鈴木 正道(55)
曹洞宗傳福寺住職▼材木町6番地の庫裏玄関跡で、県職員のおいが時計と印鑑により遺骨を確認▼妻と2人。2歳の長女を連れて、福山市の実家に疎開していた長男の妻ヒサは「義父は7月末に訪ねて来て、初孫に『ままごとの道具を送る』と約束して戻りました。木の茶わんやはしは、8日の福山空襲で実家とともに焼けてしまいました」。長男正純は45年末に復員すると、寺を再建し、生き残った幼なじみとともに3回忌の合同法要を主宰した。
妻 芳子(48)
台所跡で遺骨が見つかる。
平野 繁夫(36)
平野靴下商会▼靴下を製造していた材木町25番地の自宅兼工場跡で遺骨が見つかる▼いとこと2人。きょうだい4人で父の郷里、高田郡刈田村(八千代町)に縁故疎開していた小学4年の長男隆信は「父は軍に製品を納めていましたが、戦局が険しくなったので、刈田村に工場用地を確保し、機械を馬車に積んで疎開を進めていました」。
いとこ 石田 操(21)
遺骨は不明。妻に先立たれた平野の工場を住み込みで手伝っていた。隆信は「操さんは、あの日朝に訪れた親類によると『髪を整えて来る』と家を出たそうです。幼かった私たちの母になることが決まっていました」。
操の妹 春江(19)
遺骨は不明。刈田村から荷物疎開の準備を手伝いに来ていた。
坂本 藤登(41)
坂本洋服店▼材木町25番地の自宅にいたとみられる▼妻子との3
人。筋向かいの中島本町79番地から陸軍船舶司令部に出勤していた、めい登志子は「叔父一家の最期はよく分かりません。小学生だった叔父の二女は双三郡十日市町(三次市)に一人縁故疎開していましたが、私も両親と妹の家族4人を失って一人となり、いとことの音信はいつしか途切れてしまいました」。
妻 ヨシ子(34)
爆死。
長女 子(14)
広島市女(現・舟入高)3年▼爆死。3年生は舟入川口町の関西工作所と、安芸郡船越町(安芸区)の日本製鋼所に動員されていた。(注・いずれも遺影なし)
廣元 新一(38)
綿布卸「わたや廣元新一商店」▼徴用で出ていた西天満町の東洋製罐での夜勤明けから戻り、材木町25番地の自宅で爆死。遺骨は不明▼妻子との5人のうち4人が死去。宇品町の西井製作所に動員され被爆後に捜しに入った、山陽商業3年の長男豊は「父は、動員先へ出る私と入れ違いに、母たちが食事をしていた家に帰って来ました。自宅跡から父の時計と金歯、だれとははっきりしない骨を見つけ、墓に納めました」。
妻 スヱ(35)(右)
遺骨は不明。
二男 繁登(8)(左)
中島小3年▼遺骨は不明。4月に双三郡三良坂町へ学童疎開して
いたが、腕を骨折し戻っていた。
長女 紀美子(4)(中)
遺骨は不明。
山田 吾市(74)
山田履物店▼材木町26番地の自宅で爆死。東雲町(南区)に1日
に移ったばかりの三女文枝夫妻が、実家跡で確認▼長女と2人。三
女は「あおむけに倒れていた父と姉を、辺りの木片を集めてだびに
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