医師…美術家…記念すべき100回目は奇跡の顔合わせ!大正2年生まれの美術家…その作品は墨の抽象画といわれ世界的に高く評価されている。
篠田は100歳を過ぎて今なお旺盛な制作を続けている。
一方104歳の医師…高齢者の星とたたえられる日野原は毎日講演や会合に引っ張りだこ。
月に一度は地方出張もこなす。
2020年の東京オリンピックも自分の目で見ると宣言している。
おはようございます。
70年以上にわたり医療の現場に立ち続けてきた日野原。
この世に生を受けたのは1911年明治44年の事だ。
1911年といえば中国では辛亥革命が勃発し日本では大逆事件の嵐が吹き荒れた年だ。
篠田が生まれたのは1913年。
翌年には第一次世界大戦が勃発する。
2人が医師と書道家として歩み始めた時時代は第二次世界大戦に突入していった。
終戦を迎えた時日野原は33歳。
篠田は32歳だった。
日野原は39歳で奨学生としてアメリカ・アトランタのエモリー大学に留学。
当時の先進的な医療を学んだ。
篠田も1956年43歳の時に単身渡米する。
抽象表現全盛時代のニューヨークで美術家として評価を高めた。
2人は数々の歴史的瞬間にも立ち会ってきた。
日野原は1970年よど号ハイジャック事件に遭遇。
4日間人質となった。
一方の篠田ビートルズが初来日した時作品に一目ぼれしたメンバーから連絡を受けた事もある。
篠田の自宅を日野原が訪ねた。
車椅子を使うのは心臓の負担を減らすためだ。
あ〜先生。
(2人)あ〜。
まあどうも。
大丈夫?お立ちになれる?本当に久しぶりでね。
病院でね。
こんなふうに治りましたから。
よかった。
ええもう本当に。
先生のおかげで本当に…たまには入院するのもいいですね。
たまにはね。
ええたまには。
あの本当に…心から私ね…。
上がっていいですか?実は2人は70年以上前からつきあいがある。
日野原の妻静子が篠田に書を習っていた縁で篠田は2人の結婚式にも出席したという。
奇跡の104歳と103歳!ところが2人は何かと対照的だった!?全部決まってるんですよ。
はあ〜あきれた。
2人の…このバナナを…。
篠田も3食欠かさない!毎日食べているのが…更に街の人々の悩みの声にもお答え頂きます!日野原先生がウトウトされる瞬間も?先生〜?去年5月に放送され大きな反響を呼んだ「ETV特集」。
100歳を過ぎてなお新たな線新たな表現を求めて日々墨と向き合い続ける姿に密着した。
自分で思った事があるの。
だんだんこれが…魔法使いみたいなもんですよ。
これ使うの。
墨の濃淡限られた色彩から無限の表現を引き出す篠田の作品は墨の抽象画といわれる。
600年の歴史を持つ浄土宗大本山増上寺。
本堂の道場には篠田のふすま絵「ひふみよ」が収められている。
ホテルのロビーに据えられた「人よ」。
花鳥風月をイメージして作り上げた5メートルの大作は篠田が92歳になってから手がけたものだ。
篠田は作業用クレーンにも恐れず乗り込んだ。
篠田の作品は世界の名だたる美術館に収蔵されるなど高い評価を得ている。
すごいね。
これが全部アトリエでね。
そしたらね先生…そうそうそうそう。
そう聴診器。
ちゃんとそのね…だからこれは泥のすずりですって申し上げたらねそれを申し上げる前にね……っておっしゃった。
聴診器を当てて。
あのね私は患者さんを診るとね診てね「どうですか?」って言って…音でね。
音で。
医者にとって耳は…。
僕はこちらに来てねこの筆がね…これがそう!これがそう太い筆から細い筆まで…。
こういう種の筆からね小さな筆まで…。
こういうふうなものが欲しいと思って作らせたらいろんなもの頼んだら…こういうふうになっちゃった。
だけど…それと私の目的とはまた別のものをそれは持ってるから。
先生がねこんなに年を取ってもねまだ作品を作っておられるという事がもう驚異ですよ。
それはね…身についてる。
そうそうそう。
生きてるっていうのは筆か何か持って何かを…そうそうそうそう。
全く同じ。
そうですよ。
でもまた考えを変えれば何か…いやいや無駄じゃない。
先生は「いい」っておっしゃって下さるけども随分ね…一本の線を引きまして「ああこれうまくできた」と私としてはこれくらいのところが私のあれだろうと。
いやいやいやいや。
そういうふうな言い方をされるとみんなもそうであります。
篠田は大正2年旧満州現在の中国東北部で生まれた。
厳格だった父から篠田は書の手ほどきを受けたという。
23歳の時父の反対を押し切り自活を始める。
書を教えて生計を立てる日々。
「必ず結婚する事」という父の遺言にも従わなかった。
戦時中の1943年30歳の時に開いた個展の写真。
篠田は女学校時代を除いてほぼ独学で書を追求した。
1955年製作のフランスの記録映画「日本の書」。
40代の篠田が新進気鋭の書道家の一人として取り上げられている。
篠田は伝統的な書の作法にのっとって描く事に限界を感じ始めた。
篠田の作品は伝統を重んじる書の世界には受け入れられなかった。
そうそうそうそうそう。
そうですよね。
ええ。
ああそうですか。
ああいう学問の都があったかと思うとこういうありとあらゆるものがひしめき合ってるニューヨークって所がある。
そうですね。
そういう一つのアートっていうものがいかに人間の社会の中で普遍性があるかって事が分かりました。
1956年43歳にして篠田は日本を飛び出しニューヨークに制作の場を移す。
自由な空気あらゆる実験的な試みが渦巻くアートシーン。
篠田の作風も解放されていく。
独創的な水墨の抽象画は評判を呼んだ。
いくら自由に描くと言っても。
無数の縦の線を引きたいという衝動があっても。
乾燥した気候が墨に向かないと悟った篠田は2年で帰国。
以降日本で制作に打ち込んできた。
あまり期待をしない方なの外部に。
楽しみってほどではないけどやらなきゃなんないからやるっていうそういう義務でやってるっていうような事でもない。
どう言ったらいいんでしょうね。
そういうような事があって生きてるんじゃないかなと時々そういうふうに思うの私。
私はね先生…あの時私は先生のような方がハイジャックに遭ったっていうこれは何か…この地球には何かそういう意志心があってそういう事をするの…試すのかと思った。
ふっと。
1970年に起きた…赤軍派を名乗る9人が日航機をハイジャック。
北朝鮮への亡命を要求した。
偶然飛行機に乗り合わせた日野原は人質にされ機内で緊迫の4日間を過ごす。
ソウルで無事に解放された時の映像が残っている。
生き方を私はあれで学んだという事はね非常に大切でね。
ああそうですか。
感謝をなさるのね先生は。
私は。
それはもう先生みたいな偉い方が感謝をするっていうのはすごい事よね。
人に感謝する時って助けて頂いた何かをして下すったそりゃ感謝はしますよ。
だけど…やっぱり…何かそういう特定の人に特定の何かに感謝するってあんまりそういう事がないのね。
とんでもない。
先生と私に共通点なんてありっこないわよ。
月とスッポンっていうのはこういう言葉で…使う時に…日本語に…。
月とスッポンですよ。
だんだん神に近づいてらっしゃる。
時代の制約や世間の価値観にとらわれる事なく自らの道を切り開いてきた篠田。
その生き方が改めて注目され著書は50万部のベストセラーとなっている。
自由とは自らに由る事だと言う篠田。
100歳を越えた篠田の言葉は多くの人の心を捉えてきた。
このですね「生きている限り人間は未完成」っていう事をねはっきりですねご自分で言っておられる。
はっと気が付いたなんて事ないです。
ごく自然体ね。
ごく自然体ですよ全ての事がね。
本当におんなじですよ私。
そういう生き方です私は。
ところでお二人は…それ先生の日記ですか。
そうです。
それでね…。
あきれた。
へえ〜。
日野原が愛用している10年手帳。
何年も先まで予定が書き込まれている。
日野原先生なんと2022年111歳まで生きる気満々です。
あらまあ。
こんな長く22年まで?そうですよ。
そうです。
全部決まってるんですよ。
私はねそういう意味でいろんな事があるんですね。
22年まで。
ここまで予定が出来てらっしゃるとはね…。
まだまだ延びます。
まだ。
じゃあ希望はある訳ですね。
生きがいある。
ええ生きがい。
でも絵が残ってる。
何も。
私っていうのは…その風にね上手に乗ってんの。
ふわ〜。
大勢の人と何かやってればそうはいかないわね皆さんとのねあれが。
だから何もやらないでぼけ〜っと一日過ぎたり1週間ぐらいぼけ〜っと過ぎちゃったり。
もう私みたいなね…いやいやいや。
いい意味の自由人。
どちらかって自堕落よ。
自由なんて…。
勝手気ままっていうのかしら。
でも多少ね電話でするジャーナリズムの人たちとか遊びに来る人…先生も私もね生きがいがある。
そうしてねこういうふうなカメラに映るというふうな機会。
そして私たちの生きがいと生きている姿をみんなにやっぱり見せたい。
こういうふうに私は思って今日のこのチャンスはねとてもよかったと私は思ってんですよね。
縁っていうのはキリスト教ではどういう言葉に置き換えれるんでしょう。
絆。
そうですね。
そういう巡り合わせみたいな事をご縁っていいますよね。
私はですね今日のねトークテーマの最後の結論にしたいと思います。
せっかくの貴重なチャンス。
もう少し話を聞かせてほしいとディレクターがお願いしました。
秘けつなんて…。
早起きする事とか何々は間違ってもこういう事はしないとかっていうのがよく秘けつだなんてね形に出せるものを持ってる方もあるのかもしれないけど…秘けつなんていうものは…。
私はね長生きの秘けつはね一つはね第一番のVはビジョンを持つという事。
私は。
あ〜ビジョンを。
ビジョンを持つ。
それから…それに対して全部全力投球をする。
ビジョン…ビジョンが第一。
ビジョンね。
次がベンチャー。
自然に与えられる。
自然に与えられる。
それが私は今日の結論。
そういうものは持とう持とうと思って持った訳じゃないでしょ?おのずからそうなってたんでしょ。
だから人々にね…そういう事よ。
だから先輩の言う事を聞いてやっていくなんてそんなんじゃ駄目よ。
先生の今のお話で私本当気が付いたわ。
たまにある程度…それはできると思う。
ですけど…そういう事ないです。
後半は舞台をスイッチ。
僕はフレディ!葉っぱのフレディ!
(一同)うわ〜!日野原が87歳の時脚本を手がけた…10年以上にわたって繰り返し上演されニューヨークのオフブロードウェイ公演も果たした。
(歌声)ニューヨークでは自ら舞台に上がってパフォーマンス。
全部持っていってしまった。
1年で1つは新しい事を始めると決めている日野原。
98歳で俳句を始めた。
99歳で始めたのはなんと週1回の筋トレとストレッチ。
呼吸できますか?はい。
はい先生以上です。
あ〜元気になったな。
万歳。
球場に行けばもちろんバッターボックスに立つ。
ナイススイング!100歳にして始めたのはフェイスブック。
日々の活動を積極的にアップしている。
サッカー観戦も大好きなんです。
そんな日野原が75年間診療を続けてきた病院に篠田がやって来た。
ちゃんと歩けるでしょ。
病院の敷地内にある創設者トイスラー宣教師の記念館。
昭和初期の建物だという。
おお先生。
ああ篠田先生。
こんにちは。
昨日はねお話ができていいんですがね今日はね…こちらに。
私はここは初めてよ先生。
あっそう?初めてですかここ。
ここへ入れて頂いた事本当初めてだわ。
じゃああちらにちょっとねお座りになっていきましょう。
外国行ったような。
そういう感じがします。
こちらにお座りになって下さい。
はいはいありがとう。
桃紅先生はねず〜っと年を取ってもねまだ作品を描き続けられているでしょう。
それと同じように私もね…ホスピスの病棟に行って私は患者さんの診察をして…はあ〜。
定年後だから。
だから全く…すばらしい事ですね。
やっぱり全人間のための存在なのよ先生は。
それは本当に医学っていうのはそういうサイエンスの領域が非常に広いという…。
広くて。
医者というのは。
何々っていう名前のある病気だけじゃないですよね。
病名があるだけじゃなくてね何かのそういうふうな病気を持っているんだけれどもやはり…ああそうですよ。
また心を病んでる人が体も悪くなりますよね。
逆にまた一緒になってくる。
そうなんですよね。
先生はいろんな病気もされたからね…。
一緒になってますね。
日野原が医師を志したのは10歳の時。
母が重い病を患った。
父は牧師で家計は貧しかった。
近所の医師が診療代も取らずに母を治してくれたという。
日野原は単に病を治療するにとどまらない医師の役割医療の役割を考え続けてきた。
1954年には病の早期発見のためいち早く人間ドックを開設。
生活習慣病という言葉を使い始めたのも日野原だ。
そして80年代から緩和ケアにも取り組み始め日本初の独立型ホスピスを設立する。
そういうふうに言ったんでその時にですね…処置をするよりも…安らかな最期のために医師として何ができるのか?日野原は末期がん患者の診察に力を注いできた。
ねえ。
万歳だね。
笑顔が出たじゃないのよ。
きれいな笑顔が。
ねえ。
日野原がみとってきた患者は4,000人を超える。
お釈迦様が…。
世の中というものはねやはり…お釈迦様がはっきり理解をしてね。
みんな苦しみだってお釈迦様は言ってますね。
それは結局…人間っていうのはどういうふうに生まれてどういうふうに生きてどういうふうにして病気になったり死んだりしていく。
輪廻ですね輪廻。
仏教でいいますよね。
そうですね。
それぞれがね。
生き方が違う。
例えば今の孤独という「ひとり」という字に「独」という字と「孤」という字と2つねあてたりして…決められない。
ああ…。
だからそういうその…カルチャー?まだ。
ああそう。
ああそうですか〜。
一生がね。
慣れてきて繰り返してるからね。
私は何か自分の中にねそういう…これはもう頭が悪いからかもしれませんね。
いやいやそんな事はないですね。
頭のいい方はちゃんと人間というのはこういうもんだと割り切ってやってらっしゃるのかしら。
日野原は小学生に向けた「いのちの授業」を200回以上行ってきた。
はい。
お〜止めた。
(拍手)止めたでしょう。
その時には皆さんはですね…1時間にわたって子どもたちの間を歩き回りながら命や平和について考えさせる。
自分でこう考えてみるとね…与えられたものだっていう事ですね。
ああ。
子どもたちにね。
子どもたちにね。
その人子が大人になった時の人となりに大変大きい影響をお与えになります。
なってますね。
そうですね。
子どもたちにね…104歳。
驚異の生命力を支える食生活とは。
朝食は毎朝10時過ぎ。
メニューは20年以上変わらない。
牛乳に大豆レシチンをたっぷり。
そしてリンゴジュースにはオリーブオイルをたっぷり。
全然ね飲みやすいんでね。
少し甘い。
ちなみに昼食は1杯の牛乳とクッキー程度で済ます。
夕食は夜7時に食べる。
ヒラメのソテーマグロの刺身サラダに揚げ出し豆腐。
ふるさと山口のかまぼこも欠かせない。
結構なボリュームに見えるが日野原は一気かせいに平らげていく。
僅か15分。
あっさり完食されました。
せっかくの機会なのでお二人に街の悩みの声に答えて頂く事に。
まずは10代から20代の若者に一番多かったのはこんな声だった。
どういうんでしょうね…。
そういう人っていうのはつまり…そうそう。
そうですよ。
希望がない…。
私たちがよくない…いいと思えてないんですよ。
ああそうね。
そうです。
老人を見て「あ〜ああいうのいいな」って思ってくれないんだから。
そういう人がね20歳代の人と30歳代の会社員に今多い。
どうもやっぱり実際には多いらしいですからね。
そういうふうな人に私たちがですね何かのこの背を見せる事も私たちの責任じゃないかと思いますね。
40〜50代になると人生も後半戦に入ったという思いが芽生えてくるようで…。
どちらかと言えばわがままですよ私は。
だから…は?エンカウンターっていう。
エンカウンターですね。
何かの時に出会いがある。
私はそういうふうに思いますよ。
60代以上になると老いや死に対する不安を口にする人が多かった。
寿命というものがあるからね…心の広さがないとこういうふうに迷う訳でありますね。
先生の前で申し訳ないけど…そうですそうですよ。
私肺病になったんですよ。
もう長く生きれるなんて思いも寄りませんでしたよ。
先生も?ああ。
病気を持ちながらもね私が…。
私の場合には…最後に申したいと思いますがね。
3日後篠田の103歳を記念して103点の作品を展示する催しが開かれた。
こちらは1967年篠田が54歳の時の作品。
Dialogue:0,0:57:59.2016/01/14(木) 00:00〜01:00
NHKEテレ1大阪
SWITCHインタビュー 達人達(たち)「日野原重明×篠田桃紅」[字][再]
104歳の医師・日野原重明と103歳の美術家・篠田桃紅、奇跡の顔合わせによる痛快トーク!生涯現役を貫く秘けつ、悩める人々に授ける「人生百年の知恵」まで語り尽くす
詳細情報
番組内容
100歳を越えてなお旺盛な活動を続ける2人だが実は何かと対照的。10年先の予定までびっしり書き込み「目標」を大切にする日野原に対し予定も目標も立てず「その日暮らしの風まかせ」と“自然体”を貫く篠田。長生きの秘けつは3つの“V”?気になる食生活も徹底取材。さらに「やりたいことが見つからない」という若者、「子どもが巣立った後のさみしさ」や「老いや死への不安」を訴える中高年など街の悩みの声にも答えて頂く
出演者
【出演】聖路加国際大学 名誉理事長…日野原重明,美術家…篠田桃紅,【語り】吉田羊,六角精児
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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