【動画】米ボストンの老舗バーでピアノを弾くメル・スティラーさん。店の客が集まり声を合わせる=宮地ゆう撮影
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 ビールとソーセージとフライドポテトが入り交じった匂いが漂う。ほろ酔いの客が、古いアップライトのピアノの周りに集う。

 「メル、次は何かな」

 メル・スティラーさん(67)はピアノの横に置いたビールを一口飲むと、騒々しい店内に向け叫んだ。

 「245!」

 毎週金曜夜、1868年創業のドイツ料理の店は、200人近い客でごった返す。テーブルに置かれているのは、歌詞だけ書かれた269ページの手作りの本。客は、ところどころ破れてビールの染みのついた紙を繰り、約500曲の歌詞が書かれた中からスティラーさんの叫んだページを探す。

 ビートルズ、クイーン、エルトン・ジョン、米国の民謡。曲はすべて客のリクエストだ。遠くから叫んだり、ピアノの前まで来たり。「まだ早い」「そんな暗い曲やめとけ」と、ほかの客も声を飛ばす。

 みなで声を張り上げ、店全体が大合唱。たまたま入った客は、何事かと驚く。

 「うまいかどうかなんて関係ない。1週間あったことを忘れて、みんなで歌うのがいいんだよ」。副店長のチャド・シェーファーさんが、バーカウンターの奥から言った。

 地元マサチューセッツ州出身のスティラーさんがこの店で弾き始めて26年になる。母や姉が音楽好きで、自分も6歳くらいからラジオで聞いた曲をピアノで弾いていた。楽譜は読めないが聞いた音は再現できた。

 ある時、酔って歌い出した友人にピアノで伴奏すると、「これで稼げるよ」とほめられた。子どもの教育費が必要な時期だった。

 探した店の条件は、ステージではなく、客のテーブルのすぐ横にピアノがあること。「僕の演奏を聴きに来るのではなく、みなで一緒に歌うのが大切なんだ」