ニーム・カロリ・ババは、戒律やハタ・ヨーガなどの伝統的な手法を重視していなかった。
それよりも、奉仕をすること、心を神に向けることを教えていた。
マハラジに出会うまで、私は長いあいだ模索し、各地を放浪して、さまざまな勉強をしてきました。
厳しいヨーガの戒律、ブラフマチャリヤー(禁欲)を実践するようになり、午前三時に起きて冷水を浴び、ヨーガの体位や瞑想をしました。
マハラジに会ったのは、ちょうどコーヒーと紅茶をやめたときでした。
そのときは私たち全員にお茶が出されましたが、どうしてよいかわからず、何も言わずに飲みませんでした。
マハラジは、私のほうに身を乗りだして、言いました。
「お茶を飲まないのか? 飲みなさい。このような気候には、お茶を飲んだほうがいいのだ。お茶を飲みなさい!」
結局、私はお茶を飲みました。
その一杯のお茶で、厳しい規律やスケジュールが、すべて洗い流されてしまいました。
無意味で必要ないものに感じられたのです。
本当の修行とは、そのようなことを超えているような気がしました。
現在は、自然にやりたくなることなら、何でも実践しています。
ある程度の戒律は必要かもしれない。
しかし、それに囚われて、狭量な心になってしまうなら、本末転倒ではないだろうか。
お茶を飲まないということと、真の霊性修行とは、また別のものであると思う。
ハタ・ヨーガ(神と結合するための肉体の訓練法)について質問すると、マハラジはつぎのように言いました。
「もし、おまえたちが厳格なプラフマチャリヤーならハタ・ヨーガをしてもよいが、そうでなければ危険だ。
ハタ・ヨーガは、クンダリニーを目覚めさせるむずかしい方法なのだ。
献身や人びとに食べものをあたえることでも、クンダリニーは覚醒する。
クンダリニーは、かならずしも外的な兆候として現れるわけではない。
静かに目覚めることもある」
また、別の人にはつぎのように言いました。
「頭で倒立するときには、バターを食べなさい。
不純なものを食べている場合は、頭で倒立してはならない。
不純な食物が精神に入って影響を及ぼすからだ」
ハタ・ヨーガやクンダリニーを操作する手法、チャクラを開かせる手法には、大きなリスクが伴う。
信仰や奉仕によって、自然にクンダリニーやチャクラが目覚めていくほうが、遥かに安全である。
身体の快感に囚われると、道を間違う危険性がある。
リシケシュからケンチにやってきた何人かの西洋人が、ハタ・ヨーガの食養生をすべて実践し、ドーティを飲みこんだり、鼻に紐を通したりしていました。
マハラジは、彼らがあまり狂信的にならないように注意しました。
「わしもあらゆる修行を実践してきたが、そのようなやりかたではない」
このような手法は、健康には役に立つかもしれないが、霊的に成長することとは、それほど関係がない。
狂信的になり、囚われすぎることで、心が狭量になり、人を見下したり、責めたりするようになる。
それによって、新たなカルマを積むことになり、心が穢れる。
まったくの本末転倒になるリスクがあるので、囚われ過ぎないようにする必要がある。
マハラジは、人生におけるあらゆる局面で心の平静さを保つことができれば、生をより向上させていくことが可能だと言いました。
川沿いの火葬場で死体から人肉を食べたり、ほかにも不浄なものを食べる、鬼のような邪道を歩む存在であっても、神に心を集中するならば堕落することはない、肉体の堕落はありうるが重要なのは心の在りかたなのだ、と言っていました。
ニーム・カロリ・ババが教えていることは、シンプルである。
心を神に向け、神に集中することを教えている。
そして、カルマ・ヨーガ(奉仕の道)を勧めている。
欲望を抱いたまま、ハタ・ヨーガをしても効果はない。
今日、本当にハタ・ヨーガを知っている者はいない。
書物からハタ・ヨーガを学んでも効果はない。
かつてハタ・ヨーガの実践者は断食をしたり、薬草を用いていた。
数百年も生きているニーム・カロリ・ババは、ヨーガの真の極意を知っているのだろう。
現代のハタ・ヨーガのほとんどは、健康体操のようになっているのかもしれない。
しかし、ニーム・カロリ・ババが一番重要視していたのは、そのような技法ではなく、奉仕と信仰である。
その道が、一番安全であり、一番報われる道なのかもしれない。
(出典:「愛という奇蹟」ラム・ダス編著 パワナスタ出版)

