不安と同情、率直に 送還元担当の手記
「彼らも父母妻子に囲まれただんらんの中の一員だったはず」。秋田県の尾去沢鉱山に強制連行された中国人を戦後、送還する業務を担当した元三菱鉱業(現・三菱マテリアル)社員の手記。克明な記録には中国人からの報復があるのではという不安とともに、異国の地に連れてこられた中国人への率直な思いも多く記されていた。【隅俊之、小泉大士】
中国人と心の交流も
手記を書いた高松信造氏(1992年に71歳で死去)の長女、斉藤久美子さん(61)=東京都=が遺品の中から見つけた。旧満州にいた43年から送還を終えた45年12月までの経緯が記されている。
戦後、外務省に提出された「事業所報告」によると、尾去沢鉱山で強制労働させられた中国人は493人で、78人が死亡した。鉱山で目にした中国人について高松氏は、うつろな目をして物言わぬ姿から「喜び勇んで自主的に応募したとは思えない」と記述。同情心に近い心境で見ていたことがうかがわれる。
ただ、誰に送還業務を命じるかを決める会社の会議は「沈痛な」雰囲気だった。最終的に強制労働に直接関与した者や妻子のある者などは外され、当時24歳の独身で旧満州での軍歴もあった高松氏に業務命令が出た。
船では中国人労働者を統率していた隊長役の中国人へのリンチ事件が発生。頭から血を流しながら逃げてきた隊長を見て「暴動の前兆か」と緊張が走った。隊長は鉱山側と中国人との折衝窓口だったことから「日本側にべったりの姿勢に見えたらしい」と記している。船中で死亡した5人のうち3人は水葬にした。「半旗も掲げられず、葬送曲もなく、ないないづくしの簡素な送りだった」という。
一方で、手記からは心の交流があったことも垣間見える。高松氏は到着前日に中国人労働者の副隊長役だった中国人に呼び止められた。倉庫前に案内され、棒立ちの高松氏に副隊長はたどたどしい日本語で言ったという。「長い間、ご苦労さんでした。差し上げるものもないが、御礼の印にこの小麦粉を引率の皆さんに差し上げたい」
小麦粉は「彼らの主食」として積み込まれたものとみられ、高松氏は「涙がうっすらとにじむのを覚えた」。鉱山で亡くなった同胞の遺骨を抱えて上陸していく中国人を見つめながら「幸多かれ」と心の中で叫んだと締めくくっている。
国文学研究資料館の加藤聖文准教授(日本近現代史)の話 強制連行訴訟では賠償責任の有無が争われたため企業は時効など法律論に徹し、事実関係は極力、話さないという意識が強かった。それだけに手記は歴史検証の一つの手がかりになる。ただ、若い世代を中心に歴史への関心が低くなり、強制連行問題も社会の記憶から消えつつある。手記が見つかっても遺族もその価値に気付かずに捨ててしまう可能性がある。記憶が世代間で分断されるのは、同じことを二度と繰り返さないという意味で大きな損失だ。こうした手記や証言がさらに発掘されることを期待したい。