皆様の人生の羅針盤でありたい「知恵泉」。
今宵の行き先は「大きな夢」でございます。
井森さんは子供の頃何か夢をお持ちでした?私ねあのプロレスラーになりたかったんですよ。
えっ?女子プロレスが大好きでその当時プロレスがゴールデンでたくさんやってた時代だったんですよ小学生の時。
盛り上がってた時期ありましたね。
そうなんですよ。
何になりたかったんですか?電車の運転士。
そうなんですか!?特に夜行列車。
ブルートレインの運転士になりたかったんですけれども何かねいろいろ違ってきて…。
はいこんばんは!あっこんばんは!はいこんばんは。
ちょっと萩本欽一さん。
えっ!?こんばんは。
はい。
おじゃましますよ。
あら井森さんお久しぶりで。
どうもお久しぶりでございます。
うわビックリした!電車の話面白そうだったんで。
あっ聞こえちゃいました?外までですか?ええ。
もううるさいったらありゃしない。
失礼しました。
お二人そろったところで今日突き出しがあるんですよ。
用意しておりました。
こちらです。
このね喜びで…。
えっ?居酒屋の突き出しでかき氷でございます。
ただ季節的にまだちょっと早いですよね。
ちょっと召し上がって下さい。
いただきます。
女の子の食べる姿ってきれいね。
ほら。
かわいらしい。
お〜!おいしい!おいしいでしょう?今日は氷だけじゃないんですよ。
突き出しにペンギン。
えっ?ないね。
突き出しに氷とペンギン。
そう。
氷とペンギンといえば?いいですか?じゃあ欽ちゃん一緒にせ〜の。
そうです!今日は南極なんです。
日本で最初に南極に行こうという大きな夢に挑戦した人物の知恵を今日はたっぷりと味わって頂くんです。
地上で観測された最低気温です。
場所は南極。
その過酷な地に今から100年以上も前足跡を残した日本人たちがいました。
日章旗を持つのは白瀬矗。
「人類で最初に南極点に到達したい」。
それを夢みた人物です。
白瀬が探検を志したのは少年の日。
しかし実現までには多くの壁が立ちはだかりました。
いくら待っても探検の機会が訪れず焦りを募らせる青春の日々。
ようやく実現した訓練でひん死の経験。
めどが立たない南極への渡航費用。
そして行く手を阻む自然の猛威。
次々と襲いかかる困難を乗り越え南極の地に立った時白瀬はなんと50歳になっていました。
普通の人なら諦めてしまう長く険しい道のり。
なぜ白瀬はいちずに夢に向かって進む事ができたのでしょうか。
今宵白瀬のパワーの秘密を読み解くのはこの人欽ちゃんです。
舞台狭しと跳び回る新しいコメディーをひっ提げて大ヒット番組を連発。
ヤッホー!ヤッホー!遅いっちゅうの。
欽ちゃんがコメディアンを夢みたのは家が貧しかった高校時代でした。
鳴かず飛ばずの下積み時代を耐え抜いて日本のお笑い界に新たな世界をひらいたのが30前。
それから芸能界のトップを走り続けますがその立場に安住する事なく常に新たな夢を追い求めてきました。
73歳となった今年学問に再挑戦。
夢を追い続け一つ一つ実現してきた欽ちゃんが希代の探検家白瀬矗の知恵を読み解きます。
さあ今日はですねテーマ。
このようなテーマを用意しております。
こちらです。
「夢へ向かって進む秘訣」を探っていきたいと思うんですけれども欽ちゃんは子供の頃どんな夢をお持ちだったんですか?夢?現実に…それで「あ〜」。
時代劇よく見てたもんで…「あれ〜主役駄目だ」って。
じゃあ一応顔の感じでいうとこっちじゃないなって思ったという事ですか?そうそう。
二郎さんにだから言ったの。
「歌手になる時鏡見たか?」って言ったら「俺ね10年後に見たんだ」って。
歌手を諦めてコメディアンになったの。
ですからこれは夢っていうんですかねえ。
白瀬矗は極地に行きたいという大きな夢いかにして抱くようになったのか。
まずそこをですねひもといていこうと思います。
秋田県南部。
日本海に面した小さな港町金浦。
白瀬は幕末の文久元年この町の寺の跡取りとして生まれました。
近所の蘭学者の寺子屋で白瀬は将来を決定づける事実と出会います。
これを聞いて白瀬が…「まだ誰も足を踏み入れた事のない場所に最初に立ちたい」。
白瀬少年の胸に生涯追い続ける「夢」が芽生えたのは11歳のこの時です。
探検をするなら東京で準備が必要と18歳でふるさとを離れ上京。
仏教の学校に入ったものの僧侶では探検はできないと程なく陸軍の軍人となりました。
「北極」という夢の実現へ着々と地固めを行いますが探検の機会は全く訪れませんでした。
そんな悶々とした白瀬の心情を理解してくれる人がいました。
後に日露戦争二百三高地の戦いで名を挙げる…白瀬は夢を熱く児玉に語ります。
児玉は北極の前にそれに近い環境を探検し体を鍛えるよう白瀬に助言します。
「ならばまず北の千島を探検したい」。
白瀬はロシアに対する国防上の観点から探検の必要性を訴えその機会を粘り強く待ちました。
千島での訓練が実現に向け動きだしたのは32歳の時。
海軍の軍人だった郡司成忠が千島の警備と開発を計画している事を知りそれに参加する事にしたのです。
一行は50人。
島ごとに分かれて移住しました。
荒れ地を開拓し掘っ立て小屋をつくって生活しながら地勢や気象調査外国密漁船の監視などに当たります。
白瀬は郡司ら7人と最北端のシュムシュ島に上陸しました。
しかしこの訓練は悲惨な結果を招く事になります。
氷点下の厳しい寒さと秒速30mの強風新鮮な野菜不足による壊血病のため同行者は次々と死亡。
しかもリーダーの郡司は日清戦争に備えひと冬で帰国します。
白瀬は郡司が食料補給の手はずをしてくれると考えていましたがそれがうまくいかなかった事もあり2人の間には深い溝が生まれました。
2年目の冬は自然の厳しさに飢えが加わり壮絶なものとなります。
目の前で苦しむ衰弱した友人。
「最後に一口ふるさとの餅を食べたい」と言いながら冷たくなってゆく友の手を握りしめ白瀬は何もしてやる事ができませんでした。
自らも壊血病にかかりながらアザラシや犬の肉を食べて何とか生き延びた白瀬。
島にいた6人の隊員のうち生還できたのは3人だけでした。
明治28年の事です。
う〜ん。
今後私の話聞かないで下さい。
いやいや何をおっしゃいますか。
私命張ってないもんね。
すごいね〜。
でも周りの方が亡くなったら申し訳なくてやめない?うん。
行く方がいいのかなあ。
その人たちのために行こうとすればいいのか…。
ちょっとはざまで揺れ動きますよね。
こんばんは。
おばんですどうも。
西木先生いいところにいらっしゃった。
秋田弁で「こんばんは」「おばんです」って言いながら入っちゃいましたけど。
白瀬と同じ秋田のご出身で。
こちらへどうぞ。
間違えた。
そっち…。
こちらにお席用意してありますので。
直木賞作家の西木正明先生です。
よろしくお願いします。
今ね探検の話をしていたんですけれども明治の日本人にとって北極や南極といった極地って一体どういうイメージだったんでしょうか?いやイメージなんかなかったと思いますよ。
イメージがない?ええ。
大体そういう場所がね存在するっていう知識がほとんど一般の方にはなかったと思います。
当時秋田っていうのはそういう情報が入ってくる場所だったんですか?北前船って皆さんご存じと思いますけども…一方でロシアからね北海道の松前経由でいろんな情報が入ってたんですよ。
へえ〜。
また白瀬は秋田人ですからね秋田人っていうのは新しものがり屋なんです。
あっそうなんですか。
割とじゃあ県民性みたいな感じがあるんですか?あります。
我々「本地無し」って言いますね。
本地無し?はっきり言って乱暴なとか無鉄砲な人間の事を「本地無し」って言います。
へえ〜。
思い切りがいいって言ったらちょっとね。
よく言えばね。
その夢を持った白瀬に寺子屋の師匠が実はこんなものを与えたんです。
題して「五つの戒め」。
ザザン!これ分かんない。
だって「茶を飲むべからず」。
何じゃいな?その心は?多分ですねこれがちょっと落っこってる言葉がありまして「熱いお茶を」という意味だと思います。
あ〜。
耐寒訓練を既に志していた時期なんでね。
なるほど。
という事は「あんまりあったかいものとかあったかいところでは生活しちゃ駄目だよ」という事?そういうふうに自分に言い聞かせてたんだと思いますね。
ちょっと待って下さい。
このぐらいの事を…だって先生がですよ。
白瀬君に言ったとしたら…ほれてないとこんな厳しい事言わないもん。
なるほど。
先生ね…だって僕11歳でこれ言ったら逃げたくなんない?なりますよね。
なるね〜。
そう言いたいね〜。
ね〜。
羨ましいな。
先生にこれだけの事をしろって言われる。
先生のすごい愛情があるって事ですよね。
白瀬は訓練でいきなり厳しい現実にぶち当たるわけじゃないですか。
欽ちゃんは…。
厳しい現実。
僕なんかだって一番最初にね…だから笑わない人が来てるわけ。
その時に「あれ大変だな〜」と思ったら先輩が「いい勉強になるだろう。
あの人たちは笑いに来てないよ。
この人たちが笑うっていうのはだからいい勉強だろう」。
「笑わねえぞ」っていうのをスタートからさ。
ハードルが高いわけですもんね。
笑わせる事に対して。
白瀬もその千島の探検でその失敗っていうつらい現実を知ったわけですね。
時は流れてあっという間に48歳になります。
そこに衝撃的なニュースが飛び込んでくるんです。
白瀬は新聞で驚くべき記事を目にします。
アメリカの探検家ピアリーが北極点一番乗りを果たしたというのです。
11歳の時から37年間夢みてきたものが打ち砕かれた白瀬。
さあどうする!?白瀬は夢を失いうちひしがれているだけではありませんでした。
思い切った発想の転換を図ります。
なんと目的地を正反対の南極に切り替えるのです。
…であれば北極は駄目でも南極なら夢の実現が可能であると考えたのです。
しかしその直後に白瀬を更に追い詰める情報が入ってきます。
イギリスのスコット大佐が満を持して南極点到達に乗り出すというのです。
今こそ列強各国に日本の底力を見せつける時だ。
白瀬は南極探検にかかる費用10万円を国に請願します。
今の金額にして5億円に及ぶ莫大な額。
しかし政府はこれを全く支給しませんでした。
国が費用を出してくれない。
白瀬の夢はここでついえるのか。
考えた白瀬。
自分を支えてくれる人物がいないか模索します。
そして状況打開の望みを託したのが出版社の社長村上濁浪でした。
白瀬は村上の雑誌「探検世界」に千島以来何度か文章を寄せていました。
出版社と執筆者というだけのつながりでしたが白瀬は村上の協力を取り付けます。
それはスポンサーとしての出資ではなくジャーナリストとしての人脈や発想でした。
早速村上は民間の費用での渡航を提案。
新聞社に頼み人類初の南極点到達を目指し国威発揚を志す人物がいる事を大々的に記事にしてもらいました。
これがきっかけとなり2か月後にはいわば決起集会が開催されるまでに至りました。
会場は大にぎわい。
その日のうちに元首相の大隈重信を会長とする後援会が発足。
たちまち5万円近い資金が集まります。
ところが予定していた8月になっても出航できません。
南極に渡る船がなかったのです。
当てにしていた海軍軍艦「磐城」の買い取り折衝が不調。
遠洋航海に向けた修理費も10万円に上る事が明らかになりました。
一方スコットは2か月前にもうイギリスをたったという情報を聞き白瀬は焦ります。
そして意外な人物を訪ねました。
なんと共に千島に行きその後たもとを分かっていた郡司成忠でした。
郡司は開拓事業を行っていたため船を所有していたのです。
白瀬は村上濁浪を伴い郡司に頭を下げました。
郡司は一度は拒絶しますが再度の村上の説得や大隈の尽力によりついに船を売る事を承諾します。
白瀬が2万5,000円で郡司から購入した…木造エンジンのない帆船で大きさは磐城の1/3以下しかありませんでした。
この船が物議を醸します。
あまりの小ささに後援の新聞社が「こんな船では南極に行けない」と支援を取りやめてしまうのです。
しかしこんな事でへこたれる白瀬ではありません。
「小さな船の方が流氷の海で小回りが利く」と考えるようにしました。
急ごしらえで補助蒸気機関を取り付け流氷対策の鉄板補強を施し出航に向けた準備を急ぎます。
支えてくれる人の輪を広げてきた白瀬。
ついに出発の時を迎えました。
日本初の南極行きを見届けようと5万ともいう群衆が見送りに集まりました。
その中には後援会長の大隈重信や村上濁浪の姿もありました。
「開南丸」と新たに名付けられた船は27人の隊員を乗せ東京・芝浦から出発。
明治43年11月28日白瀬49歳の時でした。
はぁ〜。
う〜ん…。
という事で出航するんです。
当時はほんとに「人生僅か50年」と言われた時代ですからね。
行っただけでも偉いし。
だって最初は北極に行こうと思っててそれを断念して南極に切り替えたんですよね夢を。
今日はですね白瀬が乗った船のの模型を店内に用意しましたのでちょっと皆さんで…。
いろいろと改造してある部分があるんですよね西木先生。
やっぱり木造だと氷の中突っ切っていく時大変ですから鉄で補強したり風がなくても進むようにしたり。
付いてますねスクリュー。
まあはっきり言ってね非常に貧弱なエンジンです。
でライバルたちはどんな船で向かったかっていう…。
イギリスのスコットが南極に向かった船の…ちょっとこちら模型ではなくてサイズを比較して頂きたいんですが大体…比べるとこれぐらいになりますから。
あ〜これは…。
これはもう…まあ確かにね排水トンで言えば約3倍1/3ぐらい違いますからね。
深さも違いますから。
あっこの厚みですか?そうなんです。
厚みが違うのでこっちは犬ぞり用の犬しか乗せられなかったのがこっちは先生馬ですとか雪上車も乗っていたらしいですね。
そうか〜!やっぱり当時のイギリスはね当時世界一の覇権国家で今のアメリカの10倍ぐらいの力持ってたんです。
あっちは国家的戦略として。
まだそこに日本はなかったという。
ないですね。
一銭も出してくれなかったんですか?国は。
時期的にね日露戦争で日本は勝ったけれどもものすごく国力を消耗してるんですね。
お金なんかありませんから。
まあこの程度と思うしかなかったんじゃないですかね。
知恵の話に戻しますとですね誰か支えてくれる方が現れるってのは白瀬も一緒ですよね。
…と言われたもん。
で僕がしょんぼりしてたら先輩の…もう私の師匠にあたる人なんだけど「お前何だしょんぼりして」というんで演出家の先生のとこへ行って1分ぐらいして帰ってきて「やってろ。
今先生に言ってきたから」って言われたの。
そしたら演出家の先生が上がってきて「ちょっと欽坊こっち来い」。
「…って今言いに来たよ」。
へぇ〜。
「あのなお前なこの仕事っていうのは誰かに応援してもらうっていう仕事だよ。
お前のような下手くそに一人守ろうとする応援してる人がいる。
お前ひょっとしたらコメディアンでいいかもしれない。
やめるな」って言われて。
へぇ〜!僕ね…一番最初コメディアンになった時僕の夢は浅草の劇場から日劇に出るっていうのがさ最終目的だったの。
よく考えたら誰も応援してくんないな。
誰に話しても「ああそう。
ああそう」って言うんだよね。
ですから今度はもう…テレビをつくる?そう。
ですからなるべく大きな夢ね叫んでるの。
私がその夢に向かってんじゃないの。
…だと思います。
先生も早稲田の探検部時代に…。
探検部時代はアジアと北アメリカの間にベーリング海峡っていう幅100キロの海峡がありますけれどもそこ冬になると凍ります。
そこを歩いて渡ろうという計画を立てて。
いくつの時ですか?大学の2年の時ですね。
少なくともアメリカ側だけは入れたんです。
入らせてくれたのがケネディ大統領の弟のロバート・ケネディという人です。
ロバート・ケネディが大学に来て講演したんですよ。
「それっ」というんでね全くアポなしで彼のところへ押しかけまして。
「こういう事やりたいんですけど何とかして下さい」と言ったら「分かった」って。
それで外国人立ち入り禁止の…少なくともアメリカだけは行けたんです。
その目が輝いてたとか何かあったんでしょうね。
そうじゃないと駄目でしょう。
そうですよねきっと。
さあですね白瀬はですね次の目標を定めましていよいよ南極に向かう事になりました。
ただ夢ってやっぱりそううまくはいかないんです。
白瀬の南極での苦闘更にはその後について今度はじっくりと見て頂きます。
何とか出航にこぎ着けた白瀬ですが今度は厳しい自然が立ちはだかります。
小さな船を南氷洋まで走らせましたがあと1,000キロで上陸というところで流氷に囲まれてしまったのです。
「ライバルのスコットは上陸して越冬の準備をしているはず」。
白瀬は進みたいと焦りますがこのままでは氷に閉じ込められ動けなくなってしまいます。
結局南極を目前にしてオーストラリアまで引き返さざるをえませんでした。
夏を待つ事にしたのです。
シドニーに着いた白瀬は渡航が延びた事による費用の追加を後援会長の大隈重信に求めました。
大隈は費用は出すものの目的を変えてはどうかと提案してきました。
「無謀な南極点一番乗りに固執するのは諦めよ」というのです。
「スコットに加えてノルウェーのアムンゼンまでもが南極に達し越冬している。
今更追いかけても無理だ。
目的を南極周辺の学術的調査に切り替えよ」。
しかし白瀬は納得できませんでした。
釈然としない心境を抱えたまま明治44年11月南半球の春が来て白瀬たちは再び南極に向かいます。
ついに白瀬一行は南極の鯨湾に到達。
南極での一歩を記しました。
上陸地点で意外な先客に出会います。
留守部隊によるとアムンゼンはとうに南極点に向けて出発はしたがまだ戻ってきていないとの事。
「望みはあるかもしれない」。
白瀬は精鋭5人を選抜しそり2台の「突進隊」を結成。
調査部隊を残して南極点を目指しました。
ところが出発してすぐ白瀬たちは危機に直面します。
猛吹雪で視界がきかず…テントや食料など装備が分かれてしまいこのままだと両方とも遭難のおそれが…。
その時後ろを行くそりが前のそりを引く犬の凍傷の僅かな血の跡を発見。
それをたどり奇跡的に再会にこぎ着けました。
しかし突撃9日目の1月28日ついに体力も食料も限界に達しました。
白瀬はこの地を最終地点とする決断をします。
氷に日章旗を立て周囲を「大和雪原」と命名。
南極点を前にした撤退。
苦渋の決断でした。
一方開南丸に残った隊員たちは沿岸に沿って移動しながら南極の地質気象調査や海洋生物採集といった貴重な学術調査を行いました。
日本を出航してから1年7か月近く後の…白瀬一行は全員無事に帰国。
5万の国民が喜び迎えその快挙をたたえました。
この時の心境を後年白瀬はこう語っています。
帰国時の熱狂はすぐに冷めました。
白瀬は渡航で発生した膨大な借金返済に追われる事になります。
自宅も借金のかたとして売却し家族で国内を転々としました。
白瀬は僅かな収入を得るべく南極のフィルムを持って各地を講演して回ります。
こうした地道な活動が南極への夢をつなげていく事になります。
昭和10年ごろには借金をほぼ完済。
しかしその後も困窮した生活が続き昭和21年9月愛知県の今の豊田市で家族以外の誰にもみとられる事なくこの世を去ります。
ふるさと金浦に建つ辞世の歌碑。
南極の大地に残した「夢」を自分の死後後世の人がかなえる事を願ったのです。
戦後の昭和30年国際地球観測年にあたり日本は南極観測の参加を申し出ました。
しかし会議では「敗戦国日本にその資格はない」として認めない声が圧倒的でした。
南極越冬隊参加の経験を持つ井上正鉄さん。
近代化間もない明治に南極を探検した白瀬の存在が会議の形勢を逆転させたといいます。
他の国ないんですよなかったんです。
という事で私は……だというふうに思っております。
こうして認められた日本の南極観測。
そして昭和43年第9次越冬隊がついに日本人として初めて南極点到達を果たしました。
白瀬の南極探検から56年。
「夢」はようやく次の世代の人々の手でかなえられたのです。
そして今南極に向かうのは「しらせ」。
越冬隊員を乗せ今年も1万4,000キロ離れた南極に旅立ちます。
はぁ〜。
僕はね…「見果てぬ夢」。
ええ。
だから白瀬がやった事は結局見果てぬ夢をきっちり残してそれを次の世代がね追いかけて見果てぬ夢が実現するというような流れにもなりますので。
彼が残した遺産っていうのはとてつもなく大きいと思いますね。
あの外国のお二方っていうのは到達したんですかね?2人とも到達してますね。
南極点ちゃんと。
ただイギリス大英帝国が頑張ったスコットではなくてノルウェーのアムンゼンが先に着いてますね。
そうなんですか。
スコットは非常にかわいそうで一番乗りは負けてしまうわ帰りにはねもう力尽きて全員が亡くなるという非常に悲劇的な状態で終わってます。
だからそういう同じような時期にちっちゃな国島国だった日本の…はぁ〜!最後にあの言葉ね真面目な人なんだなと思ったの。
「申し訳ございません」みたいな事言ってたでしょう。
誰一人成功してないと思ってないですよ。
失敗に5万人来る?来ないよね。
さあ今日はですねテーマ改めて「夢へ向かって進む秘訣」というテーマでですねお伝えしてまいりましたけれども。
欽ちゃん。
なるよね?なります。
ですから学校行っていい生徒やってきます。
(笑い)すばらしい!鳥海山を仰ぐ白瀬矗のふるさと…生前の白瀬を知る人がいます。
12歳だった齋藤さんの家に疎開中の白瀬が訪ねてきました。
それは昭和20年寒いさなかの1月の事でした。
父がそこに座りまして「どうぞ」ってこたつを勧めたようですけども…「探検家を志すなら火にあたるな」。
子供の頃寺子屋の先生から与えられた教えです。
毎年1月28日白瀬の功績をしのんで行われる「雪中行進」。
大和雪原で引き返したその日にちなんだ真冬の恒例行事です。
多くの困難に打ち勝ち明治の日本人に勇気と希望と夢を与えた探検家白瀬矗。
その精神は103年後の今も引き継がれています。
2016/01/12(火) 12:00〜12:45
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉 夢に向かって進む秘訣(けつ)「白瀬矗(のぶ)」[解][字][再]
日本人として初めて南極の地に立った白瀬矗(のぶ)。11歳で抱いた極地探検の夢を実現した時、彼は50歳になっていた。挫折に負けず夢に向かって進む白瀬の知恵を学ぶ。
詳細情報
番組内容
日本人として初めて南極の地に立った白瀬矗(のぶ)。彼が極地探検の夢に目覚めたのは11歳だが、それが実現したのは50歳のときだった。そこに至るまでは苦難の連続。訓練として挑んだ千島探険でのひん死の体験、一番乗りを目指す他国のライバルたちとの競争、渡航費用の絶望的な不足…。なぜ白瀬は幼いころの夢をあきらめることなく、ひたすらに夢に向かって歩み続けることができたのか?夢の実現に向かって進む知恵を学ぶ。
出演者
【出演】萩本欽一,作家、直木賞…西木正明,井森美幸,【司会】近田雄一
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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