コメント
No title
一方は論理空間外で他方は論理空間内という説明も可能だとは思いますが、両方とも論理空間外の事柄として考えたうえで、論理空間外でのふるまいについての規範が両者で異なっているという説明もふつうに可能だろうと思います。
どういうゲームであれ、マルチプレイヤーのゲームの場合は、その場その場でのプレイヤー間の取り決め(明示的であれ暗黙であれ)が伴っているはずなので、ジャンルごとにその取り決めのありかたがちがう傾向があるという説明で処理できるのではということです。でたぶん両者の規範のちがいは、どういうゲームプレイが求められる傾向にあるかというところでのちがいだという説明になると思います(たとえば、「パンデミックでは個々のプレイヤーが主体的に行為することによる緊迫感のあるゲームプレイが求められる傾向にある一方で、TRPGではフィクション上の整合性(ようするに世界観)をぶちこわさないゲームプレイが求められる傾向にある」みたいな説明)。
もちろんこれは一般化すると、ゲーム外規範とゲーム内の論理空間をどこで線引きするか、そもそも線引き可能なのかという毎度の問題だと思います。でこれも毎度の話ですが、その線引きは、ひとつのゲームとか、そのゲームのプレイセッションだとかの同定・認定をどうするのかという問題に依存すると思います。でふつうに考えて、奉行が発生しようがマンチキンが発生しようが、それは当のゲームのプレイセッションであることに変わりはないと思うので(だめなセッションではあるでしょうが)、ゲーム内よりはゲーム外規範の問題として処理したほうが説明としていいのではないかという感想です。
逆にマンチキンケースを論理空間内の事柄として扱う利点がほかにあれば、ぷらとんさんの説明のほうがいいと思います。
どういうゲームであれ、マルチプレイヤーのゲームの場合は、その場その場でのプレイヤー間の取り決め(明示的であれ暗黙であれ)が伴っているはずなので、ジャンルごとにその取り決めのありかたがちがう傾向があるという説明で処理できるのではということです。でたぶん両者の規範のちがいは、どういうゲームプレイが求められる傾向にあるかというところでのちがいだという説明になると思います(たとえば、「パンデミックでは個々のプレイヤーが主体的に行為することによる緊迫感のあるゲームプレイが求められる傾向にある一方で、TRPGではフィクション上の整合性(ようするに世界観)をぶちこわさないゲームプレイが求められる傾向にある」みたいな説明)。
もちろんこれは一般化すると、ゲーム外規範とゲーム内の論理空間をどこで線引きするか、そもそも線引き可能なのかという毎度の問題だと思います。でこれも毎度の話ですが、その線引きは、ひとつのゲームとか、そのゲームのプレイセッションだとかの同定・認定をどうするのかという問題に依存すると思います。でふつうに考えて、奉行が発生しようがマンチキンが発生しようが、それは当のゲームのプレイセッションであることに変わりはないと思うので(だめなセッションではあるでしょうが)、ゲーム内よりはゲーム外規範の問題として処理したほうが説明としていいのではないかという感想です。
逆にマンチキンケースを論理空間内の事柄として扱う利点がほかにあれば、ぷらとんさんの説明のほうがいいと思います。
No title
追記です。ABの会話の例のポイントを見落としていた気がするので。
この例はたぶん、行為(Aの依頼発言およびBの行為)の性格として、論理空間内での行為とごっことしての行為が二重に成立しているということで説明できるのではないでしょうか。そして両者が「重ね合わせ」(拙博論の用語で)の状態にあるおかげで、論理空間内の行為としては依頼されていなかったことまでが行為されることになるという。
以下のような図式を想定してます。
R: AによるBへの依頼発言
F1: Bのフィクション上の行為1
F2: Bのフィクション上の行為2
G1: Bのゲーム内行為1
G2: Bのゲーム内行為2
・F1とG1、F2とG2はそれぞれ重ね合わせ状態にある(つまり同時に行われる)。
・RはF1の依頼であると同時にG1の依頼でもある(あるいはたんにG1の依頼である)。
・F1とF2はフィクション上なんらかのつながりがある。つまり、F1をするとともにF2をすることには、ごっこ上でのなんらかの合理性がある。
・Bは依頼されたF1=G1をおこなうのに加えて、ごっこ上のつながりからF2もおこなう。
・F2とG2は重ね合わせ状態にあるので、Bは同時にG2もおこなうことになる。
・結果としてBは、Aのゲーム上の依頼内容(G1をしてくれ)以上のこと(G2)をすることになる。
これはたしかにごっこ的な動機づけのないボードゲームではありえない話だと思います。
この説明のほうがいいのか、FとGを区別せずにすべて論理空間内の行為として一括処理したほうがいいのかはよくわかりません。僕の枠組み自体、フィクション(ごっこ)とゲームの行為を無用に明確に分けすぎているところがある気もするので。一方の説明だとうまくいかないみたいな事例があればいいのですが。
この例はたぶん、行為(Aの依頼発言およびBの行為)の性格として、論理空間内での行為とごっことしての行為が二重に成立しているということで説明できるのではないでしょうか。そして両者が「重ね合わせ」(拙博論の用語で)の状態にあるおかげで、論理空間内の行為としては依頼されていなかったことまでが行為されることになるという。
以下のような図式を想定してます。
R: AによるBへの依頼発言
F1: Bのフィクション上の行為1
F2: Bのフィクション上の行為2
G1: Bのゲーム内行為1
G2: Bのゲーム内行為2
・F1とG1、F2とG2はそれぞれ重ね合わせ状態にある(つまり同時に行われる)。
・RはF1の依頼であると同時にG1の依頼でもある(あるいはたんにG1の依頼である)。
・F1とF2はフィクション上なんらかのつながりがある。つまり、F1をするとともにF2をすることには、ごっこ上でのなんらかの合理性がある。
・Bは依頼されたF1=G1をおこなうのに加えて、ごっこ上のつながりからF2もおこなう。
・F2とG2は重ね合わせ状態にあるので、Bは同時にG2もおこなうことになる。
・結果としてBは、Aのゲーム上の依頼内容(G1をしてくれ)以上のこと(G2)をすることになる。
これはたしかにごっこ的な動機づけのないボードゲームではありえない話だと思います。
この説明のほうがいいのか、FとGを区別せずにすべて論理空間内の行為として一括処理したほうがいいのかはよくわかりません。僕の枠組み自体、フィクション(ごっこ)とゲームの行為を無用に明確に分けすぎているところがある気もするので。一方の説明だとうまくいかないみたいな事例があればいいのですが。
No title
もうひとつの見方として、「プレイヤーにとって奉行に従うことがどれくらい有利になるか」という観点はどうでしょうか。もしTRPGのプレイヤーの中に、そのゲームに精通しているだけでなくそのシナリオの展開まですべて知っている人がいたら、その人による奉行行為はきっと問題になりますよね。プレイヤーは自分で考えるまでもなくその人に従うほうが有利だと思えるからです(アドバンストチェスでコンピュータが強くなりすぎて面白くなくなったのと同じ構図)。
パンデミックのほうが奉行問題が顕在化しやすいのは、プレイヤーの実力が勝ちやすさに与える影響が大きいという要因も無視できないのではないかと思います。
パンデミックのほうが奉行問題が顕在化しやすいのは、プレイヤーの実力が勝ちやすさに与える影響が大きいという要因も無視できないのではないかと思います。