて回るなどして対策を練る必要がある。少なくとも最初の一週間に何をするのか細かく組み立てなければ、学級は荒れる可能性が大なのである。
 教室にはいつもゴミが散らかっていた。「汚いと思ったら、子どもたちは自分でやるだろう」くらいに考えていた。子どもたちに落ち着きがなかったので窓ガラスは月に一枚は割れた。授業は覚えの悪い子に合わせ、しつこいほど私が説明していた。しまりのないダラダラした授業だった。「悪いのは子どもだ。言うことを聞かないほうが悪い」と私は思っていた。「ただ怒鳴り散らす」だけという私の行為が、子どもの荒れ、学級の荒れを生み出しているという最も大切なことに、まだ気づけなかった。自分の学級だけ事件が多かった。
 三学期当初、私は流行性結膜炎になって1週間ほど学校を休まなければならなかった。やることがなかったから本屋に行った。向山洋一の本が目に止まった。時間があるので読んでみる気になった。思えば、その瞬間から私の人生そのものが変わったのだ。こんな素晴らしい教育実践が有り得るのかと。それからの私は金があれば向山や法則化関連の本を買い読み続けた。授業でやりたいことが山ほどでてきた。
 病気が治り、子どもたちに「先生は今日から生まれ変わる。今までみんなにひどいことをしてきた。そのときは遠慮なく言ってもらいたい。先生はまず、ひいき、差別をなくしたい。みんなもそうしてほしい。ぼくもなくすよう努力していく」と願いを訴えた。こんな学級にしたいという教師の強い思いがなければ、子どもたちがまとまるはずがない。
 それから私は授業を楽しくしていく努力を続けた。子どもたちとのつながりは、やはり授業が一番強いのだ。毎晩、つぎの日の授業の発問を考えた。多くは法則化の追試である。子どもたちの反応が、それまでの授業とまるで違っていた。授業を楽しくしていくと同時に、教室内ではボールで遊ばないことなど、教室のルールを確認していった。一人ひとり違った対応で学級が混乱しないよう、「全員の法則」で徹底させた。
 掃除も下手な子どもたちだった。私のせいなのだが、私もいっしょに掃除をしてみると、黙々とやっている子に気がついた。それまでは私は見えていなかった。私はその子をほめちぎった。それを聞いたまわりの子も影響され、まじめに掃除をする子が増えていった。
 教師になって一か月で運動会があった。全校のラジオ体操の指導を担当することになった。指導する技術を持っていなかった。「体操隊形に広がってください」と指示してもうまくいかなかった。その後、六年連続で指導するうちに、まず「上手だなあ。前より、ずっと上手だ」と子どもをほめるようになった。「ブンと音がするくらい腕をまわしなさい」と子どもの動きが変わる言葉を見つける努力もした。
 子どもをほめることが最も重要なことだ。ほめるにも何をほめるかが大切だ。子どもの動きを細分化し、どこがいいのか具体的にほめなければ効果があがらない。「腕をやりのように空に刺しなさい」「よし、グザッといく音が聞こえそうでした」と具体的なほめ言葉で子どもはかわるのだ。
 次の年の4月、学級を組織した。当番、班、係の違いを明確にしていった。係は「おまつり係」「読書二千ページ達成係」など学級の文化を創造するものが生まれた。ついて裏文化を活性化させた。けんだま、コマ、お手玉、将棋、オセロ、チャレランなどいろいろ持ち込んだ。自分たちのやりたいことができる遊びが広がることによって、子どもたちは学校生活を楽しんでいるようだった。実際、けんかは激減、ガラスも割れなくなり、教室がごみだらけということもなくなった。これらのことは、子どもたちの心にストレスがたまっているかどうかのパロメーターなのかも知れない。
 しかし、授業の力はすぐに身につくものではなかった。月に十冊は教育雑誌を読み、ボーナスで三万円分の本を買い込んでも、テンポがなく知的興奮のない授業だった。私は同僚と授業を見せあうことにした。若い仲間はみんな未熟だったが「あんな発問で子どもが動くか」と、言いたいことを言いあえる仲間だった。私たちは幼いひょっこなのだ。本に書いてある通りに実践してみるところから始めるほかはないのである。自分の授業の力を高めたいという思いでいっぱいだった。
 荒れた学級の授業を見て私と同じだ。「何をやってもダメだ」と絶望し教職を去った人もいる。しかし、それはやり方がダメだったのだ。我流では何をやってもダメなのである。荒れた学級を救う道は、教師自身が変わることである。教師自身が謙虚に学び始めることである。教師が反省し、謙虚になれば見えてくる。我流時代には見えなかったことが、向こうからとびこんでくる。
 子どもにとって価値ある教師になるためには、「見えていない」ことに気づくことが不可欠である。私の教師生活は失敗の連続である。しかし、私は「自分は見えていなかった」と心から恥じる経験をこれからも数多くしていきたい。それが教師修業であると考えている。
(
根本正雄:1949年茨城県生まれ、元・千葉市立小学校校長、TOSS体育授業研究会代表、根本体育の提唱者。誰でもできる楽しい体育の指導法を開発し、全国各地の体育研究会、セミナーに参加し普及にあたる)

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進んで掃除をする子どもが少ないが、真剣に取り組む方法がある

 進んで真剣に掃除をする子どもは少ない。ところが、だれもが真剣に掃除に取り組むようになる方法がある。それは「掃除の後、自分の良かった点だけをノートに書かせ、点検、評価する」のだ。
 そのやり方は、まず、子どもたちが掃除をやっている様子を、「よりよい、拭き方・掃き方・運び方」の視点で観察する。このどれかに当てはまる子どもを見つけ、覚えておく。
 掃除が終わった後で、学級の子ども全員に「みんなの掃除の仕方を見ていたら、○○くんの拭き方と△△さんの掃き方がとても良かったです。もくもくとやっていた□□さんも立派です。拍手をしましょう」と言う。
 この時、指摘する内容は具体的であるほど効果がある。これで、望ましい掃除の仕方を再認識させることができる。
 次に、連絡帳を机に出させ、「今、みんなのいい所を探そうと思って見ていたのだけれど、もしかしたら、見落としてしまった人がいるかもしれません。そこで、これから、今の掃除の中で、自分の良かった所だけをノートに書いて先生に見せに来てください」と言って、持ってこさせる。書き終わってない子には、見たというサインをして、見終わったなら
「もう一度、掃除をやります。終わった後でまた、良かった所だけを書いてもらいます。では始め!」
 一回目とは全く違い、真剣そのものである。早く、きれいにできる。掃除の後で、前回と同じようにノートに書かせる。書けた子どもから、点検し、それをもとに、励ましたりほめたりする。「取りかかりが早かった」「机、椅子を10個以上運んだ」「早く掃けた」等、ノートには何重もの赤丸をつける。そして「がんばったね」と声をかけていく。全員のノートを見終わった後で、感想を述べる。
「今の掃除は百点です。君たち一人ひとりの中には、こんなにきちんと掃除ができるすごい力があることがわかって、とてもうれしいです。さて、明日は、いくついい所が増やせるか楽しみです」
 この後、一週間位、毎日掃除の後で良かったところだけをノートに書かせ、丸をつけ、励ましていく。
 掃除を真剣にやらないからと言って、叱ってばかりいても、いっこうに効果が上がらなくなってしまう。では、なぜこの方法がいいのか。
 どんな子どもでも、自分の良さをアピールしたいという欲求を持っている。自分の良かった点だけをノートに書かせ、評価する方法が有効なのは、この欲求に働きかけるからである。
(
得居不二三:千葉県船橋市立小学校教師)

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一流の人間とはどのような人か、一流の人間を育てるためには、どうすればよいか

 人間が実社会の中で生きていくためには知識だけでは幸せにはなれません。松下幸之助()は幹部社員に「君な、どんなに立派な知識や高度な技術を身につけても、それはしょせん道具にしか過ぎないのや。それを使う君自身が人間として立派にならん限りは、絶対にいい仕事はできんのや」と言いました。
 人間としての値打ちを上げるためには「心」を育てる必要がある。心が貧しいのにどんなに立派な知識を身につけても、しょせんその知識は生きてこない。いわば三流の人間に一流の道具を持たせても、ダメだということです。
 人間としての一流は、周りの人のことを常に自分のことのように考えられる心を持つことだと思います。それは「志」を持てばめざすことができる道なのです。一流の人間にふさわしい「心」を育てるためには、みんなのために必要なことだと思ったら多少損をしてもいいから困難なことでも「私がやります」というように「一歩前に出る」という精神を育てることだと思います。
 松下電器がなぜ伸びて大きくなったのか。その理由は簡単です。町の電気屋さんと共に汗を流してきたからです。社員がお得意先の電気屋さんを訪問すると、大きな声で挨拶したあと、雑巾で拭いたりして店を一生懸命きれいに掃除したのです。店に商品が届くと店の人と一緒に運びます。一緒になって汗を流すことによって店の人と心の絆が結ばれていったのです。
 日本のリーダーを養成する松下政経塾を創設した松下幸之助は塾生に向かって「立派な政治家になるために、誰よりも早く起きて、自分の身の回りをしっかりと掃除してや」と言いました。苦労を買ってでもする「心」が一流の人間になる道だと言いたかったのだと思います。一番苦労した人間が、一番感動し、得をするのです。このことをぜひ心にとどめていただきたいと思います。
 松下幸之助は、人を育てるとき、くちぐせのように「自分の頭で考えなはれ」と言っていました。自分の頭で考えることを徹底して求めた人でした。人がやっているから真似をしよう、よそが成功したからうちもやろう、というような安易な気持ちで事業をやっても、絶対に本物にはなれません。時間がかかってもよいから、自分の頭で考えるという主体的で積極的な態度がなければだめだ、という考え方でした。常に「君はどう考えるんや」と社員に考えさせました。
 骨身にきざむような苦労をしながら学んでいくのが本当の意味の生きた勉強だと思います。人に言われてやる、人に教えられてやるというのでは人の成長はしれています。自分の頭で考え、求め、悩み、そして気がつくということが成長につながるのです。
 実社会での勉強は幅広く奥深いもので、本当に問題意識を持って何かをつかもうと強い気持ちになれば、すべてのもの、すべてのことが「先生」になりうるのです。
 例えば、一流の料理屋さんへ行けば、出された座布団はきちんと裏表・前後が正しく整えられています。たとえ高級車に乗っていても、そういうことを知らないと、人間としての値打ちが見抜かれてしまうのです。
 ある朝、出勤してきた松下幸之助は秘書に「今度、松下電器に来る外国の人は、どんな人か知ってるか?」と聞きました。秘書は一応、知っていることを答えました。あくる日も、同じことを秘書に聞きました。秘書は一瞬、社長はボケはじめたかな?と思ったのでしょうか、同じ答えをしたのです。三日目にも、同じことを聞きました。さすがに秘書も答えながら「おかしいな」と思いました。ボケているのではなく「答えに満足していないんやで」という意味かなとハッと感じて、その日の午後、図書館で調べ、本を買ってきて徹夜で読み要約し録音しました。四日目の朝、聞かれたので「社長、時間があったら一度これを聞いてください」と録音したものを渡しました。五日目の朝、「おはよう、君、なかなかええ声してるな」とひと言だけ言いました。彼はこのことを一生涯忘れられないと言っていました。
 この話を聞いて私はたいへん感動しました。私が社長なら「君なあ、その程度のことは僕も知ってるんや、もっと調べてくれるか」と言うでしょう。そうすると次第に部下は考えなくなってきます。私の子育ても振り返ってみると、次から次へと「早くしなさい」とせきたて、ほとんどが子どもの考える力を奪い続けるものでした。
 「待つことは愛である」という言葉があります。私たちは、なかなか待つことができません。そのため、人が育たないということになるのではないかなと思います。
(
)松下幸之助:18941989年、パナソニック(旧名:松下電器産業)創業者。経営の神様と呼ばれた日本を代表する経営者。
(
上甲 晃:1941年大阪市生まれ、松下電器産業副理事、松下政経塾副塾長を経て「青年塾」を創設)

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固い真面目な教師から脱出し、実践で事実を創造し、そこから生み出されるもので自己を成長させよう

 佐藤 学は斎藤喜博()の本「一つの教師論」を読んでつぎのように述べている。
 この本は教師のあり方や生き方を具体的に問うている。その教師批判は、痛烈の一言につきる。たとえば、
○他人の言葉や技術の借り物に依存する「形式主義」と「個性のなさ」
○一般的な考え方に安住した実践と研究の「平板さ」と「通俗性」
○教える者につきまとう「ごうまんさ」と「不遜さ」
○批判されると自己弁護に向かう「卑屈さ」
○大過なく教職を勤める「保守性」
○他者の経験に学ばない「偏狭さ」
など、日常の言動に表れる教師の体質が厳しく検討されている。
 なかでも目を引くのは「教師の固い真面目さ」に対する批判である。この教師の「前近代性」は、現在も教師文化の根底に横たわっていないだろうか。今も、日本の教師たちは、この閉ざされた体質を露呈しているとは言えないだろうか。
 そこで、斎藤喜博は教師たちが閉ざされた世界から脱け出して開かれた創造者に成長する道を示している。
 それは、やはり、「自分の教室で実践の事実を創造し、そこから生み出されるもので、自己を豊に成長させる以外にはない」と、繰り返し力説している。
 現在、学校は危機的な状況を迎えている。学校と教師の閉鎖性と独善性の文化を厳しく問われている。「おかしいではないか」という斎藤の言葉は、私たち自身の言葉にならなければならないのだ。
 そうした現実的な問題と結びつけるとき「教師に何より必要なことは、厳しい自分の実践を持つことである」という言葉は、時代をこえて響いてくる。
(
)斎藤 喜博:1911年~1981年、1952年に島小学校校長となり11年間島小教育を実践し、全国から一万人近い人々が参観した。子どもの可能性を引き出す学校づくりを教師集団とともに実践した。昭和を代表する教育実践者。
(
佐藤 学:1951年生まれ、東京大学教授を経て学習院大学教授。国内外2800校の学校を訪問し、学校現場と共に「学びの共同体」の改革を進めている)

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全員の子どもが参加する授業にするためには、どのようにすればよいか

 どの子も発表し、説明できるようにしようとすると、発表したくても勇気の出ない子どももいる。どのように説明したらよいのかわからなくて手が挙がらない子どももいる。そんな子どもたちには、発表の仕方に慣れさせることも必要である。その方法は
(1)
友だちの説明をまねて復唱する
 一人の子が説明したとする。「友だちが説明したことを一人1回まねして言ってみましょう」と、それを他の子どもたちに復唱させるのである。これを繰り返して行うと、だんだんと説明の仕方が身に付いてくる。
 また、復唱するためには、子どもたちは、よく聞いていないといけないので、聞くことも身に付けさせることができる。
(2)
隣の子どもに説明してみる
 全員の前でいきなり説明するのは勇気のいることである。
 自分なりの考えができたら、「自分の考えを隣の人に説明してみましょう」と、隣の子に説明してみるということを取り入れるとよい。
全員が参加する授業にするために私が心がけることは
(1)子どもの思考を見極める
 教師の思う通りに授業を進めていくだけでは、いっこうに学級全員で考える楽しさを味わう授業に近づくことはできない。
 大切なのは、今、子どもがどのようなことを考えているのか、子どもの思考に合わせ、子どもの考えを生かす授業をしていくことである。教師は、常に子どもの思考を見極めながら、子どもの思考を整理していくことが必要になってくるのである。
(2)
子どもの話を最後まで心で聞く
 子どもの話を心で聞くということである。教師が、子どもの話を最後までしっかり聞いてあげようという態度で臨むと、周りの子どもたちも、自然と話を聞くようになる。教師と子どもの信頼関係、子どもと子どもの信頼関係を育てることができる。授業は信頼関係の上で成り立つのである。
(3)
子どものしぐさをよく見て、つぶやきをよく聞く
 授業中、めだたない子どもに目を向け、そのしぐさを見ていると、指を動かしたり、授業と関係のありそうなことをしていることがある。すかさず言葉をかけるようにする。
 また、子どもたちは自信がない時は手があがらない。しかし、子どもがふとつぶやいた言葉には、意味のあるものが多い。その言葉を拾って取り上げるのである。このようなことを繰り返すと、だんだんと話をすることにものおじしなくなる。
(4)
手をあげるまで、ちょっと待つ
 教師は、手をあげている子どもだけで授業を進めてはいけない。「ここは、みんなに手をあげてもらいたいな」と思う時は、ちょっと待ってみることも大切である。
 時には、手があがっていない子どもと目を合わせるとよい。そんな子どもに「頑張って手をあげてごらん」と目で語りかけてあげると、少しずつ手があがってくる。
 その時「勇気をだしてよく手をあげたね」とほめてあげる。ここで、注意したいのは、ふだん手をあげない子どもが手をあげた時、つい当ててしまいたくなるが、子どもにとってはたまらない。手をあげると必ず当たってしまうのだから。ときどき当てるぐらいがちょうどいい。
(5)
発表したい子に発表させる
 発表させる子どもをあらかじめ決めておくと、教師の考えで授業を進めてしまいがちになる。発表したい子どもの発表には、教師の思いもよらなかった考えがでてくることもある。
(6)
間違えてしまった子どもの気持ちを考える
 大人も子どもも間違えることはたくさんある。間違えるから次に成長することができる。間違えた子どもががっかりしないように、特に配慮をして「○○ちゃんのおかげて、また一つみんなもかしこくなったね」と言葉をかける。そして、間違いでおわらせるのではなく、どのように修正したらいいかみんなで考えさせるようにしている。
(7)
「ここまでしかわからない」を大切にする
 机間指導では、できかたを見る、どのように考えているかを見るなどの意味がある。子どもとふれあって、安心させてあげるという大きな意味もある。
 私が、子どもたちによく言うのは「途中まででもいいんだよ」「ここまでならわかるということを言ってね」ということである。その後は、その子どもの途中の考えの続きをみんなで考えていく。
(8)
授業はしつけから始まるのではない
 始めにしつけをしてから授業をする教師が多い。中には「いすに座る時は、おへそと机の間をげんこつ一つ分あけて座ります」と話している場合もある。
 私は、これには疑問を持っている。いくらお行儀よく座っていても、子どもたちの目がいきいきしていなければいい授業とは言えない。子どもの姿勢を注意するだけの教師ではなく、子どもの反応を見て、自分の授業をふり返ることのできる教師でありたいものである。
(永田美奈子:青森県公立小学校教師を経て、平成19年度より雙葉学園雙葉小学校勤務。NHK教育番組「わかる算数」出演。全国算数授業研究会幹事、基幹学力研究会幹事等)

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モンスター・ペアレントの実態と具体的な対応策はあるのか

 私は教育現場にいた10年間で様々なモンスターと呼ばれる親たちを見てきた。包丁を持って乗り込んでくる親とも対応したし、「てめぇら下っ端じゃ話にならねぇ。教育長を連れて来い」と校長室で怒鳴り散らす親とも出会った。給食費を滞納している親がベンツで来校する姿も。遠足についてくる親も実際に知っている。その姿はまさに異様。言動はとっくに許容範囲を超えている。まともな神経からすれば、とうてい出るはずもない言葉が口に出る。気ままでわがまま、しかも状況を省みない言動によって、教師が困惑し、疲れ果ててしまう。
 私がこれまで見聞きした経験でいうと、モンスターは大きく次の四つのタイプに分かれる。
(1)
クレーマー型
 親が自らの利益や権利を主張してやまないタイプだ。「学校で子どもの面倒を見てもらっている」のではなく「学校に子どもを行かせてやっている」というスタンスだ。重箱の隅をつつくがごとく、日々の授業や行事はもちろん、学校の制度、学校周辺の環境など、学校が関係する細部や学校が感知しないことについても言及される。学校は社会の苦情窓口として捉えられているのではと思えるほどだ。
 例えば、「子どもが休んだ分、給食費を返して」。「給食っておいしくないから、お金を払う気になれない」。「授業中、おしゃべりしていたからといって担任が子どもを叱るなんて、人間ができていない証拠、担任を代えてください」。「転校してから算数の成績が伸びない、ウチの子は前の学校の教科書がいいといっているので教科書を変えてください」。
(2)
わが子中心型
 何をするにも、わが子が中心でなければ気がすまないタイプだ。「ウチの子がよければそれでいい」という発想だ。こどもをペット化し溺愛するあまり、状況がまったく目に入らず、とっぴとしか思えない要求をする。親の思いを子どもに押しつけ、コミュニケーションは常に一方的で、そのため親子としての関係も不安定であることが多い。教師に対する要求もエスカレートし、もっとも扱いが難しいタイプだ。
 例えば、「浦島太郎の劇でウチの子がカメの役になるって泣いていた。ウチの子にも浦島役を」。
(3)
すべて学校に任せる型
 学校をサービス産業と捉えている親は、教師にサービスの提供を要求する。税金を払っているんだから、当然だというわけだ。面倒なこと、やっかいなことはすべて学校に任せる無責任型だ。一度いいなりになると、ズルズルといわれるがままに使われることになるから要注意だ。危ないと思ったら、距離をとってつきあうこと。子どもが問題を起こすと「すべて学校が悪い」と片付けようとする。
 例えば、「次の日曜日、大掃除を予定しているんだけど、手伝っていただけません。主人は体が弱いものですから」。担任「毎日のように遅刻です。何とかなりませんか」親「ウチは学校から遠くて徒歩で15分もかかります。体が弱いので毎朝迎えに来ていただきたいんですが」 
(4)
空気が読めない型
 常識やモラルなど、どこ吹く風のごとく、自分たちがよければ、それでよいタイプだ。自分の欲望を満たすためには、他者との関係などまったく意に介さない。
 例えば、「ウチの子は英語が得意で、将来は米国で働きたいといっています。低血圧で朝イチの授業は調子がでないので、英語の授業を全部、三時限以降にしていただきたいんです」。「大切な知人の子どもの結婚式でウチの子の顔を見たいと言っておりますので、遠足を延期していただきたいんですが」
 モンスターたちの行動の特徴は、不思議なくらいに、自らの言動についての自覚がないことだ。「自分は正しい、ゆえに教師は間違っている」と思い込んでいるのである。
 私たち教師は、毎日のようにモンスター・ペアレントたちと接している。しかし、手だての講じようがないのである。多くの教師たちは、自らの職域と、フツーの親や子どもを守るために、対峙しているのである。私も何年か前までは「人間だと思うから怖い。毛色の変わった新種の動物だと思え」と、自分にいい聞かせて、話し合う場をつくっていたものである。しかし、どうにも言葉が通じないのだ。
 とくに手ごわいモンスターに対応するには、
(1)
相手に、好きにしゃべらせる。そうして怒りを発散させると、比較的穏やかになる。
(2)
相手にしゃべらせ、自分の意見は言わないようにする。
(3)
とにかく相手の言葉に同意して、新しい話題を会話に持ち込まない。
(4)
ころあいを見て、こどもをほめて相手を納得させる。
(5)
「今日は貴重なご意見をありがとうございました」と伝える。
(6)
さりげなく終了する。それでも話が長引くときは、他の教師に携帯を鳴らしてもらい、緊急の要件が入ったと伝える。
といった対応も考えられる。
 現実問題として、モンスターたちは教師や学校を機能停止寸前の状態に陥らせる。いかにして行動に歯止めをかければいいのか。私はそのことに対して、具体的な解決策を持ち得るはずがない。
 せめて、具体策を示せと言われれば、こう答えたい。笑い飛ばせと。モンスターは最高に笑える素材である。むきになって取り押さえよう、改心させようとするよりも、その愚かさ・おかしさを笑ってやることで、自分自身にモンスターの醜さを自覚させるよりしかたないのではないか。そして、こちらもいい意味で笑って受けとめる余裕を持つことで、彼らとの関係を良好に保てるのではないだろうか。
(
上田小次郎:高校教師、教育ライター)

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学級が荒れないようにするポイントとは

 学級が「荒れる」までには、必ず「小さな問題」が発生する。この時、その日のうちに解決する、特別な場合を除きクラス全員で解決するようにする。
 なぜ、その日のうちに解決するのかと言うと、時間がたつと忘れてしまう。また、感情のもつれがひどくなることがあるから。クラス全員で解決するのは、子どもたちは事件からさまざまなことを学ぶからである。
 小さな問題ひとつひとつにいて、教師は見逃さず、いい加減な対応をしないことが肝心である。これをいい加減に行ったり、怠ったりすると、子どもと教師の「人間関係」、つまり「信頼関係」が崩れることになるからである。
 そのためには、まず「事実確認を怠らない」ことである。まず、当事者の子どもを呼ぶ。そして、ひとりずつ、何をしたのか、何を言ったのかを言わせるのである。「どうしたの?」「何と言ったの? 言ってごらん」と優しく、そして静かにきけばよいのである。高圧的に、詰問するように行う必要は全くない。いたずらに感情的になって「事実確認」をすると、事実が確認できないということにもなりかねない。
 ひとりの子が言い終わった後に、次の子というようにするのである。これによって、子ども同士の「言い分」に矛盾が生じてくることがある。それについて、どうなのかきいていけばよいのである。
 「どんな状況だったのか」をクラスの子どもたちに理解させ、そのあと、「どのような言動をすべきだったのか」について考えさせる。無理やり一つにまとめる必要はない。最後に「先生はこう思う」と言って、終わる。
 ざわついて教師や友だちの発言が聞けないときがある。人の話に集中させるには、きっぱりと「全員、起立!」と言って立たせる。「話を聞くときの約束を思い出した人は、音をたてないように座りなさい」これで、集中して聞くことができるようになる。もちろん、「口を結んで、最後まで聞く」「話し手の目を見る」などの約束事は事前指導しておく。この方法のよいところは、行動を責めたりしない。「約束を思い出した人」と行動の主体性を残している点である。
 学級が荒れる原因のひとつに、教師が子どもたちに対して、教師の尺度で要求し、一人ひとりの子どもたちの違いを考慮することがない場合が考えられる。
 子どもたちに対する要求は、一概にまずいといえるものでもないが、時として、教師と子どもたちの人間関係・信頼関係を損ねることにもなりかねない。
 つまり「ああしなさい」「こうしなさい」式の「指示と命令と禁止だけの要求」であっては、子どもたちは動かない。
 学級の雰囲気をこわさないで忘れ物を少なくするには、忘れた子を起立させる。忘れた理由を言わせる。「明日から気をつけなさい」と毅然とした態度で注意する。これだけである。あとは何もいわない。忘れ物をした子は「しまった」と思っているものである。これで十分反省の指導になっている。感情的な説教や文句は、必ずといっていいほど学級の雰囲気をこわし、忘れものの数は減らない。そればかりか、学級の人間関係もこわしかねない。
 教室の整理整頓を自覚させるのに録画を活用するとよい。子どもたちが音楽室などに移動した後、教室の机や椅子が乱れ、ごみが落ちていたりすることがある。注意するだけでは、その場限りの効果しか望めない。どうすればよいか。乱れている机や椅子の様子を録画し、子どもたちに見せるとよい。「きみたちが教室を出たあとの様子を見せます。気づいたことを頭の中にメモしましょう」と言って、録画をテレビで見せ終わった後、子どもたちに「机が曲がっている」「紙くずが落ちている」など発表させる。「これから、教室を出る時に、しようと思ったことを言いましょう」と全員に言ってもらう。効果を確かめるため、次に教室が移動した後も録画して、前の映像と比べるようにして見せる。たったこれだけのことで、整理整頓を意識し始める。その効果には継続性がある。
 集団で何らかの活動をやっている時、自分の思いどおりにならないことに腹を立てて、すねることがある。この時、なぐさたり、叱ったり、つれもどそうとしたりすると一時的に気分がおさまるかもしれない。しかし、まわりがなんとかしてくれるという甘えを助長させることになる。すねた子どもには、こう対処するとよい。すねる。その子をほっておく。すぐに楽しい活動をする。すねている子は気になって何度も見る。少し声をかけてやる。活動に参加したことを後でほめる。
(
「編集」戸田正敏:1957年生まれ、千葉県船橋市公立小学校教師。全国学級づくり研究会・学級づくり中央研究所代表。子どもたちの集団自治力を高め、生き生きと活動する「学級づくり」を目指して実践を重ねています)

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子どもの心の扉を教師は開くことができるか

 子どもに限らず人の心を開くことなど至難のわざだと思う。知りたいと思って追っかけると逃げられる。知りたくないふりをしていると疎遠になる。
 子どもが話しかけてきたら、私というものを出さずに、まず聞いてみる。「そうなんや」とばかりは言わない。子どもたちは自分に心地よいことばを言う人が自分の味方だとは、必ずしも思っているわけではないようだ。
 この子は何を求めているのだろう。どうしてほしいのだろう。どうしてほしくないのだろう。その子の目の動きをそっと観察し続ける。合わさなかった視線をフッと合わせるときがある。心を開こうかと迷ったときだと思う。
「大丈夫、話してみて、何か力になれるかもしれないよ」との思いが伝われと思いながら、その子が話し出すのを待ち続ける。
 保健室での子どもとの対話は、
「先生」「なあに?」「あのね・・・」
「そうなんや」「よかったね」「つらかったね」
「ばかなことしたと思っているんや」「困ったなあ」「あなたは、どうしたいの?」
「私やったらこうするかなあ」
「あなたの代わりは誰もできないもんねぇ。変身できたらよいのになあ」など。
 私がダメと言うこともある。他人を傷つけたり、自分を傷つけたりは絶対に許さないと強く言う。世の中には理屈ではなく、してはいけないことがあると思っているからだ。
 子どもは正しい答えをいつも求めているわけではない。間違ったことはわかっている。でも、間違ったことをする自分も認めてほしいのではないか。
 「何してんの。そんなことしたらあかんやろ」と、子どもに寄り添いながら、軌道修正してくれる人を、子どもは捜しているのではないかと思う。
 子どもと話していると「わかってへんのに理解者のように話されると、いやになる」と言う。ドキッとする。私もその「わかってへん人」になっていないかと振り返る。私は子どものことを理解しようといろんな情報を集める。
 しかし、目の前の子どもが望んでいるのは、自分に向き合ってほしいということに尽きると思う。今起きている事実のみで判断してほしい。変な憶測や同情はしてほしくないと思っているのだと思う。教師が力になれることは、本当は微々たることしかない。
 子どもは自分を一人の人格として尊重してくれる身近な大人としての教師であってほしいと思っているのだと思う。嫌われても言わねばならないことを言い、大きな力にはなれないけれど、痛みを共有してくれる大人の一人になってほしいのだと思う。
(
佐藤友子:元京都府公立高校養護教諭、2008年退職) 


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教師が言っても子どもがよくならないのは教師に責任がある、意識改革し発想を変えよう

 指導ということがわかっていないと、失敗します。ひどいときは、学級崩壊につながります。子どもがよくならないのは、ほとんどの場合、教師に責任があると思います。
「そんなことはありません。私はがんばっています」と言う教師がいます。なるほど、その人から見ればがんばっているのかもしれません。授業を見ると空回りしていることが多いのです。
 例えば、チャイム着席です。「うちのクラスは、チャイム着席しない」「2学期になるのに、まだできない」と怒っている教師がいます。どのように指導しているのかを聴いてみました。「『チャイムが鳴ったら席に着きなさい』って、何度も何度もいっています」と。私は悲しくなりました。これが教育界の現状なのでしょう。
 これでよくなったら、教師はいりません。これは指導ではありません。まずは、教師がチャイムを守っているかどうかを確かめましょう。多くの人は、終了のチャイムが鳴っても、授業を続けていませんか。教師が守らないのに、子どもには守らせよう。これは傲慢です。言うことを聴かないのも当たり前ではないでしょうか。
 教師の意識、これがかなりずれています。まずは、自分の行動を振り返ってみましょう。子どもには要求するのに自分はやらない。自分はやらなくていいと思っていることがいかに多いか。自分の発想を変えない限り、何をやってもうまくいきません。発想を変えませんか。
 「うちのクラス、忘れ物が多いんです」「専科の授業に行くとき、何も持っていかないんです」という話を聴きました。忘れ物で苦労しているようです。「口が酸っぱくなるほど、忘れ物をしないようにっていっているのに」と。どこでもありそうな光景ですね。
 これで忘れ物がなくなったら、教師はいりませんよ。ただ口だけで指導しているだけです。忘れ物をさせないための工夫がありません。これはプロの指導とはいえません。あなたはどんな工夫をしていますか。
 私の場合は何もしていません。忘れ物についてあれこれいうことはありません。忘れ物は、バロメーターの一つだと思っています。授業がおもしろくない、教師への反抗などが、忘れ物という形としてあらわれると考えています。ですから、忘れ物をなくそうとやっきになるのは、本末転倒です。
 私の場合は、忘れ物をする原因は他にあると考えています。直接そのものを指導しても直りません。指導すべきは、他にあるのです。問題は教師の姿勢です。持ってくるのが当たり前という傲慢さ。言えばできるという安易な心。この意識が変わらない限り、子どもが悪いと責めます。自分の指導不足を棚に上げます。子どもたちは教師の傲慢さを敏感に察知します。そんな教師のいうことを聴きたくないのです。
 忘れ物は、教師の傲慢さを教えてくれるメッセージなのです。意識を変えましょう。授業がおもしろければ、忘れ物する子は少なくなります。努力すべきは、授業なのです。
 「あの子、あいさつしないんですよ」という話をよく聴きます。教師からあいさつすれば、子どもはあいさつするものですけど、中にはしない子もいるでしょう。
 あいさつしない子を怒ってしまうのは、ちょっと待ちましょう。あいさつしなかったのでしょうか。あいさつできなかったのでしょうか。なぜしないのかを考える必要があると思います。わざと無視しているのか、氣がつかないのか、面倒くさいのかなどなど。よく見る必要があるでしょう。それをしないで、子どものせいにするのはいただけません。
 自分のことを振り返ってみましょう。あいさつされたのにあいさつできなかったことはありませんか。私はけっこうありますよ。あっと、思ったとき相手は通り過ぎてあいさつしそこなってしまうことがあります。用意ができていないとき、反応が遅れるのです。
 相手の用意ができるように声をかけてみるといいと思います。まず、「○○君」と声をかけます。相手がこちらを向きます。目があったところで「おはようございます」という。そうすると、ほとんどの場合「おはようございます」とあいさつがかえってくる。これは、私の経験です。ちょっと工夫するだけで、結果は大きく異なってきます。料理と同じで一工夫を。
 私がようやくわかった衝撃的な事実があります。漢字に弱い子は何が弱いか。漢字ができないのではない。できなければ練習すればいいが、 効果的な練習方法を教えてもやらない。「できる、できない」以前の問題である。やらないのは、「どうやったらいいかわからない」からかもしれない。「これくらい教えても」というくらい何回も教えてもできない。 漢字の問題ではないのである。
 ポイントを教えても、すぐにはずす。 人の話を聴いていないように見えるが聴いてもできない。 このへんの能力がないか、まだ育っていないのである。
 よく見てみると、漢字ができない子は、単に漢字が書けないのではない。その活動における認識が、極端に低い。違いがわからない。見えない。形が取れない。1つずつ別々なものとしてみている。
 人間は自分よりちょっと先のことしかわからない。「いっても」わからない。 「やらせても」言われたようにできない。「やらない」のではなく、できない。まずは、やる氣をださせることから。 
 ふつうの子が1歩であるくところを、10歩くらいかける必要がある。「あそこに落とし穴がある」とわかっているのに、また落ちる。この子たちは、練習が練習になっていない。 労力の多くを無駄にしている。
 たとえば、今やるべきことは何か、方法 、回数など、具体的に指示する必要がある。焦点化されていないから、何をやっていいかわからない。漠然としているのである。明確な意識で練習していないから、覚えない。できるようにならない。できないのは、意識、方法など、すべてである。それ自体ができないことなど、あまり問題ではない。だから、1回限りで終わり。積み上がらない。
 もちろん、一緒にやる必要がある。ひとりではできない。教育は個別指導にはじまり、個別指導に終わる。個別指導にあたっては、やる氣と意志、発想の転換、ブレーキはずし。考え方 は、子どもに神性が宿る、必ず伸びる。方法は、教材研究(高さ、広さ、深さ、厚み)、相手に合わせる 、次の一手、ちょっと一工夫 、ワンポイント、ほめる、はげます、継続。このように指導していくと、子どもは化ける。潜在能力を発揮するようになる。
(
杉渕鉄良:1959年東京生まれ、東京都の小学校教師。「教育の鉄人」と呼ばれる実践家、子どもを伸ばす為に命をかける熱血教師。ユニット授業研究会代表。その実践スタイルは全国の教師、保護者から支持を受ける。2003年夏、日経スペシャル「ガイアの夜明け」に出演。PHP「VOICE」や、経済誌「プレジデント」での教育シリーズに取り上げられ、各方面からの注目も高い。ユニット授業、10マス計算、表現読み、指名なし発言など、子どもの可能性を引き出すため、さまざまな工夫を凝らした教育実践を行っている)

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いじめを撃退するにはどのようにすればよいか

 教師はクラスの生徒がいじめられているのではないか、というシグナルに気づくと生徒を呼んで聞くことになる。生徒は生徒どうしの世界のことについて簡単にしゃべろうとはしない。まわりの生徒もチクッた自分がやられる恐れがあるので子どもの世界のことを教師には言わない。このように、いじめを確認することは非常に困難なことで、思いつきで何とかなるようなものではない。教師が命がけでぶつからないかぎり、どうにもならないことなのである。
(1)
自分のカンを信用せよ
 いじめのシグナルを受け止めるためには、冷静に観察する目が必要である。朝の会、給食時、清掃時などに、意識的に生徒の様子を観察することである。なんとなく元気がない、ポツンとしている、給食をあまり食べない等、気になることすべてきちんとメモしておこう。そして、定期的にそのカードを見直してみよう。生徒の様子が鮮明になってくるだろう。自分のカンを磨き、そのカンを信用しよう。
(2)
信頼されるための「道」をつけろ
 いじめのシグナルをつかんだとしても、それを生徒に確認するのは難しい。それ以前に「いつでも力になるから気軽に話においで」と、道をつけておくことが大切だ。
 教師として体をはっていることが、生徒に伝わっていなければならない。教師ができることを精いっぱいやることである。そこに信頼が芽ばえる。また、生徒から得た情報は親にもきちんと伝え「家庭でも確認してほしい」と頼み、親との間にも道をつけておかねばならない。
(3)
怒鳴り込んできた親に感謝せよ
 いじめられた親が怒鳴り込んできたら、逃げ腰になるのは絶対やめて、「待ってました」という態度が大切である。親が子どもの口から、いじめの事実を確認してくれたことに感謝するべきなのである。親に感謝し、親との連合戦線を築き上げねばならない。教師は親の怒りを背景に、はじめていじめに立ち向かえるのだ。
(4)
冷静に聞きだし、考えさせる
 いじめを解決するためには、いじめられた生徒からじっくり話を聞くことがスタートである。教師は事実を整理するという中立的な立場をとることが大切である。こうした態度は、いじめた生徒から話を聞くときに重要になる。「とんでもない悪い奴め」という態度で臨むと、いじめた生徒は自分のやったことを素直に話さない。
 いじめとは、自分にとって何だったのか、それを考えさせることが重要なのだから、自分が何をしたのか、されたのか、ということを生徒自身が確認することこそ最大の課題なのである。
(5)
処置には正式の会を設定する
 いじめの確認が終わった段階で、暴行や恐かつなどの犯罪行為をともなう場合はまず、いじめた生徒と親に、学校で処置するか警察沙汰にするかの選択を迫る必要がる。そして学校での処置を望むならば、今後の生徒の生活の仕方について、親の責任を強く要求していくことが大切だ。大切なことは学校での処置は学年主任や校長が開く正式な会で行うということである。
(6)
教師は正義の味方になるな
 いじめの処置の会で教師はいじめの全体を明らかにしていくことになる。ここで親はいじめの全貌を知ることになる。一番大切なことは、生徒が自分でやったこと、やられたことをはっきり知るということである。親もいじめの中身を知って「とんでもないことをした、された」「人間として恥ずかしいことだ」と真っ青になり、親が本気で怒り、育て方を反省すれば、これで会は終わったと言っていい。教師は司会しまとめ役でしかない。正義をふりかざして親と子を断罪するなど絶対してはならない。
(7)
反省しない親子は徹底的に追いつめろ
 いじめの事実を確認しても「いじめたのはうちの子だけじゃない」「いじめられるほうだって悪い」「たいしたことじゃない」と、たじろがない親や子どもが多いだろう。このような場合、自分がやったことを反省することなど不可能である。このとき、いじめられた生徒の親の怒りは決定的になる。教師はいじめられた生徒の側に立って、いじめた親子を追いつめることが必要になってくる。親に対してしつこく感想、考えを聞いていくことになる。親子ともども、とんでもないことをした、というところまで追い込まなければならない。とても難しいことだから、無理だと判断すれば「学校として責任が持てないから警察沙汰にします」と宣言して終わることも考える必要がある。
(8)
教室は教師が管理せよ
 いじめは子どもの世界で必然的に起こるものである。すべてなくすなど不可能なことだ。子どもの世界は今、野蛮で何が起こるかわからない。教室は教師の責任下にある。だからこそ教師は、野蛮な子どもの世界に介入しなければならない。
 教師は生徒たちに、していいことと悪いことをはっきり示す必要がある。折にふれ生徒を叱ったりほめたりすることが大切だ。時には大声をあげ、全身で怒りを表すことも必要になってくる。日頃から生徒の動きをよく見て、まずいときには即座に介入する「うるさい」教師にならなくてはいけない。
(9)
生徒の自治を育てよ
いじめは子どもたちの世界で起こるのだから、子どもたちが自分たちの力でそれをコントロールするのが望ましい。生徒の自治を育てるためには、子どもの世界に公の関係を持ち込むことが必要だ。そのためにはクラスのなかに班をつくることが決定的に重要になる。班は好きなもの同士でかまわない。教師が要求することは「班員は班が守れ」ということである。クラスのなかの協同生活に必要なきまりをみんなで決めて、それを実行できるかという競争を毎日行わせるのである。これは教師の考えを押しつけることになるから、戦争であると覚悟したほうがいい。教師の人間観が日々厳しく問われることになるだろう。教師としての力と人間としての力を日々磨くことを心がける必要がある。
(河上亮一:1943年東京都生まれ、埼玉県公立中学校教諭、教育改革国民会議委員、日本教育大学院教授を経て、埼玉県鶴ケ島市教育委員会教育長、プロ教師の会主宰)

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保護者に好かれ信頼を得るには、どうすればよいか

 ラジオ番組の教育担当として取材に伺った場所は千か所をこえ、現場の先生だけでなく、教育行政、保護者や子どもたちなど、たくさんの人たちから、いろいろな意見や考え方を伺い、伝えることを仕事としてきました。
 最近、取材を通して感じるのは、先生方にゆとりがなくなってきているということです。「子どもたちとゆっくり話す時間がなかなかとれなくて」という声が聞かれます。
 たとえ短い時間でも、子どもたちが先生とのコミュニケーションにとても満足している姿を見ることもたくさんあります。「さすが先生は、子どもに接するプロだなあ」と感心させられてしまうような、コミュニケーションのコツを心得ている先生方がいらっしゃるのです。そうした先生方は、保護者への接し方もとても上手でした。
 教育委員会を取材していると、教師としてほしい人材は「社会性」「協調性」のある人ということで一致しています。世の中での評価は「先生の話し方」によるところが多いのです。
 保護者の人気を得やすいのは、一番に元気がいいこと。頼りがいがあること。機転が利くこと。親や子どもをバカにしていないこと。
 保護者はわがままです。たくさんのことを要求します。先生として困った経験があると思います。先生がきちんとわが子を見ているのか、わかっているのかを気にする親が多い。うちの子はどれだけ伸びたのか、他の子と違うところはどんなところかを教師が見てくれているかどうかは重要なことです。
 子どもを学校に任せてしまっているわけですから、子どもが学校で、どれだけ成長したかを親としては期待していますし、知りたいのです。「○○くんは、教室で騒いでいる友だちに注意してくれたんですよ」とか「○○さんは、トイレのスリッパを自分から並べてくれて」など、ほんの些細なことでも伝えてもらうと、親は「先生は見てくれている」「先生はうちの子どもを知ってくれている」と思うものです。
 親に「この先生に出会ってよかった」と思わせるのは、その子どもの小さな成長でも感動し、それを親に伝えてくれる先生の優しいまなざしや思いなのだと思います。
 私は「バカ」になれる先生がいてほしいと思います。ときに、子どもや親と一緒になって、ばかになって盛り上げることもやってほしい。みんなで子どものように遊んだり、スポーツしたりできれば、それはもう人気者だと思うのです。
 先生が基礎学力をきちんとつけてくれる授業を行っているか、学力について要求する保護者は多い。クラスで自分の子どもはどの位置にいるか、どの程度なのか、ということを知りたがっています。
 成績よりも生活重視の親については、女子の場合、特に「仲間はずれ」にされていないか友だち関係を気にする親が多いです。どういう友だち関係になっていて、うまくいっているかどうか親に伝えてみてください。男子の場合は、わが子が友だちとけんかしていないか、迷惑をかけていないかという点を気にかけています。どんな行動をとっているか、けんかの内容、善し悪しの判断ができているかどうかを伝えてください。
 先生は、もっと威厳をもってほしいと私は思っています。それを裏づける実力があってこそ生まれるものだと思います。きちんとした敬語で話せること。堂々とした態度で自信を持って話すこと。プロフェッショナルとしての自信と誇りをもって、自分の教育についての教え方、子どもたちとの接し方などを保護者に話せるようにしてください。
 保護者会では、自分が話したいことはレジュメにして、読んでわかることは最低限の補足だけにして、あとはその場でしか話せないことに時間を使ってほしいですね。そのためにも保護者会で親が聞きたいことを知ってください。アンケートを取るもよし、学級委員さんから話をしてもらってもよい。
 保護者会で話をするのは緊張するとよく聞きます。必ず自分が「大丈夫」と思えるまで、準備を念入りにしましょう。私は三分間の番組で話すとき、取材は30分から一時間、資料を集めて、三分間の台本を作ります。伝えたいことをひとつだけに絞り、質問がきてもいいように、たくさんの答えを用意します。「ここまで準備すれば、どんな質問がきても大丈夫」と思えれば、自信につながり、あがる確率は低くなります。
 私が取材した保護者会で、自分の生い立ちから話を始めた先生がいました。小さいころ本や紙芝居が好きで見に行っていたそうです。子どもたちの気分を盛り上げたりするために紙芝居や読みがたりをしていると説明しました。親は先生の人柄がわかって好意的になり人気者の先生になったそうです。
 保護者会で悪口は禁物です。一番反感をもたれるのが、事件について、誰かわからないように特定の子を否定する話をしてしまう場合です。わからないだろうと思って話してもわかる親だっているものです。気をつけてください。他の先生や親などを悪く言うのもやめましょう。人柄まで疑われてしまいます。
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中村弥和:1968年福岡県生まれ、LICフレグランス代表。アロマとハーブの予防医学の第一人者として20年の経歴、教育ジャーナリスト、人材育成講師として活躍。熊本放送を経て、TBS,ニッポン放送などレギュラー番組を持つ)

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子どものためにならない教師とは

 素晴らしい教師との出会いによって、子どもの前途がバラ色に輝く場合もあるし、子どものためにならない教師との出会いによって、子ども自体がそこなわれる場合もある。
 少なくとも教師である限り、カウンセリングの心は持ってほしい。受容的な態度をもって接する教師でないと子どもたちは心の扉を開こうとはしない。教師と子どもの間に親近感が高まらないと、いかなる教育も子どもの心の中には浸透していかない。
 子どもの心の扉を開かせることができない、子どものためにならない教師のタイプは
(1)
鋳型にはめこむ
 鋳型のように校則にがっちりと子どもをはめ込むことが最上の教育手段と考えている。押し込めることが教育ではない。子どもの中にある善なるもの、無限の可能性を引き出すことが教育である。
(2)
説教がくどい
 子どもが最も嫌うは、クドクド、ネチネチと説教されること。子どもは自分のしたことが悪いと思っていても、反省の念はどこかにいってしまい「うるさい」「またか」と思うだけである。教育効果はマイナスである。愛を感じられない説教は、やめたほうがよい。
(3)
視野が狭い
 勉強ができなくても、教師に反抗しても、なおかつ、その子どもの中にある良いものを引きだしていくのが教師の役目である。子どもの評価は全人的なものでなくてはならない。
 私は非行少年一万人と接していたが、どんなに悪いことをしてきた少年でも、どこか良いところがあった。私を裏切った少年でも、恨んだことはない。愛すべき少年たちである。少年たちは非行をしなければならない原因をもっている。同情すべき、理解してやらなければならない要素をみんなもっている。もっと視野を広くもって子どもをみていただきたいものである。
(4)
高いところから子どもたちを見下ろす
 謙虚さは誰にでも必要であるが、教師にはとくにそれが必要だ。教師は子どもに教える立場にあるからか、意外に人に教えてもらおうという謙虚さがない人がいる。本も読もうともしない教師がいる。だから人間的な成長がないのである。子どもに対しても謙虚であることは、欠くことができない。
(5)
人間的に魅力がない
 教師は、小さく縮こまった人よりも、失敗してもいい、どんな子どもの心の中にもとびこんでいけるような太っ腹の人がいい。模範生タイプの教師には、子どもたちはどうしても近づきがたいのだ。人間的魅力を感じないのだ。そんな教師からは子どもたちは人間性を学ぶことができない。
 教師の中には子どもの目線までおりて、子どもを理解し、子どもの自立性を高め、全人的教育を行っている素晴らしい教師もたくさんいる。子どものためにならない教師は一部である。しかし、このひとにぎりの教師のために、教師全体のイメージダウンとなっている現実は無視するわけにはいかない。
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相部和男:1928年福岡県生まれ、元少年院法務官、保護観察官)

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いじめのエスカレートや潜在化をくいとめる重要なポイントとは

 ちょっと変だぞ・・・・・と思ったら即介入です。「あれっ?」と思った時には初期段階をこえそうなことが多くあります。教師が気づく頃には、かなり進行した状態が多い。
「私の考えすぎでは?」と躊躇せず、すぐに対処しましょう。この時期を逃すと大がかりな介入が必要となります。それは教師だけでなく、子どもたちにも甚大な被害をもたらします。
 この子なら正直に語ってくれるだろうと思う生徒1~2人をこっそり呼んで学級の様子をたずねます。私の感じたことをぶっつけると、たいてい「そうなんですよ、あの子やられてる!」とせきを切ったように話してくれます。この時、メモしておきます。例えば「からかった」ときは「いつ、どんな場面でどんな行動でどんな言葉で」と、克明に書き留めます。同じことを言う生徒が2人以上いれば、それは間違いなくいじめです。
 克明に記したメモを持って、いじめられている生徒に尋ねます。初めは報復が怖くて否定するかもしれません。その時にこのメモが重要になります。具体的な場面を話し「こんなことあったよね? 嫌だったでしょう」と言えば、泣きだす生徒もいます。
 それでも「遊びだと思っている」と、認めたがらない生徒には「あなたがそれでよくても、周りの人は心を痛めています。それをしている人たちはもっとひどい加害者になってしまうでしょう。だから私にまかせて」「このことは決してあなたから出た情報だということにはしないから。見ていた人たちが不快に思い私に告げてきたことにするから。だって見ていた人は大勢いるのだから」と殺し文句を言います。
 学級で生徒に「私たちのクラスにいじめがあるようだ。具体的に言うと・・・・・・・・・・です。それは学校での問題行動の中でも最も極悪とされるいじめだ。知っていた人はどんなことがあったのか、誰がいつしたのか書きなさい。知らなかった人は、このことを聴いてどう思ったのか書きなさい」と語った後、用紙を生徒たちに渡し記名させます。そして書かせます。
 このアンケートを取ることにより、誰が告発したのかわからなくなります。つまり、全員が告発者になり得る状況になります。加害者の「誰がチクッた」という間違った怒りを抑えるためです。こうすることにより、一部の生徒からの聞き取りは全員からの告発にすることができます。いじめのエスカレートや潜在化をくいとめる重要なポイントです。
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堀川真理:1963年生まれ、新潟市公立中学校教師。学校心理士、カウンセラー。カウンセリング・ワークショップ「サイコドラマ新潟」主宰) 

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考え方が一面的で硬直的な人は教師に向かない、学級経営に失敗する。どうすればよいか

 考え方が一面的で硬直的な教師がいる。私はこの人は教師に向かないように思う。
 こういう人は、人間関係に未熟な面があり、人心の機微が十分に理解できない。
 教師というのは、一つの学級を経営する立場にいるわけであるから、一方で子どもの心を理解し、一方で経営者としてのリーダーシップを発揮しなければならない。単に教科を教えればよいというだけにとどまらない。
 一昔前のように、学校に権威があり、子どもも親もその権威に従っていた時代には、こういう人でも教師ができたかもしれないが、そういう時代はすでに終わった。みんなが対等の時代である。
 これからの時代には、人の心の機微をつかみ、柔軟なやり方、一面的でなく多面的に考え、対応できる教師でないと、学級経営に失敗する。例えば、厳しいだけの教師ではやっていけないし、優しいだけの教師でもやってはいけない。
 子どもといつも一緒に遊び、ざっくばらんに話していれば、いい学級になるかというと、それだけでは駄目である。規律を守ることや学習時間への厳しい姿勢も必要である。
 子どもとざっくばらんな交流ということと同時に、規律を守らなかったり、授業中のやる気のなさには、うって変わって厳格な態度をとる。このような二面性も教師には重要である。
 また、子どもというのは未熟であるから、様々なトラブルを起こす。そうした人間関係の葛藤のさばき方も心得ていないと、教師としてつとまらない。たとえ、ささいなできごとでも、子どもにとっては大きい。硬直な人間は、何が何でも教師の言うことをきかせようとする。だから、いざこざがちっとも解決されないどころか、かえって問題が大きくなってしまう。
 問題解決に大切なのは、教師としての感情ではなく、子どもが何に不満なのかを聞いてあげることである。聞いたあとは、双方がよい人間関係を築けるようにすることである。ここに教師の創造力がある。相手を叩きつぶすことばかりを考えずに、子ども同士も、また教師にとっても、それを機会に両方の意見、そして教師の考えも入れて、新たな関係を築くように工夫することである。
 問題が起きた時こそが、新たな関係を構築する機会ととらえ、創造性を発揮する教師が、学級崩壊させないクラスをつくることになる。
(飛田貞子:東京都の公立小学校教諭を経て小学校校長)

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«どうしようもないことにクレームをつけられた時、どう対応すればよいか