戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 未来への選択(5)教育 2016.01.16


今子供たちの貧困が進み厚生労働省によれば17歳以下の6人に1人が貧困状態にあります。
さいたま市では市内10か所で主に中学生を対象にした学習支援教室が開かれています。
多くが年収200万円以下の家庭の子供たち。
さいたま市とNPO法人が協力して進めています。
この活動を中心になって進めている元高校教師の青砥恭さん。
学校教育が今大きな曲がり角にあると考えています。
平等を目指して始まった日本の学校教育。
戦後70年どのように歩んできたのでしょうか。
焼け跡からスタートした戦後日本。
中学までが義務教育となり全国全ての学校で平等を目指した教育が始まります。
身の回りに題材を求める経験重視の教育。
高度経済成長の時代国は知識を徹底して教える教育に舵をきります。
受験戦争は過熱。
学校ではいじめや校内暴力が問題になります。
90年代ゆとり教育が導入され考える力が重視されます。
しかしゆとり教育は学力低下につながるのではないかという批判が起こり再び知識重視に変わります。
「知識」か「考える力」か。
戦後揺れ動いてきた日本の教育を学校や行政の現場から見つめます。
作家山中恒さん84歳。
日本が敗戦を迎えた時中学校に通っていました。
戦中から敗戦直後にかけての学校教育を自身の体験を基に考え続けています。
基本的になってるそういうものを…1945年マッカーサー率いるGHQの下に始まった占領政策。
GHQは教育改革に力を入れ戦前の軍国主義を一掃し民主主義教育を進めていきました。
でひっくり返って…翌年アメリカから来日した教育使節団。
教育学者ら27人は新たに中学校3年間を義務教育とする事や男女共学を提案します。
当時教師を目指していた無着成恭さん88歳。
無着さんはアメリカ教育使節団の報告書を読み衝撃を受けました。
日本と逆でね。
それまで義務教育は6年間の初等教育だけでした。
日本各地から中学校の義務教育化を求める陳情が出されていきます。
1946年日本国憲法が公布されました。
朕は国民と共に自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。
第二十六条ではすべて国民はその能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有する事がうたわれました。
中学校までが義務教育とされその無償化が定められました。
全国からの陳情が受け止められたのです。
翌年4月から新制中学がスタートします。
中学までは誰もが同じ教育を受けられる。
世界的にも新しい試みでした。
敗戦後の厳しい経済状況の中全国津々浦々で新制中学がつくられていきます。
三重県尾鷲市。
漁業と林業のこの町にも新制中学校が誕生しました。
現在各学年4クラス369人の生徒が通う尾鷲市立尾鷲中学校。
校長は21代目となる五味正樹さんです。
校長室に学校を創設した時の記録が残っていました。
戦後の物資不足の中小学校の古い校舎を間借りして始まりました。
「机椅子が不足のため板間に座ったまま授業を受けた。
一枚の窓硝子もなく寒冬中震えながら授業を受ける」。
おはようございます。
今日はよろしくお願いします。
中国から復員した内山さんは尾鷲中学の教師となります。
2年と3年に英語を教えました。
新制尾鷲中学の一期生です。
(小池)1年生…これが。
そういう時にもう…全国で新たに誕生した中学校は1万6,000以上。
しかし新制中学は同時に地域に負担ももたらしました。
人件費などは国が負担しましたが校舎の建設にかかる費用は地元で出さなければならなかったのです。
1946年に文部省に入省した安嶋彌さん93歳。
始まったばかりの学校制度の整備に取り組みました。
占領下教育の民主化が次々と進められていきます。
1947年教育基本法が制定されました。
教育の目的は「人格の完成」であり「個人の価値」を尊ぶという戦前にはなかった教育理念がうたわれました。
教育委員会制度も発足。
教育の基本方針を決める教育委員を住民が投票で選ぶ仕組みでした。
地方分権の教育が目指されていきます。
あ〜どうも。
1946年に文部省に入り教科書局で働いた上田薫さん95歳。
上田さんは学校教育の基準となる「学習指導要領」作りに取り組みました。
これが「学習指導要領」最初の時のです。
日本で初めて誕生した「学習指導要領」。
表紙には「試案」と書かれています。
この時の「学習指導要領」は必ず守るべきものではなく「一應の規準」でした。
「これまでの教育ではその内容を中央できめるとそれをどんなところでもどんな児童にも一様にあてはめて行こうとした。
型のとおりにやるのなら教師は機械にすぎない」。
「児童青年のその地域における生活の特性によって地域的に異なるべきものである」。
修身歴史地理が停止となり新たに社会科が教科に加わります。
上田さんはその内容作りに関わりました。
割合にこうなんか…そういう意味ではね…戦後地域や学校に委ねられた新しい教育。
それはどんなものだったのでしょうか?広島県の農村地帯三原市本郷。
新たな社会科の授業に取り組んだ本郷小学校です。
1948年から教師を務めた吉田達也さん88歳です。
これですね「吉田達也」。
これが当時のものですね。
吉田先生が作った小学校4年の授業プラン。
どうしたら本郷の農業生産を上げられるのか。
教科の垣根をこえて子供たちと考える事にしました。
地域を巻き込んだ新しい教育内容カリキュラム。
中心となったのが当時東京大学の研究者だった…大田さんはふるさと本郷のため片道1日かけて汽車で通い詰めました。
地元本郷の暮らしを考える4年生の授業。
子供たちが持ち寄った土で教室いっぱいに町の地形を再現。
GHQが視察に訪れるほど注目を集めます。
大田さんは現在97歳。
新たなプランをみんなで作り上げた時の熱気を今もはっきりと記憶しています。
各地で子供たち自らの興味関心を大切にし主体性を伸ばす教育が目指されます。
教師たちは創意工夫を凝らした授業を進めました。
山形県旧山元村。
この山あいの中学校でも新たな試みが始まります。
作文を通した教育実践「山びこ学校」です。
中心となったのは教師になったばかりの無着成恭さん。
子供たちは身の回りの生活をつづり発表します。
作文をもとに自由に意見を述べあっていきました。
「思わず『うう寒い』と言ったら『山に行ったおっつぁの考えみろ』とおっかにどなられた。
そうだ。
ピューピュー風当たりの強い山でおっつぁとあんつぁが木を切っているのだ。
そうだ。
寒いなんて言っていられない。
おっかの言うとおりだ」。
でそうするとね「分からないよ」って。
こういうふうには考えましたね。
1951年日本はサンフランシスコ平和条約に調印。
独立を回復しました。
政府は占領下で進められていた教育制度を日本の実情に合わせるとして動きだします。
自民党はそれまで公選だった教育委員を任命制にする法案を提出。
1956年強行採決しました。
翌年教師一人一人の勤務成績を校長が評価する勤務評定が導入されます。
戦後誕生した日本教職員組合日教組は教育の自主性を奪うものだとして激しく反対します。
しかし勤務評定は全国で定着していきました。
戦後進められていた体験重視の新教育。
しかし研究機関が子供たちの学力低下を指摘。
父母たちの不満が高まります。
教育学者も批判しました。
「新教育はあまりにも子供たちの生活経験のみに頼りすぎている」。
文部省ではそれまでのカリキュラムを抜本的に見直していきます。
初等中等局教育で「学習指導要領」の改訂に長年携った菱村幸彦さん81歳です。
結局…文部省は「学習指導要領」の改訂に踏み切りました。
ああここですね。
1958年に作られた新たな「学習指導要領」。
いずれの学校においても取り扱うとして法的拘束力を持つものになりました。
1960年代日本は高度経済成長を迎えていました。
池田勇人首相は国民所得倍増計画を打ち出します。
私は前から10年以内にやるとこういう事なんだから。
10年たったら2倍以上。
池田首相は国会でこう語っています。
池田首相は経済成長を支える労働力の養成を教育に求めたのです。
系統的な基礎知識を中学で習得した卒業生。
工場労働者や建設作業員店員などとして働き「金の卵」と呼ばれ期待されていきます。
尾鷲でも就職熱が高まっていました。
尾鷲中学を出ると多くの卒業生たちは集団就職をしていきました。
おはようございます。
おはようございます。
今日はよろしくお願いします。
当時体育教師だった…学校では職業教育や進路指導に力を入れていたといいます。
このころ使われた職業・家庭の教科書。
「農村版」「家庭版」「都会版」に分かれていました。
都市部で働こうとする生徒向けの「都会版」では簿記や金融と保険の仕組みなど就職してすぐに役立つ知識が教えられました。
尾鷲中学を卒業後名古屋の工場に就職した古田政司さんです。
池田首相はまた高度な科学技術教育を重視しました。
理工系の大学の拡充などを打ち出します。
その背景には財界の提言がありました。
財界トップを中心とする経済審議会がまとめたのが「経済発展における人的能力開発の課題と対策」です。
そこでうたわれたのが経済発展をリードするエリートの養成でした。
教育で高い能力ハイタレントを伸ばす事が要望されます。
「教育における能力主義徹底の一つの側面としてハイタレント・マンパワーの養成の問題がある」。
とりわけまあ…1960年代中学から高校そして大学へとよりよい教育を受けようとする若者たちが増えていきます。
東大を頂点とする学校の序列化が進んでいきます。
小学生から受験戦争が激しくなっていきました。
(アナウンサー)「子供たちを取り巻く大きな社会的状況。
その一つは子供を激しい生存競争に巻き込んでいる今の進学体制です。
毎日曜日テストだけをしている都内のある進学教室。
全部で6,000人からの子供が集まってくるというこの進学教室では国語算数理科社会のテストを行いその成績と総合順位とを毎週父兄に発表しているのです」。
「短時間に膨大な試験問題と取り組む子供たちの姿。
ここに勉強を強制されている子供たちの典型的な姿を見いだす事ができます」。
高校進学率は上昇を続け1965年には70%70年には80%を超えます。
中学卒業生の多くが高校受験に殺到。
学校の増設も間に合わず中学浪人も生まれました。
1968年日本はGNP世界2位になります。
翌年の「学習指導要領」改訂で教える内容は更に増えました。
科学技術の発達に対応し国際的な地位を向上させるとして特に理科や数学が進んだカリキュラムとなります。
定められた内容を全て教えるため授業は駆け足となり「新幹線授業」とも呼ばれました。
70年代半ば教師への調査で児童生徒の半数が授業で置き去りになっていると答えました。
「落ちこぼれ」が流行語となり社会問題となっていきます。
尾鷲中学でも高度化する教育内容についていけず落ちこぼれとなる生徒が増えていました。
20年以上美術を教えていた南太さんです。
1970年代には大半の生徒が高校に進学するようになり学校は入試のための進路指導に力を入れるようになったといいます。
1970年代後半になると生徒と教師の間に溝が生まれてきます。
おさえ込むような教師の態度に不満を感じた生徒もいました。
1980年10月尾鷲中学で事件が起きます。
生徒たちが11人の教師に暴行を加えます。
51人の警官が学校の要請で出動。
27人の生徒が警察で取り調べを受けました。
現校長の五味正樹さんは当時新人教師でした。
先生方のねご意見っていうのはないんですか?尾鷲でのこの事件の後全国各地の中学校で校内暴力が相次ぎました。
絶えない校内暴力。
教師たちは校則を強化するなどさまざまな対策を模索していきました。
更に深刻な問題が社会の注目を集めます。
「この町の12階建てのマンションから1人の中学生が飛び降り自殺をしたのは去年の9月の事でした。
自殺の背景には友達によるいじめがあったといわれています。
私たちがまず注目したのはこの1人の少年の自殺でした。
少年の死から既に半年たってもこの事件を古い話と片づけてはしまえないほど事件の裏には深いものがあります。
教育の原点とは何かを改めて私たちに問いかけるショッキングな事件でした」。
連日のように報道される校内暴力登校拒否そしていじめ。
朝日新聞の世論調査では小・中学校に55%の人が不満と答えました。
学校や教師への批判が高まっていきました。
内閣総理大臣に任命する事に決しました。
(拍手)1982年中曽根康弘が首相に就任。
教育改革を打ち出します。
来たるべき21世紀を展望し教育全般にわたる改革を断行する時期に来ていると考えるものであります。
(拍手)中曽根首相は内閣直属の諮問機関として臨時教育審議会臨教審を設立します。
臨教審は戦後教育の総決算を掲げ学校を中心とした制度が硬直化しているとして抜本的な見直しに取りかかります。
教育界だけでなく経済界などからも合わせて45人の委員が集められ意見が戦わされます。
臨教審に文部省から派遣されていた渡部蓊さんです。
いじめや詰め込み教育など中学校で起こっていたさまざまな問題の解決も臨教審に期待された課題だったといいます。
中等教育が拡大する。
臨教審でまず話し合われたのが教育の自由化でした。
選択の自由というのが教育の世界にはなくちゃいけない。
他の世界ではもう非常に選択の自由が拡大しているのに教育の世界だけがなぜか学校を選択する自由あるいは教師を選択する自由というふうなものがですね制限されすぎてるじゃないかと。
「義務教育の見直し」や「学校の民営化」など「学校制度の自由化」。
そして「選択の自由の拡大」と「競争原理の導入」が話し合われました。
背景には膨らんでいた国の財政赤字がありました。
中曽根政権は電電公社と国鉄を民営化し行政改革を急ピッチで進めていたのです。
(拍手)教育分野にも切り詰められる予算があるのではないか。
臨教審は文部省中心だったこれまでの教育政策に風穴を開けようとします。
当時筑波大学教授だった黒羽亮一さんも臨教審の委員の一人でした。
議論の中で塾の重要性が語られていた事を覚えています。
「教育改革を打ち出した中曽根総理大臣も教育の自由化には意欲を見せて自ら学習塾を視察しました。
自由化を主張する人たちの中では自由化の象徴的な例として民間の塾を正規の学校として認めるべきではないかという考えがあるからです。
教育内容を競い合う塾のようなところでこそ画一的ではない教育ができるはずだというのがその理由です」。
(拍手)中曽根首相直属の臨教審が学校の民営化と自由化を図ろうとしています。
しかし臨教審が唱えた教育の自由化は日教組をはじめ教育の現場の激しい反発を呼びます。
臨教審の中でも文部省に近い第三部会では教育の自由化に反対する声が高まっていきます。
中心となったのが教育現場の経験がある有田一壽部会長でした。
自由化により公教育の枠組みが壊れてしまう事を危惧したのです。
3年間の議論の末臨教審の最終答申がまとまりました。
自由化の主張は弱まり「個性を重視」する事。
「創造性・考える力・表現力」の育成が重要とまとめられました。
臨教審の後文部省は詰め込み教育批判に応えて土曜日の学校を休みにするなど学習時間を減らす方向に向かっていきます。
1998年に改訂された「学習指導要領」で教える内容が3割減らされました。
いわゆる「ゆとり教育」です。
「生きる力自ら学び自ら考える力を育てる」事が目標とされました。
導入の先頭に立ったのが当時文部省政策課長だった寺脇研さんです。
不登校や学級崩壊など新たな問題が表面化していた教育現場のためにもゆとり教育は効果があると考えていました。
ゆとり教育では教科ごとにカリキュラムの削減が図られました。
中学理科で生物の遺伝の規則性などが扱われない事になりました。
社会では地理で学ぶ国の数が2つまたは3つに限られました。
アメリカマレーシアフランスある教科書ではこの3か国を通して世界の地理を学ぶ事になりました。
小学校算数の円周率それまで「3.14」でしたが目的によっては「3」を用いて教えてよいとされました。
教科内容を減らした分ゆとり教育の目玉として導入されたのが「総合的な学習の時間」です。
教科の枠にとらわれない体験重視をうたう授業で実際に何をどう教えるかは各学校に任されました。
ゆとり教育は中学校でどのように進められたのでしょうか。
尾鷲中学でゆとり教育を受けた楠賀央里さん。
今は母校で英語を教えています。
総合的な学習の時間で覚えているのは保育園で実際に子供たちの世話をした職場体験です。
私としてはすごく自分のためになったなとは思うんですけどそういう時間は。
授業とか教科とはまた違う時間で人生勉強ではないですけどそういった社会について考えるとか地域について考えるとかそういう教科では学べない事を学ばせてもらったかなというふうに思います。
尾鷲では総合的な学習の時間で世界遺産熊野古道を歩くなど地域を生かした授業が行われました。
この授業のプランを作った英語教師田秀哉さんです。
田さんは熊野古道で学んだ結果を英語で発表させるなど教科をまたいだ授業を工夫しました。
(田)地域の魅力を英語で発信しましょうというような取り組みなんですよね。
ゆとり教育をどう受け止めたのか。
8つの都や県の中学教師にアンケートがとられました。
「忙しすぎて授業準備に十分な時間を割けない」とした教師が82%。
「ゆとり教育などの改革は子供のためになっているか」という問いには「そう思わない」が89.1%を占めました。
このアンケートを実施した…教育現場での負担の背景には教師の増員が進まない事や新たな予算が組まれていない事があると考えていました。
国家予算と義務教育費の伸び率を示すグラフです。
国家予算は伸び続けているのに義務教育の予算は1980年ごろを境に伸びていません。
だからすごく矛盾した…実際にそれを支える基盤を…苅谷さんは文部省の寺脇研さんと新聞紙上でゆとり教育を巡る対論を繰り広げます。
(苅谷)「学力問題はゆくゆくは税収つまり大蔵省の問題でもあり労働力の質としては労働省の問題でもある。
なのに今までの議論は条件整備の手前でとどまってしまっている」。
(寺脇)「しかしどんな教育をするかまず提示しないかぎり国民は金なんか出してくれない。
まずこれまでのシステムを崩す必要があると認識してもらわなきゃいけない」。
このころ経済学の教授らによる一冊の本が注目を集めます。
「分数ができない大学生」。
小学校の分数の計算ができない学生が私立のトップ校でおよそ2割いたというのです。
ゆとり教育が子供たちの学力低下につながるのではないかという批判が産業界や受験業界などからも起こり広がっていきました。
「勉強なんか本当にやらなくていいという口実をかなり多くの子供に与えてしまっている」。
ゆとり教育の中止を求める大規模な署名運動も始まるなど文部科学省への批判の声は高まっていきました。
2002年の初め文科省は「学びのすすめ」という「アピール」を出しました。
打ち出されたのが「確かな学力」の向上です。
当時文科省の事務次官としてこのアピール作りに携わった小野元之さん。
基礎学力を重視する姿勢を明確に打ち出したかったのだといいます。
ゆとり教育を巡って文科省が揺れ動く中戦後教育を転換する法改正が行われます。
2006年第1次安倍内閣はそれまで60年近く変わる事のなかった教育基本法を改正しました。
伝統と文化を尊重し我が国と郷土を愛する事が新たに教育の目標として掲げられました。
義務教育の目的は「個人の能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培いまた国家及び社会の形成者として必要とされる資質を養う」とされました。
学力低下批判を受け方針転換を図った文部科学省。
2008年の「学習指導要領」改訂では各教科の時間が増やされる一方ゆとり教育の目玉「総合的な学習の時間」は減らされました。
言語に対する関心や理解を深める事。
そして基礎的・基本的な知識を重視する事になりました。
総合学習で熊野古道の授業プランを作った尾鷲中の田秀哉さん。
ゆとり教育から今度は学力を向上させる事に多くのエネルギーを割いたといいます。
ゆとり教育から基礎学力重視へと舵がきられる中寺脇研さんは2006年文部科学省を退官しました。
大学で教鞭をとるかたわら今も若者たちに教育について語り続けています。
私たちが駄目なんであって…教育社会学者の苅谷剛彦さん。
ゆとり教育が議論される中で学校の外での生徒たちの学習時間が減り続けている事を調査で明らかにしました。
母親が大学卒高校卒中学卒の場合でそれぞれの子供の勉強時間を比べました。
大学卒や高校卒の母親の子供に比べ中学卒の母親の子供の学習時間が大きく減少している事が分かります。
もしそこに…ゆとり教育の時代休みとなった土曜日。
問題用紙は裏返しにして解答用紙の下に入れておいて下さいね。
解答用紙の下に入れておく事。
教育熱心な親は子供たちを塾へ通わせていました。
(取材者)休みの土曜日に何をしたい?私もやっぱテスト勉強です。
自分の家で勉強するとだらけるから塾でなるべく勉強したいなあと思う。
同じころ日本はバブル崩壊後の「失われた10年」と言われる経済停滞の時代に入っていました。
非正規雇用が増え貧困と格差が広がろうとしていました。
経済的に恵まれない家庭では塾の費用も負担できません。
苅谷さんは子供の学力格差が更に開いていく事を危惧したのです。
ある意味じゃディスアドバンテージというか…
(苅谷)そういうふうに私は見えましたね。
1990年代の終わり学校教育の現場でも生徒たちの貧困の問題に危機感を抱く人が現れます。
埼玉県の県立高校の教師だった青砥恭さんです。
青砥さんは教職のかたわら親の経済力と子供の学力の関係を調べました。
親の収入が低い生徒は学力が低く高校の中退率も高い傾向がある事が分かってきました。
青砥さんが運営するNPO法人は平日の夜貧困のため学ぶ機会が得にくい子供たちのサポートをしています。
さいたま市が市内10か所に開設している困窮世帯の子供たちを対象にした学習支援教室。
ボランティアの大学生たちが勉強を教えています。
塾に行けない生徒たちも無料サポートを受けられます。
彼らの多くが中学生。
母子家庭がほとんどで親の年収は200万円以下が大半を占めます。
話してて楽しい。
(青砥)え?話してて楽しい。
(青砥)あ〜うれしい。
そういう事を言ってくれる人がいてほんとうれしいよねえ。
そっか。
頑張って勉強して。
ねっ。
この学習支援教室に子供を通わせている母親です。
シングルマザーとして中学2年の息子を育てています。
4年間仕事がなくおととし末から生活保護を受けています。
もうすごい汚いんで…。
もうね全然駄目で。
息子はさいたま市の学習支援教室には通っていますが中学には1年間通う事ができていません。
そういう場所なんですね。
ですから…進む「子どもの貧困」。
厚生労働省の調査によると17歳以下の16.3%6人に1人が貧困状態にあります。
政府も子供の貧困に取り組み始めています。
どんな経済状況の中においてもみんなに同じようなチャンスがある社会をつくっていく事が私たちの使命だと。
まさに貧困の連鎖は断ち切っていかなければならないと。
子供の貧困対策としておととし閣議決定された政府の「大綱」です。
「生活困窮世帯への学習支援」としてさいたまの取り組みのようなNPOや自治体との連携を促進する事がうたわれています。
そして学校を「貧困の連鎖を断ち切るためのプラットフォーム」と位置づけました。
文部科学省は福祉の専門家との連携を進めています。
スクールソーシャルワーカーなどを配置し学校現場を支えていく方針です。
戦後始まった民主主義教育。
「知識」か「考える力」か。
「学習指導要領」は時代の要請に応えようとして幾たびも揺れ動いてきました。
教育社会学者苅谷剛彦さん。
現在イギリスの大学で教鞭をとりながらこれからの日本の教育の在り方を考え続けています。
敗戦直後に開校した尾鷲中学校。
高度経済成長の時代には金の卵と言われる卒業生を送り出してきました。
その後校内暴力や不登校などの問題に直面した学校は5年前から新しい授業を取り入れています。
教師が説明し過ぎず生徒が主体で進んでゆく授業です。
グループで互いに教え合って課題を解いてゆきます。
対頂角って分かる?うん。
向かい合っとったらここの角の大きさが1やんな?それは分かる?うん。
でここ直角やんな?でこれ折り紙やからさここと同じわけなんや。
あ〜そっかそっか。
正方形やもんでここ90度やん。
授業の方法を変えて不登校の生徒は3/3に減ったといいます。
こうした新しい授業方法は「アクティブ・ラーニング」と呼ばれ文部科学省が全国に広げてゆこうとしています。
おはよう。
はいこんにちは。
校長の五味正樹さん。
校内暴力事件に翻弄された新人時代から35年間中学生と向き合ってきました。
あまねく平等を目指して始まった戦後日本の教育。
格差が開きその理想が揺らぐ中子供たちの未来のために何ができるのか。
今学校教育は岐路に立たされています。

(江川)はっ!
(丸尾栄一郎)くっ!2016/01/16(土) 00:00〜01:30
NHKEテレ1大阪
戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 未来への選択(5)教育[字][再]

戦後、中学校まで無償となり高度経済成長を支えた義務教育。受験戦争など批判を受け政策の見直しが行われたが、教育格差が問題となっている。戦後の公教育の歩みをたどる。

詳細情報
番組内容
戦後、中学校まで無償となった義務教育。高度経済成長を支えたが、1980年代以降、“詰め込み教育”が批判され、臨教審の提言を受けた文部省は、“ゆとり教育”へと転換。しかし、学力の低下を危惧する声が高まり、政策は見直された。その間、公教育予算の対GDP比はさがり教育格差が問題化していった。あまねく平等な教育を、と始まった戦後教育。その歩みを、文部官僚、教師などの証言をもとに見つめる。
出演者
【語り】三宅民夫,中條誠子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行

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