【コラム】侵略と和解、日本が持つ「二つの顔」

 しかし赤間神宮から垣根一つ隔てたすぐ左手には、日清戦争直後の1895年、日清両国が下関条約を結んだ会談場を保存する「日清講和記念館」がある。同記念館は、会談で清の全権大臣を務めた李鴻章と日本の代表だった伊藤博文が締結した条約の写しはもちろん、会談場の机・椅子までそっくり再現した。この戦争で勝利した後、日本は朝鮮併合のたくらみを徐々に明らかにし始めた。日本式の名称は「日清講和記念館」だが、韓国からの訪問客のため、ハングルでは「清日講和記念館」と表記している細かさにもあらためて驚かされた。

 赤間神宮が韓日の和解と交流を意味するというなら、日清講和記念館は日本の侵略の歴史的象徴といえる。この二つの建物は、下関が韓国人に見せる「二つの顔」だ。垣根一つを間に挟んで並ぶ二つの建物は、和解と侵略の間にある距離はそう遠くない、ということをよく示している。時流によっては侵略・和解どちらにも激しく変化し得るということは、過去120年の東アジアの歴史が立証している。真冬の下関、夜の海峡の潮はことのほか荒かった。

キム・ソンヒョン文化部次長
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