2016年01月06日

瞑想の時代

去年あたりから瞑想に関する書籍が売れ始めているそうだ。

それもスピリチュアルとは関係なく、アメリカの成功者達がなぜ瞑想習慣を持っていたのかという切り口から、ビジネスマンたちの関心が集まりだしている。

アップル社のスティーブジョブズが坐禅を習慣とし、禅の思想に傾倒していたこともブームに拍車をかけた。

この流れは今年さらに加速していくと思う。


瞑想は衣食住と同じくらい大切だ。

人間は食べて眠るだけでなく、精神的な生き物でもあるからだ。

ただ、知識不足からくる誤解と偏見が大きくて、また宗教的匂いがすることなどから、一般社会からは敬遠されてきた。



浜松の方広寺で「リーラ・メディテイション」という活動を始めた25年前は、瞑想を扱っただけで過激なカルトと同一視された。

それに比べたら、いまの時代はとても活動しやすくなったと感じていたけれど、やっと一般社会に浸透していくムードができてきたということだろう。


いまは大企業も社員たちに瞑想を奨励しているくらいだから、ずいぶん時代が変わったと思う。

実際に社内のムードも変わり、業績がアップしていると聞く。

僕のところに多くの幹部が瞑想伝授に来てくれた外資系企業も、社員同士のコミュニケーションの質が向上し、業績がアップしたと言ってくれている。


このような事例がたくさん報告されれば、いまのこの流れにさらに拍車が掛かっていくことだろう

人間は、ずっと現象界に取り込まれたままでは、様々な問題を抱え込むことになる。

なぜなら、そもそも現象界そのものが思い込みによって解釈された偏った世界であり、偏っている分だけ摩擦が生じ、それが心身を蝕んでいくからだ。


瞑想の基本は心身を整えることだ。

僕が病気にかかったことがないのは食生活のおかげだと書いたけれど、それとともに瞑想習慣も大きな貢献をしてくれてきたと思う。



禅は動く瞑想でもある。

現象界から身を引くことなく、瞑想状態を活動に転化するのだ。

瞑想状態というとボヤーっとした感じを想像するかもしれないけれど、瞑想とは自己の不在のことであり、あれこれの思考の世界に埋没していない状態のことだ。

この話はまたの機会にすることにしよう。



結局のところ、瞑想も禅も、心身を整えることを通して生活の質を上げ、さらには究極の真実に目覚めていく道でもある。

そして究極の真実は、ノンデュアリティ・・・非二元に尽きる。


ずっと長いあいだ、究極の真実(非二元)に関しては、解説することに終始してきたけれど、昨年、大和田菜穂さんという存在に出会い、生きた現象として直に接することができるようになった。

このような出会いに恵まれたのは、長年の活動のご褒美だと思っている。


今年も活動はこの3本柱になることだろう。


瞑想の実践

禅を生きる

ノンデュアリティ


ノンデュアリティの状態から見れば、食事に気をつけることも、健康に留意することも、瞑想も、禅も、すべてはストーリーであり、真髄そのものではありえない。

しかし実際には二元の世界を生きている我々にとっては、そのどれもが重要なことであり、ノンデュアリティへの準備(?)としても、最も的を射ている道だと思う。



素晴らしい瞑想を伝えてくれたボブ・フィックス氏

禅の道を開いてくれた向老師

そしてノンデュアリティの大和田菜穂さん、堀澤祖門大僧正


若い頃から出会う人には恵まれてきたけれど、いまこうして記事を書いてみて、人生の流れにあらためて感謝します。


・・・・・・・・・・・・


無料動画サイト「End of Seeking」に新しい動画がアップされました。

物理学者の保江邦夫博士と大和田菜穂さんと僕の講演会の模様です。

どうぞお楽しみください。


End of Seeking






Posted by Toshiro Abe at 10:40│Comments(32)
この記事へのコメント
瞑想とは

ただ静かに在ることで

静寂である本当の自分に気づき

静寂である本当の自分であることですね

(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2016年01月06日 10:48
阿部さんのブログでボブ・フィックスの存在を知った頃、

彼の新刊の本を買って読んで

地元の霧島神宮でお祈りしたのを覚えています。

「いつかこの瞑想の伝授を受けられますように」

3日程で、大都市でもない家の近所の会場に

ボブ・フィックスがやってきた(爆)

それを知って慌てて申し込んだのを覚えています。

そして、今、大和田菜穂さんの

究極のメッセージに触れている。

不思議・・・。
Posted by 内村周真 at 2016年01月06日 11:15
ひさしぶりに 素で書かせて下さい(笑)

>瞑想の実践・禅を生きる・ノンデュアリティ

究極の問いかけですね。これ以上に 自我に訴えるベースはないです。

最後に残る難問は これを やれば、或いは 身に着ければ 覚るという

他者(論理・行為・理解)依存の気持ちでしょうね。

これだけは 伝えることが 不可能な自己主体。

つまり 悟りは 自分でしか 開けないという 

誰の精神にも 理にも 頼らない機根であると思います。

あまり 親切丁寧すぎる導きの手は 思考力の妨げにも なりかねません。

自分の意志で 行為できる スペースを 開けておいて 下さいね(笑)

思考力っていうのは、自分の出す結論の積み重ねであり、他者の結論を

模倣しない 確実さを 持っていますので。。。

鼻につく方も おられるはずですが、ま てけと~に流してください(爆)
Posted by AQU@ at 2016年01月06日 11:47
”瞑想の実践”と”禅を生きる”は、何となくつながりを見い出すことができますが、
”ノンデュアリティ”は、前者とは完全に別個のモノだと感じます。

それでも、それをわかった上で、三本柱でやって行こうというのですから、
外野は何も言うことはありませんが、
そんなに抱えていると、三本柱間の整合性が取れなくなってしまいそうですね。
(両者の整合性を取ろうとすると、そこに矛盾が生じます。。。)

アレもコレもというのは、結局、何も残らないような気がします。。(^o^)
Posted by H at 2016年01月06日 11:47
コミュニケーションがとれない人が何人かいます。
「おはよう」といっても無言。名前を呼んでも「はい」と返事をしない。
反応がないのは、聞こえないのか、無視をしているのか?

不思議な人がいます。
(´Д`)
Posted by ひよどり at 2016年01月06日 12:24
昨年秋にはTV番組「世界ふしぎ発見」でも瞑想が取り上げられていました。
瞑想も普通のことになったんだな~と思いました。
Posted by センチメートル at 2016年01月06日 12:30
私は阿部ご夫妻と瞑想に出会えたことを深く感謝いたします。

今私自身仕事、生活すべてが絶好調です。おかげさまです。
Posted by リック at 2016年01月06日 12:45
こんにちは


阿部☆

阿部☆

阿部☆


全体


たったひとつの全体が

瞑想のオイちゃんを表現し

禅のオイちゃんを表現し

ノン・ディアリティのオイちゃんを表現している


いずれも愛

全部が愛


感謝☆感謝☆


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2016年01月06日 12:48
ラジオ体操みたく『ラジオ瞑想』が登場する時代も近いかもしれないですね〜(笑)素敵な時代(*^^*)
Posted by モモちゃん at 2016年01月06日 12:59
いつもありがとうございます。

今回も参加できませんが、
盛会になることを祈っています。

今日も善き一日になりますように。
Posted by ほったん at 2016年01月06日 13:15
お雑煮の作り方のところから、肉のことを言っている方がいらっしゃいますが・・・

智子さんは『子供たちのために』と書かれていたような気が・・・

勘違いだったらごめんなさい。
Posted by こじか at 2016年01月06日 13:38
阿部さん

今か今かと瞑想の案内を待ってますよ^_^
Posted by raran at 2016年01月06日 14:11
end of seeking
ほんとに楽しいお年玉でした!
阿部さん、ありがとう。
Posted by センチメートル at 2016年01月06日 17:04
いや、

ぼくは同時間に発されたことに
着目する。


それから.....


で、どっちなの?
って付け加えも

する。
Posted by 日和る at 2016年01月06日 18:35
人間を苦しめる根本原因は「思考」である。
思考が静まれば、「自分」という個の感覚が「思考による幻想」だったと体験できる。

瞑想は、思考を沈め、あるがままの自己(真我)を体感する事である!^^
Posted by 近藤 at 2016年01月06日 18:55
もワスレントッテ
Posted by じゅんころ at 2016年01月06日 18:56
こんなぼくが言うのも 
あら! なんですが。

って、それでもいうけどね。

矛盾。

これこそ  だと  思いまふ。

スクリーンに投影するストーリー、演じてる自分。
でも見ているのはスクリーンそのものでも

...... ある。

ナホ嬢は 空だけ。

色も実は空でもあり、

空だとしても、死までずうっと色のままなら
色の重要性も必要と感じまふ。


イタリアの反応はごもっともと。


で、

いまさらですけど。
見たのですが三千院。
インテリジェンス小林和尚、いいすね♪

摩訶はんにゃ♪
Posted by 日和る at 2016年01月06日 19:08
私も阿部さんみたいに欲しいもの全部を手に入れたいです。
Posted by もも at 2016年01月06日 19:44
阿部さん

いつか、引き出しの「ししゃも」の話ししてくださったこと覚えていますか?

猫の、ししゃもがお目当ての話し。


それは、私にも当てはまる話しだと思っています。

かといって、今それ以上に言えることはなくて…


ひとまず、伝えさせてくださいね。
Posted by ようこ at 2016年01月06日 20:26
究極の真実 非二元・・・

知りたい・・・(笑)

でも禅・・・憧れる

コレって分けるべきですか?( ^^)/
Posted by 打ち水 at 2016年01月06日 20:55
瞑想の実践

禅を生きる

ノンデュアリティ

なんだったけな思い出せそうで思い出せないと思っていたらふいに思い出しました。
これはOSHOの3本柱、阿部さんはOSHOワークを現代の日本でやってるんだ!
Posted by sw. at 2016年01月06日 21:26
科学とノン・ディアリティ視聴しました~

動画でもじゅうぶん菜穂さんを通して表現される
沈黙が伝わってきました



自分が存在しているということは
自分が存在しているという想念を信じているだけで
本当は幻なんだ

と見抜ければ

バリバリの自我で生きてます

と言っている人を見かけてもだまされず

一時の間そのように信じているだけで
本当はその人はいないんだ…無なんだ…ブッダさんなんだ

ということもわかります



自我がある間は探求が続きますよね

瞑想や座禅あるいはサットサンに行ったり
自分の想念や行為を観察したりして
何とか目覚めようとする

自我君なかなか大変だね

と言いそうになりますがだまされてはいけません

というのは

実は

瞑想や座禅したりサットサンに行ったりすることがあるだけで
そこには誰もいない

すでに解放がある…すでに愛の中にある…



私がいてみんながいる世界から
私もあなたもいない世界へのシフトは
どこでも瞬時に起きる

なぜなら

はじめから誰もいないから


お年玉☆お年玉☆


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2016年01月06日 21:53
一つ興じて◇しまいました。

じゅんころさんの、“もワスレントッテ”の「も」の前は、

《これ》を「沈黙」で表して、ラッシャルンデすぅか~?(T_T)

“じゅんころ風”に吹かれた、あべさんは、沙羅双樹?の木の下で、座禅と瞑想でしょうぉぉかぁ~?(~o~)

私も、風につられて、自分が・ぐ~るぐるとぉ~吹き渡り・目が回るぅ~(@_@)
Posted by まだまだ正月気分が抜けないY-be at 2016年01月06日 22:21
真の実在(サット)と非実在(アサット)

”誰もいない”と思い込もうとする”わたし”こそが、
非実在(アサット)であることを見抜くことです。

この”わたし”が消えない限り、
”誰もいない”と思っても、
それは、ただの知識・観念でしかありません。

究極の真実に憧れる人は多数いますが、
今はまだ極少数の人のみが識る真実、非二元。

”わたし”は、誰なのか?
この答えを識るためなら、すべてを手放す覚悟(サレンダー)をした者のみが、その答えに行き着きます。

確かに人間にとっては厳しい道と言えますが、
同時に、誰にでも公平に開かれている道でもあります。

準備さえ整えば、必ずやゲート(門)は開かれます。

探求するなら、”わたし”を探究しましょう。
徹底的に”わたし”を極めれば、その先にナニカを発見することでしょう。

すべての答えは、自分の中に在ります。

真の実在(アサット)とは、
”わたしとは誰か?”という問いに対する
”わたし”の中に在る”答え”なのです。
Posted by H at 2016年01月06日 23:16
3本柱。

3つの 次元 だから
パラドックスは普通にある、

ということかな♪




それにしても
阿部智子さんの波動はすごいな、と感じております。
Posted by 愛ラ-雲国際アジアンホテル- at 2016年01月07日 00:10
明けまして、おめでとうございます。

素朴な疑問ですが、菜穂さんとずっと一緒にいるフランス人の恋人は
当然、非二元の世界に行かれていますよね?

だって、いつも、一緒にいるんですよ? (笑)

釈迦といつも一緒にいたアーナンダは(釈迦の)ご存命中には悟れず。
第一回仏典結集に参加する前、寝ようと思って、頭を床につけた瞬間に悟りました。

今年は菜穂さんに会えるよう、頑張ります。
遠方、地方在住者にとっては動画も助かりますので、今後ともよろしくお願いします。
Posted by zensou at 2016年01月07日 00:15
>禅は動く瞑想でもある。

>瞑想状態というとボヤーっとした感じを想像するかもしれないけれど、瞑想とは自己の不在のことであり、あれこれの思考の世界に埋没していない状態のことだ。

自分が考える前に体が動いている、行動が起こっているということに気が付いている状態。
体が勝手に動いている〜
意識は冴えていて、目の前の物事がとてもスムーズに展開している。
Posted by 雪光 at 2016年01月07日 01:41
自分が存在していると信じている間は
それが世界に投影されるので

阿部さんや菜穂さんだけでなく人型ロボットにも
自分がいるように思えるわけです

阿部さんや菜穂さんのちょっとした言葉を聞いて

だまされてはあかん
まだまだ自我が残っているぜんぜん悟っていないぞ
何が解放や

ということを言いやすいものかも知れませんが
それは自分の自我が投影されているだけ



自我の探求には
私は誰か?
という問いかけもありますよね

やりたければ徹底的にやればいいのです

しかし

そういう問いかけが起こっているだけで
もうすでに誰もいない…

本当は

私は誰か?と問いかけることも必要はない

ただ在るだけでいい



誰もいない
ということがただの観念であったとしても
そういう観念が起こっているだけです

ここには誰もいない…

静寂があるだけ…


無☆無☆


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2016年01月07日 04:53
違うね。

喰うだけなら
太った体系で、山ごもり  しかない。
思考も判断も 「すな!」 と言われなんもできんのだから。
Posted by 日和る at 2016年01月07日 08:18
"問いかけが起こっている"と認識している自分がいる。

実際には、問いかけさえも起きていないのが、非二元。 
何故なら、認識する存在など存在しないから。

"静寂"は、真の実在(サット)の一つの人間的表現であって、
"愛""至福""平和"という言葉(観念)で表現することも可能。

真の実在は、実在であり、観念ではない。
それ故、古来から、どんな人間的な表現も当てはめることは不可能とされてきた。
表現は観念であり、思考の産物。

真の実在(サット)を言葉(観念)で伝えることは不可能。
わかりたい人は、自分でわかっていくしかない。

真の実在は、ただ在るだけ。

それが、"わたし"の本質。
Posted by H at 2016年01月07日 09:32
おはようございます。阿部さんに感謝、
「瞑想の先に妄想を夢見て、多くの方の瞑想が現実逃避の手段になっているのでは?」と私が言えば「現実」ってそもそもないんだよって確実に突っ込まれますが。
だけど阿部さんがうまくお釈迦様は「苦」は見つめたが「苦労」は知らなかったといえば。状況が少しは変わるのかもしれません・・・我々凡人こそ、若いうちは買ってでも苦労をしたほうが、人生においていずれ砕氷船が分厚い氷を、ゆうゆうと砕いて進むような地力がつくとおもいます。・・・要は日本人たるもの「志」だな。 
Posted by 被二元 at 2016年01月07日 10:19
5月11日の記事に
この夏からは新たな体制によるマントラ瞑想がスタートすることになります。すでに準備はできていますが、もう少し時期を見て、みなさんにご紹介したいと思います。と書いてあって楽しみに待ってるとこですが、まだ時間がかかりそうですか?もう始まってたりしますか?ちょうど新しくなるタイミングに瞑想伝授の順番待ち状態になってます。
Posted by ぱりす at 2016年01月07日 15:59
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。