爽の「野の百合を見よ」は何が「微妙に間違えて」いたのか
フリカムイの効果は出ていて手牌も良かった
先にカンして嶺上牌もひとつ潰した
それでも関係なく和了ってくるのか
嶺上開花――
(峰の上に花が咲く――)
いい名前の役だ
「ロン 2600」
「!」
「はい」
「カン!!」
(花…)
(野の百合を見よ)
労せず紡がざるなり
かつて栄華を極めたるソロモンだに――
その花の一片にしかざりき…!!
「ツモ」
「嶺上開花 3000・6000!!」
(また微妙に間違えてるってチカに怒られるかな)
(第152局「一片」)
爽がやにわに聖書を引っぱってくるが、順序や解釈を微妙に間違っているらしい……という流れは、副将戦開始前に続いてこれが二度目になる。はたして今回の引用は何が微妙にずれていたのだろうか。
爽が引用していた新約聖書の該当箇所を以下に引用する。私の手元にある新共同訳の聖書では、野の百合に当たる箇所を「野の花」と訳している。
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」
(マタイによる福音書「思い悩むな」 新共同訳)
劇中での爽の引用は、話の展開や直前の台詞から、咲さんの窮地における攻勢を賞賛するニュアンスが強いと思われる。アバターバトルで百合の花が咲き誇っていることも相まって、この引用で強く印象づけられるのは、栄華を誇った大都市のバビロンにも勝るという「野の百合の美しさ、力強さ」である。
しかし、原典をよく読み返すと、イエスの話の主眼は花や鳥獣にはなさそうである。むしろ、爽の引用箇所の続きを読む限りでは、野の百合は明日には炉に投げ込まれていそうだ……。話の本筋は、バベルの塔に象徴される人間の欲望、驕りに対する警鐘にあり、野の花は鳥と同様に、偉大な神の「創造物」の一例としてを取り上げられている。イエスがあくまでも強調しているのは、人間の英知や発展の象徴である大都市など及ぶべくもない「父なる神の創造の偉大さ」なのである。
爽が「微妙に間違えて」いると思ったのは、こういった「話の主眼」だったのではないだろうか。
余談だが、この「思い悩むな」の説話全体を、神の存在に目をつぶって解釈するならば、「やくざな欲望に惑わされるな。清貧に、隣人と助け合って生きろ」となる(こう書けばテストで60点はもらえる)。イエスさんは「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」だの「不正にまみれた富で友達を作りなさい」だの「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」だのと、どうにも理解しがたいことをのたまって今日のわれわれを悩ませているが、この説話は比較的、現代的価値観からも理解しやすい部類ではないだろうか。同様のメッセージが込められた説話に「金持ちの青年」(「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」のあれ)などがある。
爽の引用の意図は、この現代的な解釈からも、ちとずれている。
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