こんにちは、パラベル(@parabell_life)です。
世に蔓延る「いくらなんでもそれはあんまりだろ」な名言に物申したい。
神は乗り越えられる試練しか与えない。
今回はこいつが秘める、業深き「そりゃないぜポイント」に思いの丈をぶつける。
ふざけるな。
どうしてこの言葉が、名言のように蔓延してしまったんだろうか?
のっけから全否定もどうかと思うけど、どう考えても明らかにこれはありえない。
明らかにそんなことはない。
考えれば考えるほど、本気でキレそうになってしまうくらいに、ありえない話だ。
これを言えるとしたら、乗り越えられる試練だけで生きてきた人間だけだ。
乗り越えられなかった人はどうなるんだ?この時点でもうダメだ。もし神がいるなら、このまるで機能していない設計図を今すぐに破り捨てて、何もかもやり直してくれ。
この言葉を支えに人生があるというのなら、それはもちろん個人の自由だ。
好きにすればいいし、人生を揺るがすような試練がないのは、一つの幸せだろう。
だけど、軽々しく吹いて回って、追い詰めることだけはやめてくれないか。
耐える余地も受け入れる余地もない、限界を貫くような、苦悩や苦痛もあるんだ。
相手のことをまるで考えていない。
人が耐えられる許容量は、個人差に大きく左右されて、絶対的な尺度なんてない。
本当に限界の淵にいて、すぐにでも、無理矢理にでも休ませないと壊れてしまう、そんな人に対して言えるのか?最後の一撃になるかもしれない、この情け容赦ない言葉を。
過労死や過労自殺をしてしまった人、縋る希望もなく命を落とした誰かの遺族、頼る相手もなく人生に膝をついた誰かを前にしても、それでもこの言葉を使えるというのか。
例えば仮に、まだ元気な人だったとしよう。その人がどうしようもなく苦悩して、人生どん詰まりの状況に陥ったとき、乗り越えられない自分をどうやって救えばいい?
救えはしない。乗り越えられない自分を、ただ追い詰めるだけなんだ。乗り越えられる試練しか与えないと言われてしまったら、もう逃げ場はなくなってしまう。逃げ場を失った、あるいは見失った人間の痛みや苦しみも理解できずに、したり顔で言わないでくれ。
乗り越えられるのに乗り越えられないなら、努力が足りないとでも言いたいのか。
そんなに追い込んでどうしたいんだ?
無責任に放り投げていいような代物じゃないんだ、その言葉は。
きっとそんなに深く考えてはいないんだろう。わかるさ。それくらいのことは俺でもわかるんだ。こんな記事は難癖を付けたいだけだと、そう思われるだろうこともわかる。
だからこそ腹が立つ。容易く誰かの精一杯を踏みにじるようなことを平然と言っておきながら、それでいて自覚もなく、いいことを言ったと思い込んでいるその能天気さに。
いつか本当に窮地に立たされたとき、こんな言葉は助けてはくれないんだ。
神は(誰かの助けを借りれば)乗り越えられる試練しか与えない、せめてこうだ。
神は試練なんて与えはしないんだ。
全否定に次ぐ全否定ときて、その意味では俺も相手のことを考えていないと思う。
それでも悪いとは思わない。神は試練なんて、与えたりはしないから。
支えになる言葉が欲しいなら、もっといい言葉だってきっとたくさんあるはずだ。
だから、乗り越えられない誰かを切り捨てる、無責任な名言に縋ってしまわなくてもいいんだ。全力を振り絞って立ち向かって、それでもダメなら、胸を張って逃げていい。
その栄光の敗走は、俺が認めて、俺が労って、俺が称賛したい。
俺の称賛はこれっぽっちも嬉しくないかもしれないけど、それがどうした。
全力で立ち向かって、ギリギリで逃げ出した勇者がいるんなら、俺は称賛したい。
全力で立ち向かって、全力で逃げてくればいい。ただそれだけでいいんだ。
乗り越えられない試練があったとしても、おかしくはないんだ。例えその全力で、今日何かを乗り越えられなかったとしても、またいつか全力を出すための力になるはずだ。
それでいい。
それでは、また次の記事で!