今回は「性別欄はなぜあるか」という話題。
(1)性別欄はどうあるべきか
いきなりですが、結論です。
佐倉智美先生のこちらの記事 にまったく同意です、私は。
ざっくり言いますと、調査票等で性別を尋ねる際、
「生まれた時」の性なのか
「自分がどう思っているか」の性なのか
「戸籍」の性なのか
「自分が指向を持つ対象」の性なのか...
という、いわゆる「何についての性」を聞いているのかをはっきりすることです。
これは実際に私が現在行っている質問紙調査においても採用している方法です。
(もっとも私の調査はセクマイに対する偏見の調査であり、当事者と非当事者をはっきり分ける必要があるので。)
調査側にはこうした性のさまざまな次元についての知識が求められますが...
無難な在り方としては、「性別【 】」という、男女二択ではない空欄にするやり方ですかね。
(2)例1:心理調査における性別欄
それではそろそろ本題に入りますね。
...ここまで述べたことは「どうあるべきか」ということです。本題に入る前に、その点について私の立場を示したまで。
本題は「なぜあるか」という、つまり性別欄の必要性です。
性別欄を設けることで調査者にどのようなメリットがあるのか、ということについて、私なりの意見を述べます。
というのもですね...
この「性別欄」の話題、googleで検索 してみたらもうセクマイの話題だらけ。
トランスや第三の性についての話題がこんなに転がり込んでくるキーワードがあったのかと驚くほどです。
「なぜ性別欄があるのか」というところに踏み込んだ話題はなかなかない。
確かに、無意味な性別欄というものは存在するでしょう。
性別欄を「なんとなく」設ける調査者もいるでしょうし。
しかし心理学の調査において、この性別欄を設けることにはメリットがあるのです。
「男女差」というものは、さまざまなものにあります。
大きく言えば身体の発達の違い、脳構造の違い、文化の違い、恋愛観の違い...
質問紙で尋ねている内容にだって、男女差があるかもしれません。
そうした差があるかもしれない変数(要素)について、回答者が男女のどちらかにマルをしてくれるだけで簡単にデータを収集でき、男女差を分析した結果それが認められれば世の中に提言ができる。それは立派な科学的な成果であり、進歩です。
つまり、こんなに簡単で有意義な質問項目をどうして省く理由があるだろうか(いやない)、ということです。
(3)例2:選挙における性別欄
心理調査以外にも、さまざまな調査で性別欄が設けられていますね。
たとえば選挙の際も、投票者の性別はカウントされ、男女比の情報は公開されます。
あれは昭和時代、女性が参政権を得た時から始まったそうですね。
実際に女性がどの程度参加しているのかを調べることは、その時点では確かに有意義です。
しかしそれが今なお続く意義とはなんでしょう...
もうそこに当初のような理由はなく、よく批判される点ですね。
これをグローバルな視点で見た時に、その新たな意味が生じてくると私は考えます。
世界のすべての国が男女平等で選挙をしているわけではありません。(参考:wikipedia )
そうした国がある以上、男女の政治への関与度の差というものを見ることは、世界的な男女平等を考える上でも重要になってくるのではないでしょうか。
そう考えると、やはり日本でも取る必要はある、と考えられるでしょう。
(4)結論
他にもさまざまな、いや、ほとんどの調査において「性別」というものは問われるでしょう。
セクマイの方々は思うところある方も多いでしょう。私もそうです。
社会での性別なのか、自認なのか、どちらを尋ねられているのかを文脈で考えていますが...めんどっちいです。
しかし、必要だから存在する性別欄というものもあるのだ、という視点も持ってほしいのです。
冒頭にも申し上げた通り、思考停止で性別欄を設ける調査者もいるでしょう。
ですが調査票の内容は、調査者が試行錯誤して作成したものです。その上で調査に乗り出している以上、意味のない質問項目などないという前提で取り組むべきかと考えます。
もしどうしてもその「意味」が感じられない調査票に対しては、「この性別欄は意味がないので消してください」と決めつけるのではなく、「どうしてこの性別欄は設けられているのでしょうか」と尋ねるのがベターかと考えます。
その結果、何も考えていなかった調査者はその点について反省しますし、そうでなければ調査者がなぜその性別欄を設けたのかを知り、自分の視点を増やすことに繋がります。
決めつけ反発して「クレーマー」と扱われるよりもよっぽど有意義ですね。
まとめます。
①調査者は「なぜ」性別を尋ねるのかを明確にし、「どの」性別について扱うかを決めるべき
②回答者は性別欄を「無意味」と決めつける前に、調査者の意図を汲むよう努力すべき
押し付け合ってないで仲良くしようよ、ってことですね。
自分が一歩歩み寄れば、相手は十歩も二十歩も動いてくれるかもしれませんよ。
佐藤