紀伊國屋書店を育てた破天荒創業者とカミソリ番頭の理想的な関係

紀伊國屋文左衛門とは関係ない紀伊國屋書店


 紀伊國屋書店は1927年(昭和2年)創業、売上高1000億円、従業員数4000人(正社員800人)、全国主要都市に64店店舗を展開する日本最大の書店です。社名の由来は創業者の田辺茂一の先祖が紀伊徳川家の江戸藩邸に勤める足軽で、商売を始めた時に出身地にちなんだ「紀伊國屋」をつけたことです。最初は材木問屋でしたが、その後炭問屋になり、茂一の代になって炭問屋の傍らで書店を開業して今に至っています。ちなみに江戸時代の豪商、紀伊國屋文左衛門とは関係性はありません。

写真/くーさん

 7歳の時に、父親に連れられた丸善書店で洋書の陳列に魅せられたことをきっかけに、書店を志した茂一でしたが、目指したのはただ本を売るに留まらず「そこへ行けば何かがある」文化そのものを作り出すことでした。それは店舗が狭かった創業当初から2階にギャラリーを併設していたことからも伝わってきます。その後は、戦災により大きな被害を受けて廃業を考えながらも、将棋仲間だった角川源義(角川書店創業者)の励ましで事業を再開、1946年の法人化を経て、1950年にはその後の「育ての親」とも言える松原治が入社し、本格的な紀伊国書店の躍進が始まります。

創業者は立川談志をいじる「夜の市長」?!


 ところで、茂一は書店経営者という以外にも文化人としての顔がありました。特に「大番頭」松原が入社して経営も安定してきた後は、自身は殆ど経営に関与せず、夜な夜な銀座に出現してバーからバーへと飲み歩き、華麗な女性遍歴を繰り広げて「夜の市長」と呼ばれており、多数ある著書のタイトルの中にも「芸者の肌」「おんな新幹線」「穀つぶし余話」などがあります(笑)当時交遊のあったピーコにも「(銀座の真ん中を)俺の鞄を持って、俺の前に立って『タナベモイチが通ります~、タナベモイチが通ります~』って言いながら歩け」と言って歩かせたエピソードなど、なかなかの「夜の市長」ぷりです。

 あと、有名なエピソードとして、絶頂期の立川談志(年末の立川談春の「赤めだか」ドラマ化ではビートたけしが演じてましたね)の慢心を懲らしめるために、飲み屋で「よう、テレビでよく見る三流芸人じゃねえか」と声をかけ、談志が大変憤慨して「この野郎、どうせ落語なんかろくに知らねえんだろう」と激しく詰め寄ると、噺家顔負けの掛け合いを披露して見せて談志を黙らせ、その後は公私ともに信頼しあう間柄になったというものもありますね。

「何でも時代のせいにしてりゃあ、そりゃあ楽だわな」


 しかし、一方でそれらのエピソードからは「そこへ行けば何かがある」という、ある意味カオスな文化を醸成するエッセンスも感じます。それが、結実したのが1964年に竣工した新宿本店ビルです。地上9階、地下2階、書店は20坪~30坪が適正と言われていた時代、なんと600坪あるスペース、初期の頃には画廊に加えて喫茶店もあって、昨今のブックカフェを既に実現していたり、茂一の好みの美少女店員で若者の気を引いていたというのも(笑)従来の書店とは一線を画していますが、何と言っても最大の特徴は「紀伊國屋ホール」という劇場を設け、運営したことでしょう。

 劇場のある本屋、という時点で世界にも類を見ないわけですが、その劇場が開場当時から現在に至るまで、日本演劇界を代表する劇団が活躍する場となり、舞台俳優を志した者なら一度は立ってみたい劇場として、本多劇場とならぶ小劇場演劇のメッカとして名を馳せているのは「フィールド・オブ・ドリームス」の世界かと思います。一方で、若手新進劇団にも広く舞台を開放して、つかこうへい、野田秀樹、鴻上尚史、三谷幸喜などを輩出、「新劇の甲子園」とも呼ばれています。また、月に一度は「紀伊國屋寄席」というのもあります。

 こうして見ると「都会」「本屋」「洋書」「ギャラリー」「演劇」「落語」「美人」と、新宿本店は茂一の人生そのものだったのかもしれません。「俺をだらしないと思うから、社員がやる気をおこすんだ」と語っていた「不良老人」茂一でしたが、晩年、ラジオでインタビュアーに「炭屋の片隅で始めた本屋が日本一の本屋になるような、そんな時代というのは、もう来ないんでしょうね」と問われた時の答え「何でも時代のせいにしてりゃあ、そりゃあ楽だわな」には確かに「そこに何かを作った」人間の矜持も感じます。

日本一の書店を作った元陸軍主計中尉のロジスティクス


 さて、そんなユニークな創業者の夢をビジネスへと見事に着地させ、紀伊國屋書店を日本一の本屋へと押し上げたのが松原治です。松原は東京帝国大学法学部(ちなみに同期に中曾根康弘がいます)を卒業後、南満州鉄道に入社するも招集を受け、陸軍経理学校を首席で卒業し、陸軍主計中尉として中国を転戦したロジスティクスのスペシャリストで、その優秀さは敗戦後の中国からの引き揚げ時に、中国の将校がその帰還を阻止しようとするレベルでした。

 そんな松原が入社後、紀伊國屋書店は洋書の販売に力を入れていました。そして、この洋書の販売に手応えを感じた松原は、それを足がかりにして、新宿以外の日本の主要都市への店舗の拡大に成功し、1969年には小売業が海外に出るのが珍しい時代に、サンフランシスコにも出店、洋書を日本で売りつつ、日本の本を海外で売る、海外展開を早くも開始します。また、店舗の拡大の一方で、大学などに高単価な洋書や雑誌を売る外商部門を強化、大きく伸ばすことに成功しました。

第121期決算公告 2015年12月25日官報128頁より
売上高:1086億3197万円
営業利益:7億3130万円
経常利益:12億2262万円
当期純利益:7億5010万円(+11%)※()内は前年比
利益剰余金:192億2012万円

過去の決算情報 詳しくはこちら
http://nokizal.com/company/show/id/1130940#flst

国内店舗ジリ貧もダントツ売上の理由


 ちなみに、現在の紀伊國屋書店の各部門の売上ですが、国内店舗560億円、海外店舗250億円(会計上は配当金が営業外収益に)、外商部門500億円となっており、国内の出版業界が厳しい現在なら尚更、上記の戦略がいかに有効だったかが分かりますね。書店売上ランキング等を見ると、1位の紀伊國屋が店舗数の割に売上が突出しているように見えますが、実はこういう「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」的ビジネススキームの影響が大きいわけです。

 とはいえ、皆さんご存知の通り、国内の出版業を取り巻く環境は益々厳しさを増しています。以前からずっと言われている再販売価格維持&委託販売制度という「内憂」はもとより、最近ではAmazon(ネット書店)やブックオフ(新古書店)、コンビニという強力なライバルの出現や若者の活字離れという「外患」も抱えており、紀伊國屋書店においても、上記の海外店舗の売上の伸びもあり、全体としては増益傾向ではあるものの、日本最大の書店の規模に対して利益額自体は決して安泰とは言えないレベルですし、売上自体も国内店舗が更に落ち込んでくると厳しくなってきそうです。

「そこへ行けば何かがある」という希望


 そんな中で、もちろん紀伊國屋書店もただ手をこまねいているだけではなく、最近だと村上春樹さんの自伝的エッセイ「職業としての小説家」の初版を返品前提の委託販売ではなく、出版社から直接、初版の9割を買い切って利益率を上げる方式をとって、話題になりました。その後「職業としての小説家」は増刷がかかったので、このリスクをとって利益率を上げた戦術は成功だったようです。一方で、村上春樹さん&ノーベル賞シーズンだったから取れた積極的な戦略だったとも言えますが。

 ただ、紀伊國屋書店は元々、他の書店と比べてもパブラインという売上データをリアルタイムで確認出来るシステムに早くから積極的に取り組んでいたり、買い切りの多い海外での経験が豊富な社員を多数抱えており、今後も上記の様なアグレッシブな取り組みをやれるポテンシャルは十分にありそうです。何より、結局のところAmazonに出来なくて、リアルな書店に出来ることと言えば、まさに茂一がこだわった「そこへ行けば何かがある」という不確実な出会いへの期待であり、物も情報が溢れる今の時代においては確かに難しいことだとは思いますが、そこは承知で紀伊國屋書店には「何でも時代のせいにしてりゃあ、そりゃあ楽だわな」のDNAに期待したいと思います。<写真/くーさん

【平野健児(ひらのけんじ)】
1980年京都生まれ、神戸大学文学部日本史科卒。新卒でWeb広告営業を経験後、Webを中心とした新規事業の立ち上げ請負業務で独立。WebサイトM&Aの『SiteStock』や無料家計簿アプリ『ReceReco』他、多数の新規事業の立ち上げ、運営に携わる。現在は株式会社Plainworksを創業、全国の企業情報(全上場企業3600社、非上場企業25000社以上の業績情報含む)を無料&会員登録不要で提供する、ビジネスマンや就活生向けのカジュアルな企業情報ダッシュボードアプリ『NOKIZAL(ノキザル)』を立ち上げ、運営中。


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