才能か努力か?
これは人類永遠のテーマだろう。
しかし、ぼく個人の意見では
やはり「才能がすべて」だと思う。
ただ、このことは努力を否定しているわけではない
ということを先に断っておく。
ぼくの過去を振り返っても
短距離走で誰かの後ろを走った記憶がほとんどない。
プロフィールを見てもらえばわかるけど
ぼくは27年間の人生のうちの
24年間はまともに運動した経験がない。
テニスをしていた3年間でさえ
300時間もやっていないだろう。
途中で辞めちゃったし、
雨の日は練習しなかったくらいなんだから。
(しかも、雨が全国一多い高知県で。)
ずっと家でゲーム・マンガ・ネットなどをしてきた。
その間同級生たちは部活動で
日々カラダを鍛えあげていたはずだ。
それでもぼくは高校の100m走は
学年トップ(3人同タイムだったので
正確には学年トップタイ)だった。
1日1時間で、土日休みとして
年間で250日位部活をしてきた人なら
小中高で2,000時間は努力してきたはずだ。
対してぼくの努力量は0秒である。
本当に何も努力をした経験がない。
それでも
片手で数えるくらいしか
前を走られた記憶がない。
これを才能と言わずしてなんというのか。
その証拠に、
ぼくの家族はみんな短距離走が速い。
ふとももが太い短距離向きの家系なのだ。
ぼくはここで別に自慢をしたいわけじゃない。
ぼく程度に走れる人なんて山ほどいるんだから。
そうじゃなくて、
「世の中全部がそうじゃないの?」
ってことを言いたいのだ。
運動に競争はつきものだから、
嫌でも才能に気付かされるけど
勉強や趣味などは
競争の場を避けてしまえば
他人と比較をすることがない。
だから、才能がないかもわからない。
これは本当に危険なこと。
才能があるかないかわからないのに
長い時間をかけて努力してしまうことにつながるから。
ぼく自身がそうだったからわかるんだ。
数字が苦手で才能もないのに
あまりにも多くの時間を
会計士試験の勉強に費やしてしまったから。
大学生らしいことなんて何もしなかった。
やり直せるものならやり直したい。
特別な経験なんて望んでない。
普通でいいから、人並みでいいから。
惚れた腫れたの恋愛をしてみたかった。
一生悔やんでも悔やみきれない。
今でもときどきそのことで猛烈に落ち込んでいる。
本当に情けない。恥ずかしい。
人として当たり前のことすらしていない。
人として欠落しているという
烙印を押された気分になる。
話を戻そう。
結果が出なかったとき、
努力が足りなかったせいだと考える人がいる。
とりかえしがつかないくらいの
たくさんの時間を費やしてしまって
とてつもなく落ち込む人がいる。
そうじゃない。
努力が足りなかったかもしれないけど、
それ以前に才能がなかったのかもしれない。
努力のせいにするからつらくなるんだ。
才能がなかったんだと思えばあきらめもつくだろう。
誰もが与えられた時間は限られている。
だったら一秒でも早く才能がないことに
気づいて道を変えた人のほうが成功に近づく。
さいわいなことに
ぼくがブログを書いている評価は
一ヶ月のPV(どれだけ見られているか)
で数字としてみることができる。
どれだけいいものを書いたとしても
見られていなければ存在しないのと同じ。
(もちろんただの日記でよければ話は異なる)
ブルーハーツのボーカルである甲本ヒロトはこう言った。
「売れているものが良いものなら
世界一いいものはカップヌードルだよ」と。
ぼくはこの言葉を知ったとき
なんて素晴らしい言葉だろうと思った。
でも、これは甲本ヒロトのような天才が
結果を残したうえで言うからこそ響くんだ。
そのへんの売れない自称ストリートミュージシャンが
同じセリフをいってインディーズで頑張っていても
一部の熱狂的ファン以外は失笑するだろう。
「だってお前の曲売れてないじゃん?
それってただのヒガミじゃん?」と思うだろう。
ある程度結果(数字)を残してはじめて
その人の言葉が他人の心に響くようになる。
才能に気づくには
客観的な数字(指標)が必要なんだ。
数字で評価されることから
逃げちゃだめなんだ。
数字で評価されることはつらい。
自分の価値のなさをまざまざと見せつけられる。
それでも逃げちゃだめなんだ。
逃げちゃったらいつまでたっても
自分の才能がわからない。
才能がないことに気づかないまま
ずるずると貴重な時間を費やしてしまう
それこそ恐れるべきことなんだ。
恐れるべきことは
数字で評価されることじゃない。
本当に恐れるべきことは
数字で評価されることから逃げて
あまりにも多くの時間を無駄にすることなんだ。
世の中は努力じゃなくて
才能だと最初に書いた。
矛盾しているように聞こえるかもしれないけど
だからこそ死ぬほど努力しないといけないんだ。
中途半端な努力しかしなかった人に限って
「あのとき本気で頑張っていたら俺だって」
なんてことを死ぬまで言うんだ。
数字で評価されない世界で生きる人に限って
「他人と比べてもしょうがないよ。
ナンバーワンよりオンリーワンだよ」
なんてことを言っているんだ。
なにを言っているんだと思う。
ナンバーワンこそがオンリーワンだろう。
死ぬほど努力をした人しか
「おれは本気でやったけど才能がなかったんだ」
ときれいさっぱり諦めることはできないんだ。
自分がどちらになりたいかということだ。
中途半端に頑張っていつまでも夢を見たいのか、
死ぬほど頑張って才能のなさに気づくのか。
どっちが正しいかじゃない。
どっちも正しいんだ。
人の生き方はそれぞれなんだから。
ただぼくは、
前者のような人間にだけはなりたくないから
後者の道を選ぶことに決めたんだ。
だからぼくはブログを書き続ける。
今年に入って
ブログの読者は減る一方だ。
正直言ってつらい。
何のために書いているんだろうと思う。
これが数字で評価されるということの現実だ。
厳しい。
だからこそやる意味がある。
まだまだ努力が足りない。
努力不足を言い訳にできてしまう。
これじゃだめだ。
死ぬほどやったけど結果が出なかった。
才能がなかったんだ。と言えるように。
ぼくはもっともっと努力しないといけない。
努力をすることの意義は
報われるためなんかじゃない。
自分自身の人生に
オトシマエをつけるために
納得のいく人生だったと言えるため
そのためだけに努力をするんだ。
こうして長々と語ってきたが、
やはり自分は才能がないのだろう。
話が全体としてまとまっていない。
全体像を描く才能がないのだ。
自分の無能は嫌というほどわかっている。
それでもぼくは書き続ける。
今日も明日もあさっても。
死ぬほど努力して書き続けることでしか
自分の才能のなさに納得することはできないから。
やるべきこと、やれることは、
まだまだたくさん残っている。
何かが一つでも残っている時点で
努力が足りていない証拠だ。
努力が報われるかなんて
正直、どうでもいい。
そんなこと考えてるから
つらくなって落ち込むんだ。
もはや何の手も打てないというところまで
少しでも早くたどりつくために、
自分のやってきたことに
納得して死ねるように、
ぼくはこれからも
ひたすらブログを書き続けていく。
ただひたすらに。
なんて。偉そうなこと書いちゃったけど、
実際ぼくはただのニートなわけで、
ニートが思ってる努力なんて
毎日大変な思いして働いている
社会人の方々からすれば努力以前のレベルなんですよね。
ぷっ!ニートが努力とかマジウケルー(笑)
笑わせんでくれよ。ぶはははははっwwwww
って感じでしょう。ニートのたわむれや思って
ご慈愛くださいませ。