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感想文

本や映画や、いろんなことの感想文を書いています。

小学校の2分の1成人式について思うこと

思うこと

 

先日、とんははさんのブログで読んだこの記事がずっとひっかかっていた。

 

gambaruko.hatenablog.com

 

この記事の中で言及されている次の2つの記事。

 

bylines.news.yahoo.co.jp

 

bylines.news.yahoo.co.jp

 

そして今日、たまたま目に留まったこの記事。

 

toyokeizai.net

 

これらの記事で問題視されているのは、おそらく多くの小学校で行われているであろう2分の1成人式の内容の中でも特に

 

・子供の頃の写真やエピソードを準備し発表すること

・子供から親への感謝の手紙

・親から子供への手紙

 

この3つ。

 

これらの記事の軸には、家庭の在り方が多様化している現代において、学校の教育課程の1つである2分の1成人式というイベントに、家庭を絡める必要はないんじゃないか?ということがある。

 

ステップファミリーのため、生まれたときの写真やエピソードがない、とか、片親という個人情報の開示はプライバシーの侵害なんじゃないか、とか、虐待されている子にとって、10歳までのことを振り返ること自体辛い作業なのではないか、とか、全部納得できる見解だ。

 

それでなくても今は、私が子供の頃に比べ、学校の学習に親が関わる機会はものすごく多い。毎日の宿題の丸つけや音読を聞くこと。こんなの、子供の頃にあったっけ?なかったよなぁと思いながら、毎日せっせと、こっちは丸つけ、こっちは聞きましたのサインと、それなりに手間がかかっている。

 

でね。

 

それらの手間をかけながら私が思うのは、上にあげた記事とは逆で。

自分の子供の頃も、こんなシステムがあったら、自分の母親も少しは変わったかもしれないんじゃないか、ということ。

 

私の母親は今でいうところの毒親だった。

私は、希望していた進路も、将来の夢も、仲のよかった友人との関係も、母親に全部つぶされた。

 

小学6年生の頃、卒業証書のために、氏名を正確な楷書で親に書いてもらわなきゃいけないことがあった。その用紙を友達と見せ合った時、みんなはすごく丁寧で綺麗な字で書いてきてもらっているのに、私の名前は乱雑に殴り書きのように書かれていて、みんなに「それいいの?」と言われた。

 

そしてその用紙を先生に提出した後日、汚すぎるから書き直してもらうよう、その用紙は返却され、新しい用紙を渡された。それをまた母親に渡して事情を説明し、書き直してもらったときの母親の不服そうな顔。どうしようもないほどみじめな気持ち。

 

私はなぜか、その出来事が忘れられないでいる。

 

私は今でも母親と同じ空間にいることが苦痛だし、実家には母が亡くなる時まで足を踏み入れるつもりはない。

 

だけど。

 

もし今みたいに、毎日の宿題の点検や音読などのコミュニケーションがあれば、もっと違う親子関係になっていたかもしれないと。

それは希望的観測なのかもしれないけれど。

 

それは2分の1成人式に対する思いも同じで。

 

実は長男が今年、2分の1成人式だった。

学校に持って行く写真を選んだり、エピソードを聞かれて考えている時間、親自身も、今までのことを振り返る。

10歳という、反抗期真っ只中のような長男と、険悪なやりとりばかりが増えていた日常の中で、その時間は私にとって、とても貴重な時間になった。

 

そして自分の親も、この時点でこんな時間があれば、何か変わったかもしれないという思いが、またよぎったことも事実。

 

学校の先生は、各家庭ごとに事情がバラバラなこと、いろんな親がいること、手をかけてもらっている子、そうでない子、のびのび育ててもらってる子、萎縮している子、知らないはずはない。

 

上の記事にあるように、その式はある意味、強制的に子供たちに感謝の言葉を言わせ、家庭を美化してるともとれるものだったかもしれない。

 

でもそれは、子供たちのもうひとりの保護者である学校の先生からの、親たちへのメッセージなんじゃないかなと思った。

 

この子たちは10歳になりました。未来を担う子供たちをここまで育ててくれてありがとうございます。子供たちも、こんなにあなたたちに感謝しています。だからまだまだ小さな手のかかかる可愛いこの子供たちを、どうか家庭であたたかく守ってやってください。夢を応援してあげてください。どうかこの子たちの話を聞いてあげてください。仕事や家事で忙しい毎日かと思いますが、どうかどうかよろしくお願いします。

 

子供たちの歌や、よびかけや、発表を通して、そんな先生たちの思いが、胸に刺さるほど伝わってきた。

 


片親、ステップ、家族の形が昔以上に多様化してる今だからこそ、家庭と学校が一緒に、子供たちを中心において、子供たちの成長を喜び応援する、2分の1成人式をする意義があるんじゃないかと、私は思った。

 

まぁそんな風に感じられたのも、先生方が配慮してくれて、たとえば歌とか証書授与とかは学年でだったけど、個々の発表はクラスごとでこじんまりとしたものだったりして、少なくとも私は、違和感、不快感、不平等感を感じなかったからなんだけど。

 

 

 

 

あとは、公教育なのだから、マイノリティに配慮する必要は絶対にあるけれど、なんでもかんでも中止、廃止にする必要はないのではという思いも。

 

アレルギーの問題とこの問題を一緒に考えるのはちょっと乱暴だけれど、たとえば、ウチの子供たちは卵アレルギーがあったんですね。

 

だから、有名で可愛い絵本『しろくまちゃんのほっとけーき』だとか

 

しろくまちゃんのほっとけーき (こぐまちゃんえほん)

しろくまちゃんのほっとけーき (こぐまちゃんえほん)

 

 

『ぐりとぐら』とか(ぐりとぐらが大きなたまごを見つけてお料理をつくるお話です)

 

ぐりとぐら [ぐりとぐらの絵本] (こどものとも傑作集)

ぐりとぐら [ぐりとぐらの絵本] (こどものとも傑作集)

 

 

この辺の、たまごが出てくる絵本は家庭では読んでないんです。

 

でも、たまごやき、めだまやき、ゆでたまご、オムライス・・・子供に定番のお料理だから、NHKの幼児番組にはしょっちゅう出てくるし、上の絵本だってきっと、幼稚園では出会っているはず。

 

いつも複雑でした。

テレビに出てくるたび、やめてよって思ってました。

 

でも、だからって、卵アレルギーの子供が可哀想だから絵本は廃版、幼児番組でオムライスは出さないってなるのも、ちょっと違うと思うし、実際そんな風にはならないし、そんな議論にすらならないじゃないですか。

 

みんなと同じじゃなく、みじめな思いをしてるのは、アレルギーの子も同じなのに。

 

っていう思いもあって

一概に、2分の1成人式ばかりを問題視する風潮に、むむむってしてるのも、あるかもしれません。