【コラム】侵略と和解、日本が持つ「二つの顔」

【コラム】侵略と和解、日本が持つ「二つの顔」

 侵略と和解。日本の「二つの顔」が、垣根一つ挟んだだけで並んでいるのを見ることになるとは思わなかった。正しい韓日関係史教育のため、韓国の小・中・高校の教員300人が日本を踏査する「日本の中の韓民族史探訪」。先月、探訪団と共に訪れた先は、本州と九州を隔てる関門海峡の入り口・下関だった。交通の要衝であるとともに対外交流の関門でもあるこの都市には、朝鮮通信使の宿所として使用された赤間神宮がある。

 赤間神宮は、1185年に壇の浦の合戦で敗れ、海に身を投げた安徳天皇を祭るため建立された。当時、安徳天皇はわずか6歳だった。源氏と平氏の戦いは「日本が古代国家から中世幕府体制へと移行する転換点になった事件」(ソン・スンチョル江原大学史学科教授)とされる。壬辰(じんしん)倭乱(文禄・慶長の役)で日本に連れていかれた朝鮮の捕虜を帰還させるため日本を訪れた四溟大師は、1604年に赤間神宮で「悲運の幼帝」安徳天皇を慰霊する詩を詠んだ。その後、朝鮮通信使は下関に着くと赤間神宮に滞在するようになった。

 当時、朝鮮通信使の船が海峡に入ってくると、下関では日本の案内船数百隻が明かりをともして出迎え、不夜城と化した。1763年の通信使で正使を務めたチョ・オムは「宿所に着くまで左手の海岸には民家が立ち並んでおり、四方からは商人の船が寄ってきて、竜山か麻浦のようだ。家々は華麗で、草花が生い茂り、良き山河といえる」と記した。当時チョ・オムは朝鮮にサツマイモを持ち帰り、このサツマイモは、凶作になるたび救荒食の役割を十分に果たした。今でも赤間神宮向かいの公園には「朝鮮通信使上陸記念碑」がある。2001年にこの記念碑の碑文を書き、署名した人物は、当時韓日議員連盟の会長を務めていた金鍾泌(キム・ジョンピル)元首相。赤間神宮と記念碑は、韓日和解を象徴する遺跡になるわけだ。

キム・ソンヒョン文化部次長
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