歴史秘話ヒストリア▽戦のない世を目指して〜戦国スーパードクター 曲直瀬道三〜 2016.01.13


戦国時代医療に革命を起こし人の命を救う事に生涯を懸けた医者がいました。
織田信長や豊臣秀吉といった天下人からあつく信頼された戦国のスーパードクター。
その武器は患者一人一人にあわせた治療です。
道三は身分を問わず病に苦しむ人は誰でも診療しました。
武士の家に生まれた道三を医者へと導いた師匠との別れ。
これが死か…。
まさか…まことにこのような日が…。
戦国大名毛利元就との出会い。
道三殿血にまみれたわしの命は救えぬか?80近くになってキリシタンとなった道三。
それがまな弟子との間に思わぬ事態を引き起こします。
もう会う事もあるまい。
平和な世の中を目指して戦乱の世に医者として戦いを挑んだ一人の男の物語です。
滋賀県守山市にある大光寺。
(読経)ここで読み書きを学ぶ子供たちの中に心に大きな傷を負った一人の少年がいました。
母上!父上!行かないで下さい!後の曲直瀬道三です。
(兵たちのおたけび)あぁっ!応仁の乱以来40年にわたって続く戦乱で都は焦土と化し多くの人々が命を失っていました。
こうした中道三は武士の家に生まれました。
しかし…。
よかった。
元気な子…。
お前が大きくなる姿見たかった…。
安堵いたせ。
この子はわしが命に代えても守り通す。
しかしその誓いを守る事はできませんでした。
この年のうちに父もまた戦乱の中命を落とします。
無念じゃ…。
両親の顔すら思い出す事ができない自らの境遇に幼い道三は言いようがない怒りを抱いていました。
和尚様どうして母上と父上は死んでしまったのですか?どうすればもっと生きられたのですか?どうすればもっと生きられたのか。
その答えはお前がこれから懸命に学問を積んでゆけば分かるやもしれん。
やがて22歳になった道三は更に学問を積もうと都から関東へ向かいます。
心の声誰もが無用に命を損なうことのない世。
それにはどうすれば…。
やって来たのはそのころ日本で最も優れた学校として知られた足利学校です。
全国からおよそ3,000人の僧が集まり学んでいたと言われています。
この建物自身は江戸時代の前期なんですが当時においても…およそ500年前道三が学んでいた頃作られた孔子の像。
ここでの学問は孔子の教えである儒学や易学兵学などが中心でした。
足利学校で使われていた教科書の一つ。
古代中国の名医の伝記を書き写したものです。
病の見極め方や治療法などが書かれ初歩の医学を学ぶ事ができます。
道三もこうした環境の中医学と出会ったと考えられています。
心の声この学問ならば母上や父上と同じ境遇の者でもきっと救う事ができる。
学校にはそこで学ぶ者が病気やけがをした時のための療養施設もありました。
看病をするのは同窓の仲間たち。
医学を実践する事のできる貴重な場です。
しかし重病人は治療をしても命を落としてしまう事が少なくありませんでした。
そんな中道三は一人の医者と運命的に出会います。
苦しい…もうわしは駄目じゃ。
(道三)何を申す。
しっかりせえ!大丈夫じゃ。
この者はまだ生きられる。
この薬をのませてやりなさい。
ええ…しかしこれまでいかなる薬も効きませなんだが…。
何か気分がようなった…。
なんと!心の声一体どうやって…。
この医者の名前は…足利学校の出身で「関東の名医」と呼ばれ学校にも時々顔を出していたと言われています。
なぜ三喜の薬はそれほど効果があったのでしょうか?当時の薬は植物や動物鉱物など1,700余りの生薬を使い中国から伝わった本に書かれているとおりの量で調合。
それを病人にのませるというものでした。
ところが三喜は患者一人一人の年齢や性別体質などにあわせて生薬の量を決め薬を処方したのです。
田代三喜は…それぞれの患者さんの症状にあった新しいオーダーメードの処方を作る能力があったからそれほど劇的に効いたんだと思います。
その者の心と体に一番あった薬を処方してのませる。
これが私のやり方だ。
心の声この方の技こそまさに私が探し求めていたもの。
母上父上ついに私は見つけました。
道三の自伝にはこの三喜との出会いが本格的に医学を学ぶ始まりだったと書かれています。
三喜様。
誰じゃ?私を弟子にして下さいませ。
お主は…。
この日から道三は医者としての道を歩み始めました。
三喜のもとで薬草の採取や栽培を手伝います。
(三喜)それはなオトギリソウといって傷の癒やしに効く。
はい。
(三喜)よく覚えておくように。
分かりました。
薬草の名前や特徴効能などを詳しく学んでいきました。
これはお主も知っておろう。
ヨモギじゃ。
これは存じております。
往診にも同行しました。
三喜様今日はよろしくお願いします。
お父…。
お父はめまいや吐き気がひどくて飯も喉を通らねえんです。
まずは脈を診ようかの。
診察の時…三喜の治療を間近で見ながら道三はその医術と精神を懸命に学びました。
三喜もまたそんな道三に信頼を寄せていくようになります。
(三喜)道三よわしの全てを学べ。
血で血を洗うこの乱世に命を一つでも多く救うため正しい医術を身につけた医者が要る。
(道三)はい。
弟子入りして5年。
道三はようやく一人前として認められます。
亡き父と母が私にこの道を示してくれたのでございましょう。
御仏に仕えるのでも侍大将になるのでもなく人の命を長らえさせる事におのが命を懸ける道。
私もお主の父母には感謝している。
私の志と技を受け継ぐお前をこの世に送り出してくれた。
ありがたい。
ところが…。
(三喜)どうした?いえ…そんなまさか…。
失礼いたします。
(道三)これは…。
道三よくぞ分かった。
命は限りあるもの。
それが人の定めなのだ。
心の声お師匠様のお命は…もう…。
病人の脈を知るに…。
死に臨んで…たちまちに現れ…。
目の前が暗くなってきた…もはやお主の顔もよう見えん…。
命を賭して行った三喜最後の授業です。
これが死か…。
まさか…まことにこのような日が…。
弟子の道三に看取られながら田代三喜は73年の生涯を閉じました。
道三は師から受け継いだ医術を深め広める事に生涯を懸けようと決意します。
ようこそ「歴史秘話ヒストリア」へ。
戦国時代ほとんどの人々は病気になったりけがをしたりした時祈祷やおまじないあるいは怪しげな治療法に頼るしかありませんでした。
例えば…。
耳が聞こえづらくなったら…今から見れば信じられないものばかり。
こうした中登場してきたのが曲直瀬道三やその師田代三喜のように合理的な治療を行うお医者さんだったのです。
道三は39歳の時生まれ故郷の京の都に帰り医者として活動し始めます。
師匠である三喜同様患者の体を丁寧に診察し…道三の薬はよく効くと評判になり都の人たちがこぞって診療を受けに来るようになります。
しっかり養生するのじゃぞ。
ありがとうございました道三様。
町人でも武士でも苦しんでいる者は誰であっても診察しました。
道三様!父が歩けるようになりました。
道三様ありがとうございました。
なんのお主の力じゃ。
よう頑張った。
道三様これ今日のお礼。
食べて。
道三は名医としてその名を広く知られるようになります。
道三様ありがとうございました。
やがて60歳となった道三に転機が訪れます。
御免!やって来たのは一人の武士。
実は我が毛利家の大殿元就様が出雲へ御出陣中病に伏せられました。
西国の大大名毛利元就は中国地方統一を目指し…次々と出城を落としその本城を包囲。
落城まであと一歩という時元就が病気で倒れたというのです。
道三殿何とぞ出雲の陣中までおいで頂き殿を診て頂く事はできないでしょうか?陣中…戦の場にでございますか。
さりながら道中は我らがお守りしますゆえ決してご心配されるような事はありませぬ。
何とぞ何とぞ!こうして道三は出雲へ旅立ちます。
しかしその心中は複雑でした。
心の声病の者を捨ててはおけぬ。
されど戦を仕掛ける元就様を助ければ逆に多くの命を奪う事になるのでは…。
元就の本陣があったのは宍道湖の近く満願寺の辺りでした。
はいどうぞご覧下さい。
こちらが毛利元就公お手植えの玉椿でございます。
450年たった今でも春先には赤い花を咲かせています。
やがて道三は元就のもとに着きました。
では道三殿早速大殿の御容体を。
いかがなされた?道三殿!まあ控えい。
道三殿血にまみれたわしの命は救えぬか?躊躇する道三の心を見透かしたように元就は言います。
じゃがこのまま死ぬるは罪深い。
わしが死ねばもっと多くの血が流れよう。
生き長らえて戦をなくしたいものじゃ。
心の声元就様の戦は戦を欲しての事ではないのか…。
(せきこみ)大殿まずはお脈を…。
元就の病は今で言う脳卒中による半身まひ。
当時70歳の高齢だった事を考えると命も危ぶまれる容体でした。
この時道三が行った治療の一つがお灸です。
体のツボにのせ症状の改善を図ります。
元就が据えられたと考えられるのは肘の曲池や頭のてっぺんにある百会など全部で6か所。
これらのツボにお灸のもぐさを完全に燃やしきるまで据える治療を毎日行いこれを数か月間続けました。
あぁ…軽うなった…。
道三の治療によって元就の病状は次第に良くなり体を動かせるまでになりました。
曲直瀬道三という人は…そのツボの組み合わせあるいはやり方というのは…危機を脱した元就は尼子氏の本城…そしてこの年の11月ついに尼子氏を降伏させました。
この時元就は意外な行動をとっています。
これは道三の進言によるものだと考えられています。
滅亡の際の…心の声たとえこの乱れきった世でも医者の私にできる事が何かあるやもしれぬ。
その後道三は都に戻り…医者として戦のない世を目指す道三の挑戦が始まりました。
戦国の医師曲直瀬道三の功績は治療だけではありません。
病気の原因を研究したり医学の本を書いたり。
広島県三原市に道三が68歳の時に書いた医学の専門書が保存されています。
こちらが曲直瀬道三の「啓迪集」です。
「啓迪」とは教え導くという意味。
病を体の場所や症状などによって74に分類。
年齢や性別に応じた診断や治療法を記しています。
これは女性の「悪血心痛」。
今で言う生理不順の時に処方する生薬に関する記述。
子供の病気には「築賓」というツボにお灸をするとよいなどとも書かれています。
道三は自宅に医術を教える学校を開きこの本を使って講義を行いました。
心の声一人でやれる事には限りがある。
この乱世に多くの命を救うにはわしの学んだ事を皆が受け継ぎそれを生かしてもらうしかない。
たくさんの人が道三の門をたたき…中でも道三が目をかけていたのが全宗という僧侶。
しかし織田信長の焼き討ちで全てを失い医者として再出発しようと弟子入りしたのです。
既に薬に関する基礎知識は身につけていた全宗でしたが少しでも新しい医術を学ぼうと人一倍熱心に道三の診療を手伝います。
道三は優秀で努力家でもある全宗をどこへ行くにも連れていきました。
(道三)お召しによりまかり越しました。
これなるは我が弟子全宗にございます。
…であるか。
信長をはじめ都にやって来た大名のもとへも2人で通い診察を行いました。
ところが信長が亡くなり後継者として秀吉が台頭してくると道三と全宗の関係に変化が現れます。
お師匠様。
私は羽柴様に呼ばれておりますゆえこれにて。
最近よう羽柴様のもとへ参っておるようじゃの。
はい。
羽柴様は信長公亡きあと天下でもぬきんでた器量のお方。
私も是非羽柴様のお役に立ちたいと思うております。
役に立ちたい?我々医者がもっと国の政に関わればより早く理想とする医術が確立できるのではないでしょうか?全宗我らは病を防ぎ治す事にのみ力を尽くせばそれでよい。
積極的に政治に関わろうとする全宗とあくまで医者としての本分を守ろうとする道三。
では…。
2人はいつしか違う道を歩み始めていました。
積極的に秀吉に近づいた全宗はすっかり気に入られ間もなく…そして秀吉の許しを得て帝のいる御所の近くに「施薬院」という病人の治療を無償で行う施設を開きます。
早朝から夕方までその場で診察するだけでなく重病人には往診もしました。
心の声これも天下人たる秀吉様の後ろ盾あってこそよ。
力がなければ誰も救えぬ。
一方道三にもまた転機が訪れます。
78歳になった道三のもとに1人の外国人宣教師が治療を受けにやって来ました。
では拝見いたしましょう。
宣教師の名はフィゲイレド。
当時結石を患っていたと考えられています。
(道三)それではこの薬をおのみなされ。
道三殿に診てもらってよかった。
道三はその後もフィゲイレドを親身になって治療しました。
(フィゲイレド)道三殿とても良くなりました。
お礼にこれを…。
さようなお気遣いは…。
(フィゲイレド)いえ。
私はあなたのような方をこそ探していたのです。
フィゲイレドは当時九州で布教活動を行っていました。
そこには病気や貧困で苦しむ人々を治療し保護する施設があり…同じ施設を都でも始めようと協力者を探していたと言われます。
キリシタンになれと申されるか?80にもなろうというこの私に。
この後…心の声彼らが説く慈悲の心こそ世の人々が皆安らかに暮らすため最も大事なものではないのか…。
道三はキリスト教に入信します。
そして信者たちと協力し合い貧しい人々を治療する新たな施設の建設を進めました。
ところが思いがけない出来事が起こります。
天正15年キリシタンの勢力拡大に危機感を抱いた…全宗おみゃあに任せるだよ。
ははっ。
師の道三の事を思うと全宗の心は複雑でした。
こちらが「バテレン追放令」の文面。
宣教師の布教禁止とその追放などが命じられています。
しかしそこには一般の信者の信仰を禁じるとは書かれませんでした。
そんなある日の事…。
ご無沙汰にござりますお師匠様。
全宗達者であったか?はい。
ご覧のとおりにて。
そうか。
それはよかった。
よかった?なぜ怒らぬのです。
バテレンは追放されせっかく建てられた教会は破却されたのですぞ。
バテレンの方々も命さえ長らえればいずれ都に戻れよう。
教会もその時また建てればよい。
キリシタンは戦を好まぬ。
全宗歩む道をたがえどもお主は大切な弟子よ。
それを忘れるな。
お師匠様らしゅうございますな…。
ではこれにて。
心の声さてただの医者であるわしはこの後何をしたらよいかのう?翌年82歳になった道三が取り組んだのは都の人々の間で盛んに行われていた俳諧でした。
「朝一番にくんだ井戸水はよく澄んで清潔だ。
飲み続ければ体が健やかになる」という意味。
…と考えたのです。
道三は心や体が丈夫になる秘けつを歌った俳諧を120首作り「養生誹諧」という本にまとめました。
「年を取ったら筋力維持のためできるだけ体を動かす事。
でも心は休ませてストレスをためないように」。
現代にも通じる健康の秘けつです。
心の声「養生誹諧」とはよき事を考えられたものよ。
しかし中には全宗がドキッとするような俳諧も。
「古代中国の昔から国が滅びるのは君主が善政をしかなかったためだ。
自業自得とならぬよう常に自らの行いを顧みるべきである」。
これは天下人となった秀吉やそれに仕える全宗に対する道三からの最後のアドバイスだったのかもしれません。
ハッハッハッ。
全宗何笑うとるがや?いえある頑固者の事を思い出しておりました。
どこまでも医者でおられるわい。
今宵の「歴史秘話ヒストリア」。
最後は…そんなお話でお別れです。
道三の医学はその後弟子たちによって受け継がれていきました。
これは江戸時代に作られたツボの位置を表した人形です。
全身にあるおよそ360か所のツボが一目で分かります。
元となったのは道三の研究です。
そして現代でもツボに注目した治療が行われています。
子供の病気の予防によく使われる「ちりけ」というツボ。
この位置を特定したのも道三です。
どんな感じかな?分かるかな?終わり!気持ちいい。
気持ちいい?よかったなあ。
それこそ1歳とかそんなから母親に連れてきてもらってたんじゃないですかね。
自分の子供もずっと赤ちゃんの時からここ連れてきてるんでそういう意味じゃ。
道三の医学は時代を超え世代を超えて今も人々の健康を支えているのです。
もうそこだけしただけでも7割8割ぐらい良くなりますね。
そこにちゃんと反応が出てる場合にはね。
道三様々です。
400年前の戦乱の世。
医学に革新をもたらし人々に生きる力を与えた曲直瀬道三。
権力者と関わりながらも医者として庶民に寄り添い続けたその生き方は残した医学と共にこれからも語り継がれてゆく事でしょう。
2016/01/13(水) 22:00〜22:45
NHK総合1・神戸
歴史秘話ヒストリア▽戦のない世を目指して〜戦国スーパードクター 曲直瀬道三〜[解][字]

戦国時代、毛利元就や織田信長から絶大な信頼を得たスーパードクターがいた。曲直瀬道三(まなせどうさん)だ。戦の世の中で人を救うことに生涯をかけた男の物語。

詳細情報
番組内容
戦国時代、医学に革命を起こし、人の命を救うことに生涯をかけた医者がいた。曲直瀬道三(まなせどうさん)だ。薬を中国の本の通りに処方する医者がほとんどだった中、道三は、一人一人に合ったオーダーメードの治療をし、戦国大名・毛利元就や織田信長からも絶大な信頼を得た。武士の家に生まれた道三が、なぜ医学の道を志したのか?戦国の世に、医学を旗印に人々の幸せを追求した道三、その感動の生涯をたどる。
出演者
【キャスター】渡邊あゆみ

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
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