修学旅行生や観光客でにぎわう京都駅。
70年前ここに子どもたちが暮らしていました。
戦争で親を亡くした戦争孤児です。
皆さんこんにちは。
この夏京都駅で暮らした戦争孤児が初めてその経験を子どもたちに話しました。
太平洋戦争末期日本各地に大きな被害をもたらしたアメリカ軍の空襲。
親を亡くし家も失い行き場をなくした孤児たちが暮らしたのが駅でした。
駅の子と呼ばれた子どもたち。
飢えに苦しみ盗みを働かざるをえない事もあったといいます。
つらい日々を思い出したくない過去を知られたくないと多くはその経験を語ってきませんでした。
今駅の子の証言を集め若い世代に伝えようという取り組みが関西で始まっています。
戦争が終わってからが本当の戦いだったという孤児たち。
駅の子はどう生きてきたのか今伝えたい事は何かその思いに迫ります。
70年前空襲によって大きな被害を受けた神戸。
今でも足を踏み入れる事ができない場所があります。
戦争孤児として暮らした三ノ宮駅です。
母子家庭に育った内藤さん。
映画館を経営する母のもと生活に困る事はなかったといいます。
しかし昭和20年6月5日の朝。
350機を超えるB29が神戸に大量の焼夷弾を投下。
3,000人以上が亡くなりました。
焼夷弾の直撃を受けてね。
内藤さんは母と共に生き延びましたが家は全焼財産も全て失いました。
人が集まる場所に行けばなんとかなるのではないかと三ノ宮駅で寝泊まりするようになります。
しかし食べるものはほとんどなく飢えに苦しみます。
食べ物あったらそれを持ってきて…間もなく迎えた終戦。
内藤さんはその時12歳でした。
学童疎開から帰ってきた7歳の妹と2人だけで駅の子としての生活が始まったのです。
内藤さんのように親を失った戦争孤児は全国で12万人以上いたとされています。
しかし終戦直後孤児たちを収容する施設は不足。
駅で暮らさざるをえない子どもたちがいました。
生きるために物乞いをし中には盗みをする孤児もいたといいます。
内藤さんもそんな孤児の一人でした。
カミソリを持ち歩きスリを働く事もあったといいます。
切れて抜けたら…駅での生活を始めてから半年後。
内藤さんは民間の施設に保護されます。
再び学校にも通うようになった内藤さん。
しかし待ち受けていたのは周りの子どもたちからの思いがけない仕打ちでした。
(取材者)どんなですか?過酷な経験を重ねてきた子どもたち。
およそ20年前戦争孤児へのアンケート調査が行われた事がありますが答えたのは20人ほど。
つらい過去を思い出したくない孤児だった事を知られたくないとの理由から回答を拒否する人が多くいました。
母を亡くし飢えに苦しんだ駅の中にいまだに入る事ができない内藤さん。
心の傷を抱えたままです。
今その経験を風化させてはならないと取材に応じたといいます。
終戦後多くの孤児が暮らしていたという駅。
京都でその実態を調査し若い世代に伝えていこうという取り組みが始まっています。
調査を進める本庄豊さん。
中学校で近現代史を教えています。
日本は終戦後新たな憲法の下で経済的にも豊かになったと前向きな面を中心に教えてきました。
しかし3年前。
京都駅前にたたずむ戦争孤児とされる少年の写真を見つけ衝撃を受けました。
本庄さんは孤児たちの実態を知るために京都駅で暮らしたという人を探し始めます。
そこで出会ったのが…幼い頃母を亡くした奥出さん。
戦後の混乱で家を失い父親と京都駅に身を寄せます。
しかし父親は腸チフスにかかり薬が不足する中十分な手当てを受けられず亡くなりました。
孤児となったのは6歳の時。
物乞いや靴磨きをしながら飢えをしのいだ奥出さん。
駅には同じような子どもがたくさんいました。
そういう心配ばっかりしてた。
その後民間の施設に保護され駅での暮らしから解放された奥出さん。
しかし寂しさは消えず両親の面影を求め何度も施設を抜け出したといいます。
更に調査を進めた本庄さん。
行き場のない孤児たちを一時的に収容し受け入れ先を探す公的な施設がつくられていた事を知ります。
奥出さんも身を寄せた事があるというこの施設。
多い時には100人近い孤児がいました。
親を亡くした悲しみを見せる事はほとんどなかったといいます。
そんな子どもたちが親への思いを素直に表現できるようにと施設の職員が作った歌が残されていました。
・「ワッと泣きたい時がある」歌いながら涙を流す孤児もいたといいます。
調査によって施設に保護されたあとも亡くなる子どもたちがいた事が分かってきました。
ここに戦災孤児追悼のため恭しく…。
京都市内の寺に保管されている小さな骨つぼ。
施設にいた子どもたちのものと伝えられています。
栄養不足から病気になるなどして亡くなったと考えられています。
戦争孤児の調査をしてきた本庄さんです。
忘れられてきた孤児の存在を若い世代に伝えたいと考えてきました。
あっこんにちは。
こんにちはどうも。
京都駅で暮らした経験のある奥出さんに学校で話をしてほしいと繰り返し頼んできました。
奥出さんは今の若者には理解できないのではないかとこれまで依頼を断ってきました。
しかし最近考えが変わったといいます。
そういう事を知ってもらいたいし。
そして迎えた授業の日。
皆さんこんにちは。
(生徒たち)こんにちは。
奥出さんは京都駅での暮らしについて初めて子どもたちに話しました。
死と隣り合わせの日々。
奥出さんは一番つらかったという記憶を語りました。
そして多くの孤児を生み出す戦争の理不尽さを訴えました。
前までは全然関心とか…駅の子の実態はまだ十分に分かっていません。
本庄さんは今後も調査を続け若者たちに伝えていきたいと考えています。
・「ワッと泣きたい時がある」・「父さん母さん逢いたいよ」大人が始めた戦争で戦後も苦しみ続けた孤児たち。
「悲劇を二度と繰り返してほしくない」。
駅の子からのメッセージです。
(奥出)・「僕の夢」2016/01/10(日) 08:00〜08:23
NHK総合1・神戸
目撃!日本列島・選「“駅の子”たちの戦い〜語り始めた戦争孤児〜」[字]
70年前、戦争がきっかけで親を失った戦争孤児。駅で暮らした孤児は「駅の子」と呼ばれた。今、その経験を若い世代に伝える取り組みが始まっている。駅の子の思いに迫る。
詳細情報
番組内容
70年前、戦争がきっかけで親を失い孤児となった子どもたちは12万人を超えた。中には駅で生活をする孤児もいて、「駅の子」と呼ばれることもあった。つらい記憶を思い出したくないと、ほとんどはその経験を語ってこなかった。しかし、今、孤児たちが、自らの体験を話し始めている。京都では、孤児が中学生に直接話をする取り組みも始まった。「終戦は生きるための戦いの始まりだった」という駅の子たち。その思いに迫る。
出演者
【語り】井上あさひ
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
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