中国新聞社
2000/4/28

ヒロシマの記録-遺影は語る
  材木町Ⅰ


死没者名簿(その1)

鈴木 正道  鈴木 正道(55)
 曹洞宗傳福寺住職材木町6番地の庫裏玄関跡で、県職員のおいが時計と印鑑により遺骨を確認妻と2人。2歳の長女を連れて、福山市の実家に疎開していた長男の妻ヒサは「義父は7月末に訪ねて来て、初孫に『ままごとの道具を送る』と約束して戻りました。木の茶わんやはしは、8日の福山空襲で実家とともに焼けてしまいました」。長男正純は45年末に復員すると、寺を再建し、生き残った幼なじみとともに3回忌の合同法要を主宰した。

妻 芳子  妻 芳子(48)
 台所跡で遺骨が見つかる。





平野 繁夫  平野 繁夫(36)
 平野靴下商会靴下を製造していた材木町25番地の自宅兼工場跡で遺骨が見つかるいとこと2人。きょうだい4人で父の郷里、高田郡刈田村(八千代町)に縁故疎開していた小学4年の長男隆信は「父は軍に製品を納めていましたが、戦局が険しくなったので、刈田村に工場用地を確保し、機械を馬車に積んで疎開を進めていました」。

いとこ 石田 操  いとこ 石田 操(21)
 遺骨は不明。妻に先立たれた平野の工場を住み込みで手伝っていた。隆信は「操さんは、あの日朝に訪れた親類によると『髪を整えて来る』と家を出たそうです。幼かった私たちの母になることが決まっていました」。



操の妹 春江  操の妹 春江(19)
 遺骨は不明。刈田村から荷物疎開の準備を手伝いに来ていた。





 坂本 藤登(41)
 坂本洋服店材木町25番地の自宅にいたとみられる妻子との3 人。筋向かいの中島本町79番地から陸軍船舶司令部に出勤していた、めい登志子は「叔父一家の最期はよく分かりません。小学生だった叔父の二女は双三郡十日市町(三次市)に一人縁故疎開していましたが、私も両親と妹の家族4人を失って一人となり、いとことの音信はいつしか途切れてしまいました」。

 妻 ヨシ子(34)
 爆死。

 長女 (14)
 広島市女(現・舟入高)3年爆死。3年生は舟入川口町の関西工作所と、安芸郡船越町(安芸区)の日本製鋼所に動員されていた。(注・いずれも遺影なし)

廣元 新一  廣元 新一(38)
 綿布卸「わたや廣元新一商店」徴用で出ていた西天満町の東洋製罐での夜勤明けから戻り、材木町25番地の自宅で爆死。遺骨は不明妻子との5人のうち4人が死去。宇品町の西井製作所に動員され被爆後に捜しに入った、山陽商業3年の長男豊は「父は、動員先へ出る私と入れ違いに、母たちが食事をしていた家に帰って来ました。自宅跡から父の時計と金歯、だれとははっきりしない骨を見つけ、墓に納めました」。



 妻 スヱ(35)(右)
 遺骨は不明。

 二男 繁登(8)(左)
 中島小3年遺骨は不明。4月に双三郡三良坂町へ学童疎開して いたが、腕を骨折し戻っていた。

 長女 紀美子(4)(中)
 遺骨は不明。

山田 吾市  山田 吾市(74)
 山田履物店材木町26番地の自宅で爆死。東雲町(南区)に1日 に移ったばかりの三女文枝夫妻が、実家跡で確認長女と2人。三 女は「あおむけに倒れていた父と姉を、辺りの木片を集めてだびに 付しまし%9