徹子の部屋 近藤正臣 2016.01.12


「十二薬師如来」が里帰りすると言い伝えられ、その目印として張子の飾りつけが慣わしとなりました。
今年は人気キャラクターのほか、干支の猿も登場した「ジャンボ張子」。
2月の上旬まで楽しむことができます。
(黒柳)こちらは1978年36歳で『徹子の部屋』に出てくださった時の今日のゲストです。
こんなイケメンなもんですからもう女性たちに大人気。
その大人気の方も今は73歳におなりだそうですね。
73歳ですね。
そうそうそうそう。
でも今日は意外な交友関係だったという桂米朝さんとかその他色んなお話伺います。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
近藤正臣さんです。
どうも。
(拍手)いや…あれですよねさっきの写真拝見すると本当にハンサムね。
びっくりしちゃう。
ねえ…。
まあでもこのぐらいに変わるのはもうしょうがないですね。
でもちょっと女の子ぐらい可愛いねこれ。
宝塚の女の子みたいじゃない?えっ?宝塚?みたいで可愛いじゃないものすごく。
ね。
えーこれ…。
いやいや…。
何だろう…はい。
でもいいんです。
でもこの頃…。
あっ…それからこれよ。
可愛いでしょう。
ジャニーズ。
ジャニーズなんですか?これ。
ジャニーズみたいじゃない。
そういやちょっとなんか昔スピッツとかっていう犬がはやった時代ありましたね。
あんな感じもしますかね?本当に可愛いと思います。
ハンサムだと思いますよ。
だから大変な人気だったんだけど。
ただ私感心するのは…当たり前かもしれないけどこの頃もうおじいさんの役なんかどんどんやってらっしゃるじゃない?はい。
当然ですはい。
それが私偉いなと思って。
偉い?だって…えっ?ちょっと若作りしてもうちょっと若い役やろうとかっていうことがない?全然思わないですもう。
そう?もっともね今…ちょっとさおじいさん役ぐらいの歳の方が随分亡くなっちゃってねおやりになる方が少ないっていうせいもあります?先輩方がもう…何だかもうタタタタタターっと走っていってしまいましたから…。
そうですそうです。
本当に…寂しいっていうのはつまり懐かしくて寂しいだけじゃなくてこの先輩方がいてくれたから俺がここにいて…平気でいられたっていうポジションってあるじゃないですか?ありますあります。
ああいうものが全部…なんか裸にされていくような感じがしますよ。
なるほどね。
うん。
まあそんなわけで今日は近藤正臣さんに色々なお話を伺わせていただいて…。
よろしくどうぞ。
あなたの今お住まいの郡上八幡に「伺いたい伺いたい」と言いながらも…。
いやいや私もね来ていただきたいと思って…。
前に来た…もう2〜3年前になりますがお誘いして電話まで教えていただいて向こうへ行ってさあ向こうにいるんだから電話をしようと思った時にふと考えたのがですね一体どんな格好で…なりで郡上へ来られるんだろう…。
それはそうですよね。
本当にねそれを考えるとちょっと怖いなっていう…。
ごめんなさい…ごめんなさい。
いいんです。
でもそれはわかります。
それがあってちょっと怖気づいちゃったんです私のほうが。
どうもね私も行きたいと思ってたんだけどあまりお誘いもないしね…。
申し訳なかったです。
いえいいです。
本当に申し訳なかったです。
もうちょっと経ってもうちょっとおばあさんになったら…。
もうおばあさんのまんまで平気で行かれるようになったら行く。
そうですよねそうですよね。
あなたのお母様が…。
はいはい。
あなたのお母様はお料理屋さんをやっていらしたんだけどその前は芸妓さん?芸妓ですね園の。
見て皆さんこの方。
奇麗ですよね。
どっちかっていうと私母親に似てますねきっとね。
そう。
奇麗なお母様。
頭っていうものは昔こういう…二百三高地ってこういうことを言うのかな?よくわかんないけど。
結構高い頭ですよね。
これでまだでもたぶん17〜18…16〜17ぐらいの歳だったと思うんですがね。
すごいですよねでもね。
へえー。
きっぷは男ですね。
そう?きっぷは男でいて…。
すごい。
体が女なのかしら。
何なんだろう?つまり男好きな男っぽい女。
そういうの一番いいのよね。
そういう感じでしたよ。
そりゃいいじゃないの。
男好きする…でいながらさウニョウニョしてないでさパチッてしてるところが。
パチッとしてるんだけれども結構惚れ込むとグオッと溺れていくっていうタイプでしたね。
見てたの?あなた。
見てましたよ。
だって小さい頃から…。
そもそも私がそういうふうにして生まれた子ですから。
そうなの?はいはいはい。
ですからまあそんなものは生まれてきた私がどうこう言えるものじゃありませんけれども…悔い改めるなんてことはまるでなかったみたいで。
逆にそういうところが私…。
子供からちょっと中学高校ぐらいになった時に何だかやたら何だか男の人の近いのがうろうろするなと思って嫌だなと思おうとしたらいやこれは母ちゃんええ女やさかいにやと思ったらそこからなんかずっと私母のことをいい女だ…。
母ちゃんいい女だって?いい女だと。
お母様っていう方は面白い方だったんですってねでもね。
面白いっちゃ面白いですね。
何度あれ…結局色んな男さんに惚れて…。
で惚れた。
いやー好きやねん。
ちょっとしばらくあの人のそばいようかみたいなんやとかそういうのでもってこうなったりこうなったりしながら結局やっぱり年を取っていくわけじゃないですか。
でとうとう私がこっちへ来て役者になってしばらくした頃に「もう店やめるさかいな正臣」「ええか?よう聞いてや」。
これ電話ですよ。
「よう聞いてや。
あんたな私の最後の男におなり」…。
うわ!これはすごかったです。
本当にね。
すごかった。
えっ!俺そこへきたんやって。
だからもう何ていうか…。
「比叡山の中腹辺りに隠居する家欲しいねん。
正臣造って」。
フフフ…。
「はい…。
あの…小さいので?」。
「小さい…小さいので」「小さいので?」。
「小さいので構へん。
土地はなもう見てあるねん」「正臣そこにな小さい家造って」って。
「土地はどのくらいあるんですか?」。
「まあ200坪や」。
「えっ?」。
200坪です。
200坪小さいですか?フフフ…。
お母様にとってはね。
はい。
私もそれを半分にせえとかもう言えなくて…。
「わかりました」。
でそれでもう…たんたんっと家造ってっていう…もう最後の男の…。
もう一生懸命ですよ。
でもすごいですよ。
そんないい女っていわれたお母様から「最後の男になって」って言われた時にねおー!おおきた!って。
びっくり!って。
でもそういうのってすごい…。
そういう何ていうかね思いをした男の人って少ないと思いますよやっぱり。
かもしれませんね。
普通の家はそういうのないですもの。
それはそうだわ。
そうよ。
そんな「最後の男におなり」なんて。
それでお母様は亡くなってからのこともこまごまものすごくあれが多かったんですって?どういうわけかしらねあのお母さん。
自分が死ぬことについての話を生前に一生懸命喋ることが好きやったんですね。
そうですか。
なんか好きやったんですね。
それで「正臣な相談があるんやけどな」「わてはお墓はいらんねん」。
「うんうんわかったわかった。
お墓作らへんのや」。
「前からあるお墓があるけどなあれやと私が入れるようなお墓」…。
うちの父のことを言うてます。
無理なんで…入れないそこは。
そうなんですか?うん入れない。
だからまあそんなので「ええからもう灰にしてなそれで北風がなピューッと吹いてる寒い日やないとあかんえ」。
いつ死ぬかわかりませんから…。
でも北風吹いてないといけないの?北風吹いちゃったんですよ。
1月の8日にポコッと亡くなってそれで焼いて…。
なんか琵琶湖の…?もってこいの北風がですね比叡おろしがシャーッと吹いてる時にそれをこう砕いてですね骨を。
それで比叡山の中腹まで行って「琵琶湖の見えるところに向かって放ってや」って…。
ああ琵琶湖見えるところどこ?琵琶湖。
あああれは琵琶湖。
見えてる見えてる。
風が…ふわー。
うわー!行く行く行くやら…。
それで最後の小さなかけらだけをもろうて…。
2つリクエストがありましたからな。
その撒くやつともう1つが…。
「桜好きやねん私」「うん知ってる知ってる」。
「ソメイヨシノはあかんえ」。
そうそうそうそう。
「ああヤマザクラ。
葉が先出て花が咲くやつね。
でそれを?」。
「いやいやそれが咲くでしょ?ほなね風が吹いたらそれがまた流れる…流れるって散る」「散ったらそこにふわーっと水があったらそこへふーって浮かんで…そういうのが好きや」って。
これで私郡上の川のそばに…。
あっそう…。
そうなんです。
それでちゃんとヤマザクラ植えてそれでそこへひとかけらの骨をですね穴掘って入れて石をドンッと1つ置いて「さあ見い」って言ったけれども植えたばかりで5年くらい花なんか咲きゃしなかったんですよ。
最近はでもちゃんと春になると…。
咲くようになった?なみさんの希望どおりに咲いた花がちゃんと吉田川の清らかな…。
すごいですね。
水にふわーっと散っていく…。
でもうれしかった…。
うれしいっていうのはねなんやいざこざとかなんかそういう…物も一切残してませんから財産ないんですね。
最後はもう私が男になりましたからずっとお金を…家を建ててお金を送って。
そしたら向こうで店に来ていた昔からの飲みに来るお客さんやなんかを全部うわっと呼んで宴会をしょっちゅうやってたんですよ。
そうですか。
お店を…小料理屋さんをやってたのねお母様…。
その時になじみになったお客がね「なんやなみさん引退するんかいな」「もう一緒に飲まれへんな」。
「そんなの構へん。
もう比叡山のほうにちょっと来てタクシーでうわーっと来て…登ってきてここや。
な?」「そこのところでうわーっとみんなでもって」って…。
自分三味線弾いて。
夏やなんかターッと開け放って浴衣でもって三味線弾いて周りになんか俺知らないなっていうおじさんがワーワー並んでて。
飲んだりして?そんなことしながら遊んでましたね。
すごい。
うん。
そりゃすごいですね。
だからお金を残さなかった。
だから亡くなった時も本当に奇麗さっぱりなもんですからね。
私兄弟…腹違いの兄弟やなんかも含めて…。
でも大体あなたのお家はほら前にも…清水寺のところのお茶屋さんのところ何軒かはおたくの…。
あれが父のほうの…。
それはお父様のほうの…?そうなんですよ。
これがまたすごいんですよおたくね。
お父さん…父のほうで父のほうの…私からあたるとひいじいさんということになって父のまあ祖父ですね。
それが清水寺の…寺侍のようなことをやってましてね。
で西郷さんと月照さんっていうその当時の清水のね…。
でまあ2人がこっち…色々工作をしていて井伊直弼の安政の大獄っていうやつに…。
すごいですね。
あれにワッと引っ掛かってワッと追っ手が来たのでダーッと2人が逃げちゃって。
うちのひいじいさん一人残されて。
それで色んな人と会ってますからね政治的な動きをずっとしてたんですから。
ですから誰と会ったどんな約束を交わしたっていうふうなことを聞き出すために…。
例えばね西郷はどこ行くって言ってたとか色んなことを?引っ張られちゃってねひと月近く牢屋で拷問を受けて。
たぶん自分でこれはもう我慢ができない。
私がもう絶対喋らんと思うても口が勝手に喋りよるかもしれんと思うたという話を聞いてます。
そこでこれ口が喋ったらあかんさかいにわしは舌を噛み切ろうと思うて噛んだけど死にきれんで牢屋の格子に頭をガツンッとぶつけて舌が巻き上がって窒息死したというような…結構壮絶な死に方してるのね。
だからそれを清水寺はとてもありがたく思って?はい。
それで…まあ言ってみれば永代そこの中で…清水寺の境内の中で茶店を営むことを許すっていうので舌切茶屋という壮絶な名前が付いた茶店をね父方のほうはずっと…今でもあります。
舌切茶屋?はいはい。
あそこすごいですもんね。
清水寺へ上がっていくところの坂の途中のお店の数っていったらね。
多いですね。
でも一応こっちは境内まで上がっちゃった中ですからね。
それすごいね。
中?中ですから。
これはだから…小さい頃はもうそういう境遇で言ってみりゃ父と呼んでもいいんだけど…父はもう死んじゃっていなかったんですけどね。
そんなところへお兄ちゃんお姉ちゃんがいてそこへ溶け込んでいってそれも…なみさんが言うんですよ。
「正臣お店忙しいさかいあんたどこか行って遊んでおいで」「あっ清水行き。
清水」「清水の茶店でな遊んでおいで」って。
俺…清水の茶店っていうのはだけどまずくないのか?っていうふうな…。
でも行ったら何でもなくて。
どんどん…こんなことをやってましたね。
行ったり来たり。
本当に?相当の…。
芸能界入る前からもうそんな?そんなでした。
それは別に…京都じゃその当時そういうことってそう珍しいことじゃなかったのかもしれないと思ってます。
なるほどね。
今はやれモラルがどうだ何だって…。
小説のようだと思いますけれどね。
そういう女性も男性も何だかしこたまいたんだと思うの京都に。
実はあのすごい米朝さんが2002年に『徹子の部屋』にお出になった時にあなたのお話をちょっとしてらっしゃるんでちょっといいですか?見ていただいて。
はいはいはい。
「人間国宝とご紹介いたしましたが人間国宝は重要無形文化財保持者ということでいらっしゃるわけなんですが」「もうその難しい話ね…」「それで近藤正臣さんのことですが…」「爽やかな二枚目でしたけどね」「ええ。
ヘヘヘ…」「“でした”って過去形ですけど。
です。
ですが。
ですが…」「近藤正臣さんのお母様がやってらしたお店のこともよくご存じでいらしたんですって?」「木屋町の三条をちょっと上がったところにねあったんですけどね」「小さいお店でしたんで私2度行ったけど2度とも満員でねお客になれなかった」「あっそんな?」「落語会もよう来てくれてね」「その時分から…学生時分から落語が好きでねよう気に入って…」「お母様が?」「いやいや本人が…近ちゃん自体がね」「近藤さん自身?ああああ…」「そんなんでねいっぺんあのお店行かないかんって言って」「いつ行っても満員なんですよ」「お母様がねすごくモテた方でいらっしゃるそうで」「まあ小さいお店やけどよくはやってましたよ」「そうなんですか」「うちの弟子なんかのお抱えって言ってるかな?」うわー…。
懐かしい。
いやー…。
米朝さんすごくお親しかったんですってね?もう追っ掛けでやってたんですね私。
そう…。
はいほとんど。
だから…いやーうわー…。
でもあんなふうに仰っててね。
いきなり…こっちが何にも言わないうちにああいうふうにお母様のことを仰ったんですから。
あっこれね。
あなた随分…米朝さんとご一緒の。
もう近藤正臣最高っていう感じ。
ね。
イケメン。
若い頃ですがね写真を撮ってくれたのがね米朝さんの一番弟子の枝雀さんなんですよ。
えー!亡くなっちゃったんですけど。
枝雀さんも一緒に行ってその時に「ちょっと撮りましょか?写真一つ。
おっ…」ってなことを言いながらね。
あれがそうなんですね。
いい写真ですよねすごくね。
はいありがとうございます。
そうですか。
米朝さんとは大変お親しくしていらしたそうだけども品のいい方でね…。
噺家というよりも…やっぱり雰囲気はどうやら学者先生…。
そう。
学者みたいなね。
遊び好きの学者先生という感じでしたね。
どうやってお知り合いになったんですか?若い頃もちろんお金がありませんからね…役者にもまだなってない時代です。
うろうろしてるとお寺の塀やなんかのところに「あさって夜6時から」…。
なんかちょっと落語の…。
「上方落語の」って…。
やっぱり上方落語がほとんど滅びかけていた時代だったんですね。
ですからもう色んなところへ出張っていってとにかく聞かせようという。
そういうことで…ふっと見ると何だか今で言やあラーメン1杯食べるぐらいの値段で見られるっていうんでどんなもんだろうな…。
知らなかったんです私。
そう。
行ったらまあお寺の本堂でもって50人から100人ぐらい程度までのお客さんがいらっしゃるところでしとしとしとしとしとしととお話しになってかっこええ。
うわーすごいかっこええと思うて。
それからもうこっちから探して…。
追っ掛け?見るようになって。
それでもう覚えてくれはったんですね。
「なんやえらい…またぼん来てるな」「うんうんうんうん」「よし今日はな内緒やで」「タダで入ろう」ってなことを言われて下足払わずにタダで見せてもらったりして。
そう。
えー。
だからうれしくてもううちの母ちゃんの店にある二級酒の一升瓶私こう持ちまして持っていったら「うわーお酒くれて…」ってなことやってそんなことからもう…。
全然違う世界の人ですからね。
こっちは見上げるばっかりなんですけれども。
はあうれしいうれしいと思いながら…。
それが去年お亡くなりになったわけですよ。
まあ大往生…。
お亡くなりになる前にもお家にいらしたんですって?なんか。
それがねざこばさんって枝雀さんの次の…お弟子さん朝丸といってた時代の時からずっと出会うてるんです。
ざこばさんが大阪でワーワーと飯やら食べながらやってる時に「正臣君ここでね今日ちょっとわし電話するわ。
電話するわ」「ちゃーちゃんちゃーちゃんいるか?ちゃーちゃん」「ちゃーちゃん今ね近藤君と一緒にいるんやけどねちょっと…えっ?うんうんうん」「待ってて待ってて待ってて」ってこんな…。
「ちょっとどないするの?この時間から。
もう11時夜の」。
「いやまだ起きてるさかい大丈夫や」言うてお寿司をそこで頼んでお酒屋さん行って酒買うて行こうってタクシーに乗って向こうのほうの…神戸のほうなんですが。
そうなんですか。
はい。
そのお家のことはね色んな随筆やなんかで私よう知ってるんですよ。
お家のこと?もう知ってるんです。
だけど行ったことはないんです。
ちょうど春の終わりの頃で。
うわー。
書いてあったとおりに「わしには一つも花見せんと」って言うてはった桜の木がお庭の…庭からこう塀を越して…。
出てる?向こうへ出とる。
向こうでばっかり見せよるんですね。
それをぼやいてはる随筆がありまして。
見たらほんまにわあーってあってそれがもう散り際で雨が降ってまして見たら下に真っ白になって歩道に桜が散ってる。
これがお家の外灯の明かりでほんのり見えるというような情景の中で初めて私米朝師匠の家へ上がらせていただいて。
ええ。
パジャマ着ていやはりました。
着物やなかった。
着物でないのを初めて見ましたからまあ言うたら。
いつもきちっと…。
うれしかったなあ。
それでねあんまりもう…物事のことをもうちゃんと順序よう…もうわからへんちょっと。
ちょっと飛んでしもうたりしてはるっていうふうなことも聞いてましたし実際お話もそういう…落語やっててもそういうことがあったっていうこともよう知ってます。
私も見に行ったりしてどないしよと思ったりしたことありました。
でもその時は入るなり「久しぶりやな」って言われてもう…。
それもうれしくて。
ああ…なんや思い出してくれてはるっちゅうか気付いて…。
今日は天気がええねんなと思うて。
よかったね。
はい。
そんな思いで会わせていただいた…もううれしかったですね。
まあ郡上八幡の生活の中で落語の会を…?はいそうなんです。
永六輔さんがずっと昔から33年間ほどやってきてくれはってまして。
いったん途切れてしもうて。
もう年取って行かれへんみたいな話になって。
しゃあないな俺も年取ってるけれどもそやな何とかしてこれ引き継ぎたいもんやと思うてそれも米朝師匠に相談に行ったんですよ。
行ってこう言うたら「おおええがなええがな。
やんなはれ」「わても行ったことありますんやで郡上に」ってなお話からそこから始まってちょうどもう5年…。
そう。
去年で5年。
写真ありましたけどね。
なんか赤いこういう毛せん…。
これですね。
あなた…皆さん司会なさるのねあなた。
これ安養寺っていうお寺のね本堂でやってるんですずっと。
「司会近藤正臣」って書いてありますね。
司会というか雑用といいますか。
でも永さんも33年よくやりましたよね。
すごいですね。
小三治さん扇橋さん句会の仲間のね皆さんですね。
うん。
なるほどね。
そうですか。
そういう生活もあるわけなんだその郡上八幡ではね。
釣りばっかりしてるわけやないんです。
釣りばっかりじゃない?釣りばっかりではないんですけれどもこんなこともやりながら楽しい…。
でもまあテレビにもよく出ていらっしゃいますよね。
テレビ…。
うんテレビ。
一応こっちにいるんです。
そうか。
それで…一応そして郡上八幡にいらっしゃる?はい。
今度ねいつか伺いますね。
(拍手)2016/01/12(火) 12:00〜12:30
ABCテレビ1
徹子の部屋 近藤正臣[字]

〜祇園芸妓出身の自由奔放な美人母の思い出〜近藤正臣さんが今日のゲストです。

詳細情報
◇ゲスト
往年のイケメン俳優もいまや73歳、朝ドラでも大活躍の俳優・近藤正臣さんが4年ぶりに出演!
◇番組内容
母・なみさんは元祇園の芸妓で、その後に京都で小料理屋を営み、そのキップのいい男好きのする性格は大人気で、生涯“恋する女”だったという。
また、曾祖父は清水寺の寺侍だという近藤さんから、意外な幕末秘話が明かされる。さらに、青年時代から“落語好き”だという近藤さん。昔から桂米朝さんと親交があり、最後に自宅を訪ねた時のエピソードも語ってくれた。
◇おしらせ
☆『徹子の部屋』番組HP
 http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/

ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
福祉 – 文字(字幕)

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
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