「1968」以来、半世紀近くの時を経て、路上が人の波に覆いつくされた。議会制民主主義やマスメディアへの絶望が、人々を駆り立てたのか。果たしてそれは、一過性の現象なのか。新左翼運動の熱狂と悪夢を極限まで考察した『テロルの現象学』の作者・笠井潔と、3.11以後の叛乱の“台風の眼”と目される野間易通が、現代の蜂起に託された時代精神を問う。
野間 易通/1966年生まれ。90年大阪外国語大学インド・パキスタン語学科卒業。『ミュージック・マガジン』副編集長等を経て、フリー編集者に。2011年4月TwitNoNukesのスタッフとなり、反原発連合の立ち上げに参画。2013年1月 「レイシストをしばき隊」を結成。同10月対レイシスト行動集団 C.R.A.C.(Counter-Racist Action Collective)を結成。
第4回 国民なめんな 野間 易通
あざらし・ドブネズミ・マルチチュード
絓秀実の『反原発の思想史』(筑摩書房、2012年)によれば、1988年に始まった「反原発ニューウェーブ」は、今で言うロハスのルーツとなるようなヒッピー/ニューエイジ系の人脈のほかに、雑誌『宝島』を中心とした音楽/サブカルチャー周辺の若者が大きな役割を果たし、その周縁に「新左翼とは異なる新たな運動」が萌芽したという。そこに名前が上がっているのは、外山恒一、松沢呉一、山本夜羽音、鹿島拾市などで、絓はこれらの無党派左翼の有象無象を「ドブネズミ」と呼んだ。命名の出典はザ・ブルーハーツ「リンダリンダ」の歌詞である。
絓は、この「ドブネズミ」が90年代のだめ連を経て2000年代の素人の乱につながり、2011年4月10日の高円寺において1万5000人を集めた反原発デモへと導く文脈だと言う。彼はここに集まった人々を《「市民」であるとともに、アントニオ・ネグリ/マイケル・ハートが言うところの「有象無象(マルチチュード)」のようでもある》とする。
素人の乱が主催した原発やめろ!!!!!デモは、2011年9月までの半年間しか続かなかったが、かわって「脱原発杉並」というグループがつくられ、素人の乱スタイルの反原発運動を継承した。このグループの人たちも、自らを「有象無象」すなわち名もなき雑多な集団と称した。
しかし後に「あざらし」を形成する人々は、もともとは素人の乱の祝祭的な反原発デモに批判的な動機で独自に反原発デモを始めたTwitNoNukesがルーツである。すなわちあざらしはドブネズミの系譜にはない。この差異についてはあまり語られることがないが、有象無象、マルチチュード、あるいは「何者でもない人々」がどのような姿をしているかについて、大きな認識の差がある。
2012年8月に素人の乱の二木信と私は乃木坂のレゲエクラブCACTUSでトークセッションを行なったが、そこでも双方の認識の差が浮き彫りになった。二木は首都圏反原発連合の官邸前抗議のスタイルを批判してこう言う。「官邸前デモでは規範や規律が重視されていて、はみだし者が自由に参加する余地があまりない」それに対して私は、「大衆というのは、はみだし者の集合ではない。そのはみだし者が忌避するような、規律を好む穏健で目立たない普通の人たちの集まりである」と反論した。デモや抗議行動が奇異な格好で反社会的行動を好んでとるようなはみだし者の集まりになるとそれは同好の士の集いにすぎなくなり、ひいてはデモそれ自体が目的化してしまう。官邸前に集まっている人々の間に「反社会的で暴力的なアンチヒーローを望む声」などなく、ただ政策を変更してほしいと訴えているだけなのだと。
つまり、二木の言うようなデモってサブカルじゃん。と、ぶっちゃけて言えばそういうことになる。そこで求められているのは「個人の自由や多様性」であり、サウンドデモによる「祝祭」である。つまり、社会の周縁に追いやられているはみだし者たちが、個としての自分たちの存在を承認されるためのハレの場なのだ。これは、貧乏人であるとか不良であるとか前科者であるとかはみだし者であるとか、決して社会的に承認された何者かではないという自らの属性を、デモの場でだけは捨て去りたいという欲望のように思える。
考えてみれば「だめ連」にしろ「素人の乱」にしろ、その名称には「取るに足らない」「我々は何者でもない」ということを示す単語が入っており、もちろんそれは一種の皮肉なのであって、そのことで逆説的に自分たちのアイデンティティを主張しているのである。これはやはりアイデンティティ・ポリティクスの一種だ。
ではウォールストリート占拠運動が掲げた "We Are The 99%" のように、自分たちが多数派であることを示すスローガンもアイデンティティ・ポリティクスだろうか。しかし「はみだし者」はその名が示す通り99%もいないのである。それが全体の99%であれば形容矛盾である。
なので、絓秀実の言う「ドブネズミ」(これ自体が日陰者を示す形容であり、マイノリティを表象している)の発展形が果たしてマルチチュードなのかといえば、それには大きな疑問を抱かざるをえないのだ。もちろんネグリ/ハートによれば、マルチチュードとは叛乱の主体でありその意味で体制に従順でおとなしい民衆が即座にマルチチュードたりえるわけではない。しかし果たして実際の叛乱とは、はみだし者の祝祭のような形態を取るのであろうか。
さて、最初に名前の上がった外山恒一、松沢呉一、山本夜羽音、鹿島拾市は、実は全員「レイシストをしばき隊」になんらかの形で関係している。山本と鹿島は一度だけしばき隊に参加したが、考えが合わないということで除名となった。鹿島拾市はのちに反レイシズム運動の中から出た書籍としては最も商業的に成功した『九月、東京の路上で』(ころから、2014年)を著した加藤直樹である。松沢呉一はしばき隊に入ることはなかったが、路上やイベントでは常に共闘し、しばき隊を高く評価し、2013年以降の反レイシズム運動にがっちり主体的にコミットしてきた一人である。外山恒一はしばき隊と直接関係がないが大きく反応し、しばき隊を「第3回外山恒一賞」に選出してしまったほどであった。しかしこれらの人々も、レイシストをしばき隊がC.R.A.C.と名前を変えて以降は、どちらかというと距離を置くようになった。
レイシストをしばき隊は、かつてのドブネズミと3.11以降の運動をつなぐ最後の結節点だったのかもしれないと、今になって思うのである。
「国民なめんな」
安保法案が衆議院で強行採決された2015年7月15日の夜、国会正門前の歩道でジャーナリストの魚住昭さんにばったり会った。「SEALDsについてどう思うか」とおっしゃるので、私はこう力説した。
「彼らは "国民なめんな" ってコールしてるでしょう。これが完全に新しいんですよ!」
7月15〜17日は、総がかり行動実行委員会とSEALDsの共催で3日間連続の緊急抗議行動が行われていた。強行採決の夜は、2015年の安保法制反対デモにおいて初めて国会前の車道に人が溢れた日だった。2012年7月29日に首都圏反原発連合主催の反原発抗議行動で正門前車道が人で埋まって以来、3年ぶりのことだった。人数は主催者発表で10万人だったが、これが正確なのかどうかは知らない。群衆は3年前のように車道全部を埋めるに至らなかったが、しかし国会正門前の歩道とその奥にある前庭公園はかなりの広範囲・長時間にわたって人で溢れかえっていて、その一部が2車線にわたって溢れ出たのだった。
魚住さんは言った。
「たしかに。ぼくも国民という言葉には抵抗がある。少なくとも、自分の記事には書けない」
いま書きながら思ったのだが、なんで「国民」なんていう言葉にいちいち引っかかるのだろう?というのが、おそらく一般「国民」の大半の感覚ではないかと思う。議会政治においては自民党から共産党にいたるまで「国民」という言葉を普通に使っており、政治的な文脈でも特に問題のある言葉とはみなされていないはずだ。
ところが、社会運動の現場や左派アカデミアではそうではない。「国民」は、外国籍住民を除外する排除の言葉だと言うのである。
この「国民」問題には、2011年に反原発デモをやっていた頃から、たびたび遭遇した。とくに在日や外国人の問題に取り組んできた人たちが、この言葉を排除の記号として捉えることが多い。たとえば在日朝鮮人はかつて「国民」から「外国人」になった人々だが、そのために「国民」の権利をことごとく享受することができなかった。あるいは難民問題では、「国民」であることそのものが自らの命を危険にさらす状況の人々をサポートしてきた人たちがそうした認識を持つ。もちろんこれは理解できる。そして何より、「国民」を忌避する最も大きな要因は保守/右派勢力の国家主義に対する警戒であろう。なので無党派の市民運動や社会運動の場では、自らを含む大衆の総称として「国民」という言葉はほとんど用いられてはこず、むしろタブーとなっていた。もっとも標準的に使われてきたのは「市民」である。
ただしこの「市民」は、市民権(citizenship)を持つ主体(citizen)ではない。第3回で笠井さんが詳述したように、これは《「声なき声」の主》であり、《自由で平等な個人として政治的共同体に参入する共和主義的主体》を目指すものだった。対して「国民」とは、主に日本国家によって規定されるものであり、その言葉を自称に使うこと自体が国家主義的であるという認識が、日本の「市民」の間には広まっていたと思う。
その「市民」は、ときに「世界市民」や「地球市民」といったかたちで、コスモポリタニズムを主張することもある。リベラルな運動のなかでいまだにジョン・レノンの「イマジン」が好んで聞かれるのも、こうしたことと無関係ではないだろう。天国も国境もなく金持ちも貧乏人もいないユートピア、それは、ナショナリズムを克服し個人の自由と平等を重んずる「市民」の態度にフィットしつづけているのだと思う。要するにベ平連以降の「市民」は、国民国家を否定する要素を少なからぬ割合で備えており、換言すれば「国民」への対抗概念とすら言えるものだったのではないか。なかには「国民」という言葉にほとんど「臣民」に近いニュアンスを読み取っている人もいる。
プロ市民と右派市民
しかしそうした「市民」は、90年代後半以降の日本では揶揄されるべき欺瞞的な存在とみなされるようになった。それを端的に表現したのが、ネットスラングである「プロ市民」である。市民運動に現れる「市民」活動家は、いつも平日の昼間からデモや抗議行動をしている――いったいどうやって食っているのか、という疑問から彼らはカンパやデモ日当で市民運動そのものを食い扶持にしているプロフェッショナルであり、正義のためではなくカネのためにやっているのだという結論に飛躍する。つまりプロ市民の「プロ」とは、パチプロの「プロ」と同義である。
多くの労働組合やNPO、あるいは規模の大きな市民団体には専従の職員や活動家がおり、業務に従事して報酬を得ている人もいる。労働組合での動員では弁当が出たり交通費が支給されたりということもあるらしい。また、実際に運動を食い物にするセクトや団体もいるのではないかと思う。しかし右派が「プロ市民」と蔑む多くの人々、すなわち一般的なデモ参加者においては、利益を得ている人間など例外的な存在だろう。
「商売としての運動」の実態はともかく、90年代後半に新しい歴史教科書をつくる会が登場して以降の右派/保守運動は、この「市民」を自分たちの側に取り戻すためのものだった。小熊英二・上野陽子『〈癒し〉のナショナリズム』(慶應義塾大学出版会、2003年)によれば、当時つくる会や救う会に参加していた「草の根保守」の自意識は「良識ある普通の市民」であり、参与観察を行なった上野は彼らが自分たちをそう表象する理由について「それ以外の適当な言葉を見つけられないから」と結論づけている。すなわち右派もまた「何者でもない人々」なのであり、これはいわゆるネット右翼の多くが「日本が好きな普通の日本人」を自称していることにもつながる。
以後、2007年に桜井誠の「在日特権を許さない市民の会(在特会)」と黒田大輔の「日本を護る市民の会(日護会)」、翌2008年には「河野談話の白紙撤回を求める市民の会」と、相次いで「市民」を名乗る右派団体が立ち上がった。「河野談話を…」の代表は主権回復を目指す会の西村修平であり、呼びかけ人や賛同者には在特会の桜井やネオナチの瀬戸弘幸などがいる。また同じ年に、これもネット右翼有志によってそのものずばり「名も無き市民の会(名無し会)」というものが発足している。「名無し会」という略称は、2ちゃんねる掲示板のデフォルト投稿者名「名無しさん」を直接連想させるものである。
これら「ネット右翼」発の市民団体のうち、啓蒙や広報、ロビイングなどを活動目的とする名無し会以外は、街頭デモや直接抗議行動を積極的に行い、後に「行動する保守」と呼ばれる政治的潮流を形づくるようになった。これを提唱した西村修平は徳島大学の樋口直人の聞き取り調査に答えて、「安保みたいに」「社会に騒乱を、社会に混乱を招くぐらいの」運動が右派や保守にできていないという危機意識から、「語る運動から行動する運動へ」というスローガンを打ち立てたと語っている(樋口直人『「行動する保守」の論理(1) : 中国が重要というα氏の場合』2013年)。この「行動する保守」運動の特徴は非常に排外主義的なことで、2000年代後半以降現在までのおもなヘイトクライムやヘイトスピーチ問題の大半が、在特会らを含むこの一派によって引き起こされている。また、警察や公安調査庁やマスコミも、彼らのことを既存の右翼団体と区別して「右派系市民グループ」と記述する。
このように、2000年代後半以降の社会運動では保守/右派が「我々こそが市民である」「我々こそが国民である」ということを猛烈な勢いで主張し、レイシズムをその主なツールとして「安保のよう」な蜂起の主体となろうとしてきた。その内実はかつて左派が夢想したcitizenあるいはcitoyenとはかけ離れているが、にもかかわらず彼らが「何者でもない人々」であることは間違いがないのだ。
在特会が登場した当初、こうしたネット右翼のバックには日本会議がいるとか、あるいは自民党の政治家が動かしているのだといった言説がリベラルの間でまことしやかに流れたが、これは右派が(広義の)しばき隊やSEALDsの背後で共産党が糸を引いていると夢想するのと同じようなものだ。安田浩一や樋口直人の仕事によって明らかになったように、彼らにはバックはなく、本当の草の根である。完全に「普通」の人々なのだ。
3.11以降のナショナリズム
こうした状況のなかで3.11が起こり、今度は左派やリベラルが「市民」を取り戻さなくてはならなくなった。いや、市民だけではなく「国民」をも自分たちの側に取り戻そうとする動きが、3.11以降のリベラル社会運動には確実に存在する。それは大雑把に言えばナショナリズムということになろうが、ナショナリズムもまた「普通」の、そのへんの名も無き人々が拭い難く内面化しているものであり、左派においても右派においても大衆を動かす原動力となり、ときに全体主義を招く要素となる。
左派リベラルや反戦平和主義者が「お花畑」と揶揄されてきたのは、「イマジン」の歌詞にもある通り、ユートピアを夢想するお気楽な人とみなされていたからであり、世界市民だの地球市民だのと気取っているが現実の国家(すなわち日本)に起きる問題には無関心で、主体的に関わろうとしない無責任な人々だと思われたからである。この現実の国家に起きる問題の見立ては北朝鮮による拉致被害のような具体的な主権侵害/人権侵害から、地震や原発事故といった自然災害、そして中韓が日本に攻めてくるといった非現実的なものまでさまざまなレベルがあるが、個別の事例に対する是非はとりあえず置いておく。重要なことは、そうしたさまざまなトラブルに対して傍観者的であるとみなされたことだ。
実際、「国民」という言葉に拒否反応を示す人々は単に多様性を重視するコスモポリタンであっただけではなく、同時にこの国民国家の枠組みのなかで「国民」としてどう主体的に振る舞うかという視点を欠いている傾向が強いと思う。護憲を主張しながら、憲法に主権者として明記されている主体である「国民」であることを放棄して、実際には存在しない世界市民、地球市民のポジションに自らを置くことでその責任から逃れてきたのではないか。
こうした人々が、国家は悪だ、民族などフィクションだ、ナショナリズムなど無意味だと無邪気に主張するとき、まず民族や国籍の違いゆえに国家の庇護から排除されてきたマイノリティは「自分はマジョリティの特権を十分保障されていながらずいぶん気楽なものだ」という反応をする。そしてこれは、マイノリティだけでなく多くのマジョリティにとっても無責任な振る舞いとして認識されるのだった。要は、大衆は一種のカスタマー・メンタリティをそこに読み取っていた。批判するばかりで自分は何もしようとしないではないか、というわけである。反原発運動や反安保法制運動において「代替案を出せ」という非難が少なからず巻き起こったことも、こうした認識と無関係ではないだろう。
一方で3.11以降の反原発運動には、早い段階で「ふるさと守れ」「日本を守れ」というスローガンが登場し、日の丸を手に参加する人が現れた。日章旗を持ってくる人は必ずしも右翼ではなく(むしろ統一戦線義勇軍のような新右翼はシングル・イシューに外れるとして無党派の反原発デモに参加するときは日章旗を持参しなかった)、無党派のリベラル市民であったり、保守層の反原発派だった。当然、それが元で旧来の左派リベラル市民運動の人々とたびたびトラブルになった。
首都圏反原発連合の官邸前抗議では毎回大きな日章旗が先頭に立っていたが、これは反原連のスタッフが掲げたものではなく、一般参加者が持ち込んだものだった。しかし反原連は、それをとくに排除することはしなかった。国内の土地が直接的に原発事故によって汚染されたことによって、反原発運動がナショナリズムの性格を帯びることは不可避だという認識があったのだ。
『金曜官邸前抗議』(河出書房新社、2012年)に、私はこう書いている。
日の丸は星条旗のように市民革命を経て成立したものではなく、太極旗のように抗日運動によって取り戻した旗でもない。だからいまだに、良くも悪くも強大凶悪な国家権力、つまり「お上」の象徴としかとらえられないのは仕方のないことかもしれない。しかしいつまでも日の丸をお上の象徴として忌避しつづけるだけでは、自分たちの手で民主主義を実現することは難しいのではないかと思う。そして社会運動は日本の大衆の心情と乖離する一方となるだろう。
この本が出た2か月後には、私はレイシストをしばき隊を呼びかけて、新大久保で日の丸を林立させる集団に向かって「死ねこの野郎」と罵っていたわけだが、決して矛盾してはいないと思う。そして在特会の掲げる日の丸もまた、彼らの認識はどうであれ「お上」の象徴では決してなく、「何者でもない自分たち」を表象するためのとりあえずの手近なシンボルにすぎなかった。だからしばき隊に参加した民族派右翼たちは、「日の丸を降ろせ」と彼らに向かって叫んだのだ。
反レイシズム運動のなかのナショナリズム
レイシストをしばき隊に始まった2013年以降の反ヘイト・カウンター運動もまた、それ以前の反排外主義運動とは異なり、あからさまにナショナリズムを動員していた。プラカードには「ネトウヨは日本の癌」「レイシストは日本の恥」といった文言が並んだ。参議院議員の有田芳生は同年3月に開いたヘイトスピーチに関する初の院内集会に一水会の木村三浩を登壇させた。木村の発言はヘイトスピーチを品位の問題として語るもので内容には失望したが、それでもまだこの段階では、新右翼が日本国民の矜持の問題としてヘイトスピーチを批判するという言説が求められていたのだと思う。
鈴木邦男や木村三浩、それに統一戦線義勇軍の針谷大輔などが2010年頃からはっきりと在特会や行動する保守を批判してきたこともあって、野村秋介門下といえる新右翼の面々は一般に排外主義や民族差別に批判的だ――と、当時は思われていた。しかし実際には、村田春樹や瀬戸弘幸など行動する保守の一翼を担う筋金入りの排外主義者もまた、元新右翼なのだ。
新大久保でプラカードを掲げていたのは木野寿紀が呼びかけたプラカード隊で、これはレイシストをしばき隊とは別の人々であったが、木野はプラカ隊を呼びかけた理由として「ヘサヨ」への批判があったことをツイッターで語っている。
2010までの在特会へのカウンター行動というと、日の丸を赤い糞便形に描いたプラカードとか、「レイシストには日の丸がよく似合う」なんてものとか、在特会への罵声も「日の丸野郎!」とか、なんでそんなに双方とも日の丸が好きなんだよ、という感じだったのですよ。
で、2010年までの「レイシストには日の丸がよく似合う」みたいなプラカードばっかりだと、もう保守派の人たちなんか入ってこられないわけです。「愛国者として差別には反対だ!」みたいな人も新大久保にはたくさん来てくれてますが、いままでは参加できなかったんですよね。
まったくの善意で、ああいった差別デモは許せないから反対の意思を表明したいよね、と思って通りに立った人たちなのに「仲良くしようぜとは何だ!」「お前も在特会と同じ、差別者だ!」なんて罵倒を連日浴びたら、もうこの手の問題には関わりたくなくなりますよね。何もしないほうがいいんだ、となる。
レイシストの醜悪なデモ行進にプラカードで抗議する、たったこれだけのことをするために、レイシストやネトウヨはともかく、一部の左翼から強烈な糾弾を受けなきゃならないわけです。普通の人だったら、そんなことされたら関わりたくなくなりますよ。当たり前です。いま社会の中にある差別や不平等なんかを解消することより、自身の潔癖性アピールと、他者を徹底的に糾弾する快感を優先する人たちのせいで、社会運動が崩壊してきたことか。多くの「良識ある市民」が遠ざかってしまったことか。[1]
ここで語られているのは「愛国者」「保守派」だが、実際新大久保の路上カウンターには民族派右翼とまでは言えない単なる保守みたいな人がたくさんいた。それは現在の「あざらし」のなかにも多く、私の基準ですべてリベラルと括っているが、実際にはかなりの穏健派リベラルまたは保守リベラルのような人たちである。この人たちは反原発運動のなかにもたくさんいて、2012〜13年の反原発運動やカウンター運動に爆発的に人が集まったのは、こうした「何者でもない人々」が大量に参加したからである。
「我々日本人をなめるな!」と叫ぶ行動する保守のレイシストたちを、カウンターの面々はこう痛罵した。
「一丁前に日本人ヅラしてんじゃねえ!」「レイシストは日本から出て行け」
よく言われることだが、現在の反レイシズム運動では、被害者であるマイノリティに寄り添いそれを支援するのではなく、社会の病理としてのレイシズムやヘイトスピーチを直接相手にするという基本コンセプトが共有されている。これを乱暴な言葉で表現すると「在日を守るためにやっているのではない。社会を守るためである」となる。だからしばき隊初期においては、「守る」という言葉は禁句となっていた。そのためにナショナリズムが動員されたのは私や木野が何かを「指導」したからではなく、ごく自然な成り行きであったと思う。つまり、右翼も拒まずに運動に受け入れていたら、当たり前のようにそうなったのだ。
しかし、ヒントとなるようなものはあった。
しばき隊結成から遡ること2年強、私は2010年の11月に、関西学院大学教授の金明秀(キム・ミョンス)の講座を聞きに行った。当日の論題は、金が前年に500人の日本人を対象に行なった排外主義に関する意識調査の中間報告のようなもので、その結果「伝統への意識やナショナル・プライドは高いほうが排外主義を押し下げる方向に働く」ということがわかったという。
ナショナル・プライドとは、自分たちの国家のあり方についての誇り、とでも言うべきもののことで、要するに自分たちが住む国を誇りを持てるよい国にしたいという願望のようなものである。金によれば、情緒的なパトリオティズムは排外主義に傾きやすいが、ナショナル・プライドは逆に作用するという。パトリオティズムが愛国とするなら、ナショナル・プライドは憂国に分類されるのかもしれない。
この調査結果はまさに、3年後の新大久保で実証されたと言っていいのではないか。カウンターに参加していたのはほとんどが日本人であり、その動機は、「日本人がやっているヘイトスピーチは日本人の手でなんとかしなければいけない」というものであった。なぜなら、これは国や社会を壊すからである。citizenshipを持つ自分たちがそれを持たない在日やニューカマーを代弁して彼らのためにやってやるというものではなく、直接的に自分たちのために、自分たちが主体となってこの事態に責任を負うというのが、その考えの根本だった。そのため被害の当事者たる在日コリアンが置き去りになるという批判もあったが、在日コリアンが被害の当事者であるとするなら、こちらは加害側の当事者だという認識があった。今でも「しばき隊」と総称される反レイシズム運動の基本路線はこの当時のままである。
このように、3.11以降の社会運動におけるナショナリズムは排外主義者らの「愛国心(patriotism)」と保守・左派双方の「憂国心(national pride)」のせめぎあいの様相を呈していた。SEALDsの「国民なめんな」は、こうした背景の上に登場したのである。
「国民」の復権
注意すべきは、このnational prideという概念はもちろん国家による国威発揚にもそのまま使われるということである。英語の辞書を見れば「国家的威信」とも訳されていて、要するに東条英機を描いた映画『プライド・運命の瞬間』(1998年)におけるprideや欧米の排外主義運動のスローガンになっている "white pride" におけるprideが、この用法に近いものだ。
一方で、セクシャル・マイノリティの祭典である「レインボー・プライド」や、映画『パレードへようこそ』の原題である "Pride" は、少数派の誇りという意味であり、こちらもよく知られた用法だ。しかし排外主義に対抗する原動力としてのnational prideにおけるprideは、そのどちらともニュアンスが違うことに注意しなければならない。
SEALDsの「国民なめんな」は、文字通りnational pride の発露である。この場合、SEALDsが「国民」という言葉を使ったからといって、運動から在日外国人を排除したと考えるのは間違いだ。なぜならSEALDsには外国籍の学生も参加しているからである。とはいえ、年配の左派や在日コリアンには「国民」という用語への抵抗は大きく(その言葉によって歴史的にさまざまな排除を経験してきたのだから当たり前である)、デモに参加しても「国民なめんな」だけは唱和しないという人が多い。
この「国民」は何なのか。
共産党や社民党がごくごく当たり前のように「国民」という用語を使うなかで、一般的には説明が必要な言葉でもないのだが、リベラル社会運動の文脈においては、これは大きなパラダイム・シフトだと私は思っている。
政治学者の木下ちがやはこの国民問題について、日高六郎を引いて次のように述べている。
「『国民とは国民たろうとする人民だ』『国民とは国の方向を作り出していく人民だ』。そうだとすれば運動に参加した人々こそ『国民』ではないか。政府と国家機構の外で自ら日本の政治を方向づける「被治者」は、自分が権利の上で国家より先にあるものとしての「国民」であることを知りかつ示した」日高はこの国民概念を、戦後直後の私生活主義から脱却し、政治的情熱を持ち始めた人々をあらわす言葉として使っています。昨今の国民概念批判が国籍概念とほぼイコールに使うのとは全く違います。
ですから、今の運動における国民という言葉は、能動的主体的政治参加が大衆的な広がりをもったことの「指標」として「再発見」されたとも言えるわけです。こうした概念の揺らぎそのものが、いまの日本政治の揺らぎの指標であると捉えることが大事だと思います。[2]
SEALDsの「国民なめんな」は、政府(state)に向けて国民(nation)が「言うことを聞け」と訴えかけるスローガンであり、国家に明確に対峙する主体としての国民というものが、数十年ぶりに明白な形となって立ち現われたことを示しているのではないか。これは「言うこと聞かせる番だ俺たちが」というスローガンと対になっている。
日本という国の主権者はあくまで「国民」であり、政府が勝手なことをするのは許されない。とくに運動の主題が「憲法を守れ」というものである以上、これは現在自分が主権者として所属している国民国家の枠組みを直接問いなおすものであり、だとすれば国家に真正面から対峙する政治主体としての国民を名乗るほかないのである。まして政府や右派が国民の代弁者を装って排外主義を煽り戦争への道を開こうとしているときには、はっきりと「国民」の名においてそれを拒否しなければならない。つまり、政府や国家から「国民」を取り戻す必要がある。
「国民」概念がこうした二面性を持つのは、何も日本に限ったことではない。1989年、ライプツィヒの「月曜デモ」において当時の東ドイツ国民がホーネッカーに対して掲げたスローガンは "Wir sind das Volk" すなわち「我々こそが国民だ」であった。das Volkは英語で言うところの the peopleで、すなわち文字通りには「人民」だが、国家に対峙する主体としての「国民」を意味している(日本国憲法における「国民」も、英文ではthe peopleである)。ところが2016年の現在、"Wir sind das Volk" は極右排外主義団体であるペギーダ(西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者)たちが、国内のムスリムや移民、難民を排斥するスローガンとしてデモで掲げるものなのだ。
若いSEALDsがそれまでの左派リベラルの因習を知っていたとは思えず、したがって彼らは「国民」という言葉をそのままなんの抵抗もなく使っただけなのではないかと思う。しかしそれはSEALDsが、これまで堂々と「国民」を名乗ることのできなかった中途半端な「市民」、つまり「国民」であることを拒否した人々ではなく、サッカーの国際試合で熱狂して日の丸を振る多くの普通の国民に近い存在であることを示している。すでにSEALDsはあざらしとも違って「何者でもない人々」ですらないのであった。
[1] togetter:「ヘサヨ」とは何か(わかりやすい解説)
(2016年01月15日掲載)