2006/03/05

■よけいな説教

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以下は、2004年から2005年末にかけて、約1年半のあいだ、当ブログに書いた記事を、2006年3月にまとめ直したたものです。

■性欲の行方について

世の中には、性欲の強い人もいますし、弱い(少ない)人もいますし、ない人もいると思います。
また、ある年頃に性欲が強くても、以外と早く「リタイア」な人もいるでしょう。同性愛&バイ、の人もいますね。
その中から今回は、「性欲」の「ある」ケースについて書きます。ただしこれは、ヨガ、瞑想の進歩をめざす方を対象としています

まず、自分に性欲のあるのが感じられたら、「この感覚は、なんなのか?ほうっておいたらどうなるか」、ひとつ実験してみて下さい。
発狂しそうになるかもしれませんが。
というのは、ヨガ、瞑想、宗教の究極的な目的は、ひとことで言ってしまうと、性欲に左右される繁殖動物としての体を克服する、ことなのです。いえ、目的としては、これにつきます。
「一体なんで自分がそんなことをしなきゃ!?」という方は、ヨガ、瞑想など、なさらないほうがいいと思います。どうか、いまのままでいらしてください。

ところで、歳をとって性欲がなくなったのを「性を克服した、コントロールした」と、間違えないでくださいね。くれぐれも。

この項目ではまず、宗教の、ヨガ、瞑想の目的は、性欲(エネルギー)のコントロールであることを、お伝えします。

(宗教だの密教では「”煩悩”をも認める」などとあいまいなことを言いますけれど、意味がぜんぜんわかっちゃいませんね)

■神秘体験と”自分の位置”

以前、私の体調がかなり悪かったとき、自分の心臓の上に手を当ててみました。
すると、未熟な霊能力により、こう出ました。
→「自我の使いすぎのため、この部分がズタズタになっている」、と。
自分の体内が「観える」ような感じで、同時に「意味」がど~んと「飛び込んで」きたのです。
次に私は、自分のお腹のあたりに手を当ててみました。
すると、「心配事や不安がたまっているので、この部分が病んでいる」、と「出ました」。
さらに、下腹部あたりに手を当ててみると、「ここには、恐怖心や死への恐れがいっっぱい詰まっている」と「出た」上、さらに、腹部の中に死体がいっぱい詰まっている「映像」が見えました。もう、ぎゃっ、という感じです。

そんな私です。

という結果だったので、私はその後何年か、ずいぶん注意して、「自我を滅したり、不安や恐れを抱かないようにして」生活したのですが・・・、だからといって私の体調が良くなるわけではありませんでした。つまり、神秘体験(霊能)から学んだことに基づいて、ひじょうにひじょうに注意しながら行動し、何年も生きてのですが、現実にはなんら変化はなかったわけです。
そこで私は今度は、体調を改善するために、「自分の生体エネルギー操作」をはじめました。それをやるごとに、私の体調は日ごとに、具体的に、よくなっていきました。
操作したその場ですぐ、結果が出ます。
要は、(自分の)神秘体験や霊能に沿って行動するよりも、自分の肉体(その背後にあるエネルギー)の操作を実際にするほうが、はるかによい、ということです。

別の例をのせます。

あるとき私は、自分の足の裏に手を当てて、そこから首あたりまでの内部空間を把握しました。そこは、「きれいな空間」でした。霊視、霊能力によって、瞬時にわかりました。
ところが、後日落ち着いて、もういちど体に手の平を当てて「じっくりサーチ」してみますと、内部には、よどんだエネルギーがい~っぱいありました。というより、「ほとんど、よどんでいた」のです。
このときも、とつぜんの神秘体験より、自分の積極的な体内探検のほうが役に立ったと思います。

以上をもって私が何を言いたいかといいますと、「霊視、霊能力で、ものごとが解決できるなどと思うな」、ということです。そんな「雰囲気的な脳内現象」を参考にしても「自分の位置・状態」は簡単には変えられないものです。
神秘体験、霊視、霊能力のほとんどは、「脳内体験」です。脳に格納されている情報というのは、もうなんでもありの、ごちゃごちゃの世界で、何と何がどう結びつくか、ということに対して、誰も責任をとってくれない”脳の勝手”な世界です。

自分の現状、現実を変えるには、霊視、霊能とはまた別の「努力と自己操作」が必要です。
これは私の経験上、申し上げます。
神秘体験、霊能など追い求めるより、自分の心身と具体的・現実的に対面して”自己操作”し、自分の”現在地”を変えることをおすすめします。

■やらないことも大切

ヨガ、瞑想の成果を上げるために、「何かをやらなければいけない」と思っている人が多いのではないでしょうか。
これは、私なりの結論をいえば、やることよりも「やらないこと」が、よほど大切だと思います。
とくに、「脳(思考)」においては、何もやらないことが大切です(もっとも、やらなければやらないほど、死に近い状態となります。しかし、それが瞑想なのです)。
人間が「何かをやってしまう」というのは、大なり小なりの「強迫観念」、または「生まれてこのかた押し付けられた常識」「じっとしていられない不安感」「精神的貧乏性」などが根底にあって、つい何かをやってしまうわけです。
ところが、ヨガ、瞑想の究極的な境地においては、「何かをやってない自分」に、「自分を超えた何かが流入してくる」という事態が生じます。”全く何かをやってない自分”に、です。
流入してくるのは、外部エネルギーです。そのエネルギーが自分の中に超いっぱい満ちることにより、瞑想の世界、非物理的な世界に同調します。

ところが世間には、「何かをやらずにはいられない人間の習性」と、「それを良いことだと思い込んでいる、はきちがえた努力家」を利用しようとする指導者や団体があとをたちません。
ですから、がんばり屋、および知的レベルの高い人は、むしろ「餌食」になりやすいといえるでしょう。1人でやってるより、団体に入ったほうが、堕ちることが多々あります。
自分はちょっとしたもんだと思っている人こそ、えじきになりやすいのです。

以前、日本で、某宗教団体が歴史に残る社会的事件を起こしたとき、そこの幹部は高学歴で知的レベルが高い、といわれました。
私は、彼らの”間違い”は、宗教的な高みに至るには、何かを「やらないこと」のほうが大切、ということがわかってなかったことだと思います。とにかく、知的レベルが高い上に、がんばりやのわけですから。自分には何かができると思い上がってしまい、そこを、指導者に”すくわれて”しまうのです。
そのうち、自己陶酔に陥り、自分に対する客観性がなくなってしまいます。


話を元にもどしますが、あれもこれもやらないことがどれだけ難しく、どれだけ自分をコントロールすることにつながるか、というのは、「やらないことをやってみて」はじめてわかることです・・・。
これは、挑戦する価値、ありです!

■目から星

あれは・・・私が40歳代はじめの頃でした。
8月の中旬に、天体に詳しい友人に誘われて計3人で、伊豆の浜辺に流星を見に行きました。
その晩は、天気が悪くて流星は見えませんでした。そのうち私は、なんとなく体調不安定になり、家に帰ってから、ぐったりして横になっていました。
すると突然、私の体の中心を、こぶし大くらいの物理的な塊(かたまり)が一気に、ドーンと脳天までかけ抜け、頭の上の空間にズボッと、出ました。
一瞬何が起こったかわからず、目から星がいくつも見えて・・・(と表現するほかないのですが)、頭はジンジンとし、しばらく呆然としていました。
これは、とつぜん起こってしまった「クンダリニーの覚醒と上昇現象」です。
が、どうも私の場合、8月のお盆の頃に、なんらかの形で、この問題、というか事態が生じます。この頃出現する流星群とも関係しているのではないかと思っているのですが・・・、よくわかりません。
また、”お盆”というのがこの時期にあるのも、どうも意味深な気がします。
みなさまも、とつぜんこんなことになっても、つまり”そいういうこと”ですから、病院に行ってあれこれ説明しても、医者に理解者はいないと思います。


■テレビでヨガ

NHK教育テレビでやっていヨガのポーズの番組をたまたま見ました。
きれいなおねえさんが、おいっちに、おいっちに、という感じで、やさし~く、ヨガの動きを指導していました。なんだか、大人の幼稚園、といった雰囲気です。
これに対して、私なりの考えを述べてみます。
まず、そのおねえさん自身、どこにでもいそうな普通の女性でした。
ヨガを指導する人としてあってはなならないことでもあり、一方、それはそれでいいことだとも思いました。
なぜかというと、ヨガにおいては、「指導者のエゴ」を伝えないことが、とても大切だからです。エゴ、または「個性」でさえも実習者に伝えない(伝わらない)ほうがいいので、ヨガの指導者のありかた、個性というのは、なかなかむずかしいものがあります。
ヨガ指導の目的は、指導者の「複製」をつくることではありません。ですから、どこにでもいそうな無個性な指導者のほうが、実はキャラクターとしてはいいこともあります。
ただし、そのテレビ番組は、あっという間に終わってしまうから、それでもいいのです。
すぐに終わらないで、無知・無個性な指導者について何年もやらなければいけないとなると、また別の話ですが・・・。

かといって”知識自慢”の指導者についても、いい加減な本の内容の受け売りのことが多く、それもまた困るものです。
ヨガの指導者選びは、むずかしいのです。

■修行者は偉いか

生き方が「ずば抜けている」、あるいは「自分(や社会)になんの疑いもない、クリアである」という精神状態であれば、何も、ちまちまとヨガ瞑想修行などやらなくてもいいはずです。
ところが、あながちそうでもない人間だから、「自分をどうにかしよう」としてヨガ瞑想をやるわけです。
その観点からすると、ヨガ、瞑想をやっている人間は、ある意味で「未熟でかわいそうなヒト」ということは、できるでしょう。
べつに悪口ではありません。理論上はそうなります。
ということは、ヨガその他の「修行」をやる人間が「偉い」わけでは決してないはずです。むしろ逆のことが多いでしょう)。じっさい、私自身も、自分自身の健康に対する挫折から、ヨガをはじめました。健康な人より、残念な人間だったわけです。
なのに、修行をやる人間を「偉い」と思い込んでしまう人が、多々いるようです。
このような「間違った思い込み」をする人は、「教祖」とみると単純に尊敬してしまうため、そのうち、教祖を喜ばせることを目的に、修行するようになっていきます。こういうタイプの人は意外と多くいるもので、その結果は本人が受け取ることになるはずですが、結果に結びつかないか、以前より悪い結果になることも多いものです。

自分自身の修行を向上させようとするのであれば、”修行者は偉い”という先入観は捨ててください。
修行者は、努力家であるとはいえます。
その努力に学ぶ、影響を受けたいというのであれば、修行者と共にいるのも役に立つでしょう。

■たかがドラッグ

ヨガや瞑想をやっていると、「神秘体験や霊視」に興味がいくかもしれません。
私自身も、もとは健康志向でヨガを始めたのですが、その過程でヨガ・瞑想の世界のいろいろな情報にふれ、そうした不思議世界や別世界に興味をもったこともありました。
それに対する結論を簡単に言ってしまいますと、神秘体験・霊視のようなものは、ドラッグ、幻覚性物質(植物)でも容易に引き起こせるようなことなので、修行の進歩だのレベルだの、まして”ステージ”だのと、全く関係ない、ということです。
これっぽっちも関係ありません!
人間性、人格などとも「一切」関係ありません!
幻覚剤や、治療のための薬のある成分が多すぎただけで、おこってしまうような現象ですから、霊視なんて。
霊視、神秘体験などに、たいした価値などありません。
それどころか、先天的に起こってしまう体質のため、「病院」のお世話になっているヒトが、いっぱいいるという現状です。
だけど、どうしても神秘体験をしたい、というならば、違法にならない方法で早急に「決着」をつけてはどうでしょうか。外国ではもう、小学生くらいのうちにすませていることを、なにかと規制の多い日本人はジタバタしているだけかもしれません。

■霊能力者、瞑想者たちの行く末

私は、何人かのヨガ、瞑想の指導者をウオッチングしてきました。
その指導者の中で、そこそこ有名だったA氏は、あるとき自宅で、突然死しました。
別の、やはり有名なB氏も、60歳のころに亡くなりました。その2、3か月前の、本人のHPへの書き込みでは、そんな気配さえありませんでした。
お二人とも、日頃から、超現実的な瞑想の世界を説いていた指導者です。しかも、ひじょうに有能でした。
私は、死ぬのが悪いとは思っていませんし、私だって、いつどうなるかわかりません。 みなさんがこれを読んでいる現在、私はもう故人になっているかもしれませんし。
したがって、「いい、悪い」の問題ではないのですが、私が言いたいのは、瞑想・神秘体験の世界をどんなに体験しても、説いても、そのことと、当人が自分の現実をコントロールすることは「関連してない」ということです。正確にいえば「大きなこといっても、自分をコントロールできてない」わけですが。
そういえば、一時テレビに出まくっていた霊能力者の某女史も、不可抗力(事故)で亡くなりました。
皇族を気功治療していた某氏も、その後とんとおとさたがありません。
霊視、霊能関係者に、”そのような”方がひじょうに多い、ということを記しておきます。

■肉体から自由になりたい願望

肉体を使い、「楽しいこと」をいろいろできます。
一方、肉体あるがゆえに、健康を害したり、疲れたり、願望のほんのわずかしか実現できなかったり、という「制約」もあります。
まあ、そんなこともあって、私たち人間は、自分の肉体から自由になりたい(解放されたい)という願望を、多かれ少なかれ持っているのではないかと思います。
肉体の制約から「自由になる」方法として、自殺や、覚せい剤、大麻、薬物、ドーピング剤などを使う人もいるでしょう。使えば、肉体の「限界」を超えた感覚を味わえるかもしれません。
そういったものは良くない・・・、などとは申しません。やったこと(副作用など)は本人に跳ね返ってくるだけですから、ワタクシには関係ございません。
どっちみち、「修行」の世界に入っても、下手すれば、よけいエゴが強くなり、屈折もしがち、ついでに自己陶酔、かつ思い上がりがちになるのではないかと思います。それはそれとしてまた問題じゃありませんか。

人間に内在する「肉体の制約(限界)」から自由になりたい願望」をどうやって満たすか・・・、そこに個人のセンス?が出ることになるのでしょう。
”自殺”は、周囲にも迷惑がかかりますし、あんまり知的とはいいがたいですね。
私は、趣味の世界に、それも、他人にあまり迷惑がかからないくだらないことに”心底没頭”して肉体があることを忘れるのもいいかと思います。
私の場合は・・・家庭菜園やガーデニングでしょうか。(考えた末、こうなりました・・・)
そういうことをやっているとき、自分が肉体という制約から解き放たれて無限の自由の中にいると、感じることができます。

■死体から学ぶ

みなさんは、死体というものを見たことがありますか? きっとありますよね、親族のとか、ペットのとか。
私も何度か見たことがあります。
インドのガンジス河岸に行ったときには、河原で死体を焼いて(人間のですよ)、「焼け残り」を犬がくわえているのも見ました(べつだん驚きませんでした。とても自然な風景ですから)。また、私の知人は、インドのマドラスの道路に、腐乱した死体が放置されているのを見たそうです。
ともかく、死体を見ると、それは「物質」として見えます。中から、魂?が、すっかり抜けているためでしょう。
これは、とても不思議な感じがします。
逆に、死体こそがむし「当たり前の状態」であり、そこに魂が宿って「動いている人間」のほうを不思議がったり気味悪がる人も、過去に出会ったことがあります。それはそれでわかります。一理あります。

さて、「ヨガ、瞑想」は「何」か、といいますと、「死んだあとに肉体から分離されるものを生前に感知し、コントロールする作業」と、いえなくはないでしょう。
そのためには、最低でも、瞑想中に肉体から意識が離れたと認識したときに、その一方で、自分の「肉体」を「感知」しているようでなくては、「ヨガ瞑想の訓練作業」になっていないと、私は思っています。なぜかというと、そうでないと、脳の自己満足に堕ちてしまっているからです。
私は、過去に、瞑想中のアクシデントとして、肉体からかな~り離れてしまい、肉体を感知しながらも、そこに戻るのに大変な苦労をしてしまったことがあります。あまり愉快な体験ではありませんでした。それはもう怖かったです。そのまま死ぬかと思いました。あせったのなんのって。
そういうとき、自分をコントロールするのは、たいへんなことです。
ま、とにかく、死んで体から離れるものを生きているうちからコントロールしなくては、死んだらもう”おまかせコース”であり、悟りも解脱もありませんよね。だから、生きているうちにどうにかしましょう、とうのが、ヨガであり瞑想である・・・というように私はとらえています。
(とらえているだけで、なかなかうまくできませんし、実のところ危険なことが多いので、内心びびっています)

■「それ」をめざす前に

ものすごく本気のヨガ&瞑想実践者であれば、関心事はやはり、アレではないかと思います。
そこで、快速、驚速のアレテクニックを公開したいところですが・・・・、その前にちょっと・・・。
皆様は、アレ覚醒・上昇だの、解脱だのという状態に、もしもなった場合、自分が社会的にどうなるか、具体的に想像できますか? あるいは想像したことがありますか?
もしかすると、それに関して「輝かしい未来」を描いているかもしれませんね。自分が超能力を身につけ、宇宙の秘密も、何もかもが見通せる状態になり、メディアも押しかけ、本が出て、おカネがザクザク・・・と。
かりに百歩ゆずって、そうなったと、しましょう(なるはずないのですが)。

さて、あなたが自分にそういう能力があることを口に出したとして、正当に評価してくれる友人知人なりは、いるでしょうか?
もしかすると、 「おまえ、へんなことを言うなよ。あぶねえ・・・」てな具合にはならないでしょうか?
職場では、そんなことを口に出せるでしょうか? 親には?
そのように、あくまでも現実レベル、社会生活レベルで、自分が超能力なりを身につけた場合のことを考えてみると、おそらく、ろくなことにならないことに気づくと思います。
そうこうするうち、社会に認められないことがコンプレックスになり、あらたなカルマ(屈折)、トラウマさえ抱え込みかねません。教祖の多くが反社会的なのも、そのへんに原因の一端があるのではないかと、思えるほど・・・。社会への恨みをかかえてしまうのです。
クンダリニーだの超能力がいざなる輝かし未来に酔う前に、そういったことを、いまの時点で、頭の中で「リアルに、どこまでも現実的に」事前検証することは、決して無駄ではないと思います。

それでは、アレ覚醒・上昇・解脱が、対社会にではなく、自分個人に対してどのようなメリットがあるのか、そっちのほうも検証してみましょう。
アレが上昇する、しやすくなるということは、股に、性欲のモトとなるエネルギーが、普通の人のように停滞しなくなるということです。ふだんから、ちびちびと頭部に抜けてしまいますので。
であれば、セックスしたい気分にならないというより、それが面倒と思うようになるでしょう。したがって結婚する場合は、それでもよいという相手を選ばなくてはならないでしょう。ま、その前に、結婚相手に、自分の身体的特性を説明する必要が生じるでしょうが。
さて・・・、どうにか、この、パートナーとの問題も解決できた、とします。
では、あとになにが残るかといえば・・・、おそらく、「自分がアレを操作できた」という「密かな満足感」ではないかと思います。残るのはそれだけでしょう、おそらく。
それでもオーケーという方は、アレ覚醒・上昇と取り組むのもよいかと思います。

でも、ほかにも、まだまだ問題はあります!
どうにかアレの操作が、めでたくうまくいった場合でも、あなたのところには、住民税や所得税、健康保険だの年金だのの請求書は、相変わらず来ます。督促もうるさくきます。住居費等の問題もありますし。
夢のないことばかり書いてしまいましたが、事実ですから。

ヨガや瞑想というのは、性エネルギー(生命エネルギー)からも、社会的な夢からも、遥か離れた何もないところをめざす行為です。
ただ、「それ」をめざす前に、あなたは社会の構造の中にいる、という事実を知っておいたほうがいいと思います。

グル)を求める気持ち

ヨガ、瞑想を実践している人なら、やはり、「自分にグル)がいればいい」、「それも、有能な」、という気持ちが、多かれ少なかれあることでしょう。
そして、グル)を探し求めたり、じっさいにグル)についたり、まあ、いろいろとあるでしょう。
それなのに、「師(グル)」が、理想の形で自分の前に現れていないと、やはり、「師(グル)のいないストレス」を抱えがちです。
そのため、いつもいつも師を探してばかりいて、自分ひとりではこれといったことのできないグル探し症候群になっているケースも多いのではないでしょうか。
私は、当サイトの別のページで、「師はべつに人間でなくてもかまわない。自然物でじゅうぶん」ということを、くり返し述べています。
が、ま、それはそれとしまして、ここでは、”師を求める気持ち”について考えてみました。
さて、冷静になって考えてみましょう。
「自分に師が必要だ」という気持ちは、そもそもいったいどこから来るのでしょうか?
ヨガや瞑想だから、「師」がいるのは当たり前であるし、自分が師につくのも当たり前、という、「根拠不明の当たり前根性」が、そこにはないでしょうか? いえ、95%くらいが、もしかしてそのような先入観では??
だけども、です。
師につく前に、自分ひとりでできること、すべき冒険が、そもそも山ほどあるはずです。
それを自分でやる「根性」のない人が、とりあえず「師はどこだ」みたいになっているのではないでしょうか? おかしいですよ、これ、かなり。
実は・・・、私もそういう傾向があるのです(汗)。過去にもありましたし、いまでもあります。
面白そうな講習会をみつけると、ぐらっときます(でも実際には行きませんが。説明を読んでいるうちに、指導者が信用できなくなってしまうのです)。

とにかく、「師につけば」、ある意味、ラクなことでしょう。
なぜかというと、いまの自分に何が必要か、何をなすべきか、という点において、自分で自分を自己検証する作業をしなくても、師の側が修行の内容を「提供」してくれるからです。”あんたたちは、これをやれ”、というように。
さて、これはどういうことでしょう?(私は、とてもしつこい人間です)

師に修行を提供されたぶん、自分が怠けますよね。それなのに、お金を払うのが、さらに問題。ウマシカ行為。

私は、自分に必要なことは自分で探るべきだと思います。なければないで、よい、その日は。やることがなくていい日も、あるんですよ。
これには、反論もあるでしょう。
「いや、師につけば、高いエネルギーが与えられるのだから、やっぱり近道で良い修行ができるのだろう」、みたいな。
では、とつぜん師に高いエネルギーがシャクティーパットみたいな形で与えられたとして、”自分のなにがどうしてどうなったんだか”、わかりますか? ウン万円の価値を、感じとれますか?
だから、師にそんなわけのわからないことをしてもらうことが「成長」と、いえるのか、っつーわけですよ。

そもそもあなたという人間は、人類全体からみて、師にイニシエーションだのシャクティーパットだのをしてもらえる価値のある人間なのでしょうか?
あのね、まずこれ↑考えましょうね。

  
以上、いろいろ否定的なことを書きました。
自分に師が必要であると、やっきになる前に、自分の価値や、「正しい師」とはどういう師であるかということについて、よく考えていただければと思います。もし、他人にスピードで高い意識を体験させるなどと豪語する師がいたら、そのヒトを「馬鹿まるだ師」といいます。

ですが私は・・・、人間の師(グル)につくのが悪いとは思っていません。むしろ、いい人がいれば、つくべきなのです。
ただ、師を役立てることのできる人(弟子)は、以上のようなことくらい考えられる、ひじょうに頭のいい人でないとだめです。それこそ、師と互角に近いくらい頭と勘がよくないと、もう、師にやられっぱなしです。

自分自身にプライドを持って生きましょう。

■睡眠「あとさき」のひっそり修行

夜、ド~ンと寝て、朝、ぎりぎりにガバッと起きるのは、ヨガ、瞑想の実践者には、実にもったいないはなしです。
というのも、「睡眠」の前と「あと(目覚めたとき)」は、ヨガ、瞑想の”ひっそり修行”に打ってつけだからです。
それも、できるだけ「きわ」がいいです。
つまり、睡眠に落ちる「まぎわ」。睡眠から目覚める「まぎわ」、です。
私たちは普通、人間には「起きている(目覚めている)」ときと、「眠っている」ときの二つがある、と思いがちですが、実際には、その両者の”はざま”に、長くて短い、あるいは、短くて長い、「そのどちらでもない、実にファジーなひととき(意識状態)」が、あります。ま、いわゆる、”もうろう”とした時間帯、のことですが。この、あやうい時間を、ヨガ、瞑想の修行に利用しないテはありません。
健康管理だって、もちろんできます、この時間帯を利用して。
なぜか?
そのような、意識がファジーな時間帯は、肉体という物質の背後にある微細なエネルギーレベルの世界を、感知しやすい状態になっているからです。そして、感知できるようになってくると、自分を、深いところからコントロールできるようになります。
・・・・なこと言っても、じゃ、どうするか、でございます。

■眠りに入る前の修行

眠りに落ちる<直前のファジーな瞬間>を、積極的につくり出し、長引かせることがポイントです。
ひとつに、自己暗示の手法があります。
仰向けになって、自分の体や精神にこもっている「力(りきみ)」を、部分的に、順を追って落とします。これは「力みよ、落ちろ」と、自分に命令を下すだけです。りきみよ、りきみよ、おちなさい、とやるわけです。すると、昼間できない瞑想のレベルまでいけることが多いものです。
力を落とす部分を、できるだけ細分化して自己暗示をかけます。胸、腹、腰、大腿部、親指、などとやったあとは、目玉、まゆげ、鼻、歯、毛穴・・・と、さらにこまかくやってください。
これは、うまくいけば、肉体から力みがとれて、最終的には、意識だけがぽっかりと空間に浮かぶ、というところまでいくかもしれません。かなり、相当深い瞑想で得るのと同じ体験です。
もしそこまでいったら、”ぽっかり”さんの自分を、部屋の天井を抜けて屋根の上、さらに上空へと意識で誘導し、そして、肉体に戻るときは、その逆をやって、「きちんと戻る」ことを重要視してください。そういうふうに自分をコントロールすることが(幽体、エネルギーレベルで)、ヨガ、瞑想の大きな目的なのです。
また、眠りに入る前の修行方法として、「体内のエネルギー」を感じとる方法があります。方法は簡単です。
眠るときに、手の平をお腹か胸の上にあてておくクセをつければ、何ヶ月かあとに、体内の様子を感じ取れる特技が身につく可能性は大きいです。そうなると、具合の悪いところの調整ができるようになります。

■目が覚めてからの修行

寝具の中で目が覚めたら、仰向け状態で、胸の上で、あるいは、両手を頭の上に伸ばして、「手を合わせて(合掌)」していると、生体エネルギーは、体内の正しいルートを通りはじめます。私は、その過程がはっきりわかります(胸の上で手を合わせるのは、やりにくいので、胸の片側のほうに多少手をずらしてもOKです)。
仰向けになっていると再度眠ってしまいそうな場合は、フトンの上に座って、枕をクッションがわりに背中に当てて合掌しているとよいでしょう。

ただ、宗教界で有名になりたい、尊敬されたい、とご所望のかたは、ぜったいにそのような独り修行などはなさいませんように!
できるだけ、他人の目につきやすい場所で、派手に修行され、演技さえまじえ、記録写真なども手際よくおさえながらおこなわれることを、おすすめいたします!

■カルマとは

ヨガの世界では「カルマ」という言葉をよく使います。
「カルマのせいで」とか「カルマの解消」とかいう概念があるようです。
ですが、「カルマ(業)」などという神秘めかした言葉に振り回されてはいけません。他国の言葉だから、語感からくる珍しさもあるのでしょうけれど。
カルマという言葉には、ほんとうはかなり深い意味があるわけでしょうし、日本人とは民族の歴史も違うところから生まれた言葉なので、日本人があまりカルマカルマとこだわるのはどうかと思います。
個人が振り回される「カルマ」の多くは、言葉を変えれば、「遺伝(子情報)」であり、「生活習慣」といえると思います。あるいは「体のクセ」です。ですから、次のようにも言い換えられます。ですから・・・
「個人のカルマ→個人が抱えている遺伝子/生育環境/生活習慣」
「血族のカルマ→血族が抱える遺伝(ガンになりやすいとか)」
「民族のカルマ→民族が抱える遺伝(顔の色が黄色いとか)」
「人類のカルマ→人類共通の遺伝情報(子供を産むとか)」とか、
まあ、そんなふうにも解釈できると思います。
カルマという他国の「神秘めかした言葉」にとらわれてしまう前に、そういう当たり前の「現実」をしっかり認識し、克服することが必要ではないでしょうか。
たとえば、親族がガン(癌)体質だったら、自分はまずそれを克服する。
自分の国の人間が花粉症体質だったら、自分はまずそれを克服する。
なこともおろそかにして、言葉だけ優先してカルマカルマと騒ぐのは、現実逃避だと思います。
なんでもカルマのせいにし、解消のためにはカネも使うというのは、あさはかな行為です。「生活習慣とか遺伝的特性」といえばいいのです。
医学の世界でもとっくに、「人間の中に遺伝子があるのではなく、遺伝子が存続するために人間の体を借りている」といわれています。
つまり、人間なんてものより、「遺伝子」のほうが先である・・・というくらい、遺伝子は根深いというか、すべてのモトなのです。
神秘的な言葉や宗教用語に振り回されていると、何年も、いえ一生を無駄にすることにもなりかねません。(ましてや他人と議論するようでは・・・カルマの上塗り、カルマの二乗、いや、カルマの倍返しですよね・・・)。

■修行なんて甘い

私宅の近所に”禅寺”があります。
といっても、葬式・法事を主体にした、よくある”商業寺”です。わりと大きいです。
さて今年になってから、その寺の跡取り息子が結婚して、おヨメさんとの二人暮しになりました。ところが、3日か4日に一度と恒例化した夫婦喧嘩の派手なこと!
ちょっとした口論から始まって、その後、なにやらドタンバタンと物音がしはじめ、次に、おヨメさんの「痛い、やめてよっ!」という声と共に彼女の子供のように泣きわめく声が始まり、「終了」までおよそ1時間くらいの、派手な喧嘩フルコースです。
まあ、20歳代夫婦ですから、よくある話といえばそうなんでしょうけれど・・家業?が禅寺というところが、どうも笑えません。
ダンナ(夫)のほうは、若いとき何年間か、自宅の寺にはいなかったので、おそらく、よそで修行してたか、宗教学校に行っていたのではないかと思います。

で、私の言いたいことは、宗教的な修行など、「他人(配偶者)相手の生活」に比べれば、かなりラクではないかということです。
なぜかというと、”修行”というのは、何があっても、自分で自分のいいように勝手に解釈できるからです。なんといっても、修行は自己満足の世界ですから。!
ところが、他人相手の、それも結婚となると、けっして思うようにはいきません。自分の頭で解釈、解決、という「脳内、お勝手処理」ではすみません。配偶者から、自分の不利を鋭く突かれます。(とくに私のような女と結婚した日には・・・人生は地獄に近いでしょう)。

男の修行者であれば、宗教の学校や修行場にいるときは食器も自分で片付け、掃除もしていたのが、「自宅ではなんでやらないのよ!? あれは一体なんだったのよ!?」・・・とおヨメさんに詰め寄られるかもしれません。そのあたり、うまく説明(というか弁解)できなければ、おヨメさんからさらに、言葉の鉄拳がとんできて・・・。
あとは修羅場。
抽象論などこねてごまかそうとすれば、喧嘩のさらなるエスカレートは避けられないでしょう。

ま、こういうことも、もとはといえば、修行によって男女を超えた体になるはずが、ならないまま結婚してしまったという、お寺側の人間のいい加減さに原因があるのですが・・・。

現在”修行”にはまっているみなさん。宗教的な修行より、現実の男女関係、人間関係のほうが、ずっと修行になることが多いですよ。
逆にいえば、その現実に直面したくないがために・・・、修行に没頭してるヒトも多いのでは!?
そいういうことは、本人が気がつきたくないだけで、意外と周囲にはみえみえなものです。

(↓後日談)
上に書いた寺の若夫婦の喧嘩の件ですが・・・。じつは私はその後、何年も、聞こえていながら我慢していました。しかし、あまりにすごい・・・。近所は大迷惑です。もう、「すごい寺ね」という噂でもちきりです。
そしてある日とうとう・・・、いつもの夫婦二人だけでなく、別の男がもう一人入って、それはもう、すごい喧嘩になりました。暴力団並みです。近所の人から私宅に、「ちょっとちょっとすごいですね。事件でしょうか?」という電話も入りました。
私は、しばらく聞いていたのですが、関係者のあまりの興奮ぶりに、これは、もしかすると”はずみ”でまずいことになるかも・・・と思って、決断して110番しました。警察を呼んだのです。
で・・・警察が訪れました、禅寺に・・・(^_^;)。
喧嘩は収まりまして、その後、現在まで半年くらい経ちますが、一度も喧嘩は起きていません(周囲に聞こえるような状況では・・・ですが)。

その後、私もこの寺の近所から引越しましたが、どうもその後、”お寺”の印象というのが良くありません・・・。

■日光浴(全体から部分へ)

いまは7月です。気温は高いですが、太陽光に「暴力的なパワー」はないので、「日光浴」をよくします。
私は、十代の頃から日光浴が好きで、その最中に不思議な体験をよくしました。当時はヨガ、瞑想のことも知らなかったので、自分が”へんな雰囲気”になったとき、「なんかふしぎ~、なんかヘン~」という、その程度の気分でした。でも、面白くてやめられなかったです、日光浴。
いまは五十歳代ですが、あいかわらず日光浴好きです。そして、過去にヨガ、瞑想をやりこんでいる体ですので、日光浴の効果が顕著、というか、「太陽光」の効果が早く出るし、具体的にわかります。
太陽に体をさらすと、体内のエネルギー(気)が手足の末端に向かって動き出し、その騒ぎがしずまりますと、こんどは深い瞑想に入れます。
これは、自然の力(太陽の力)を利用した、非常にてっとり早い瞑想への入り方です。誰しも、太陽光に長くあたっていると、なんかボーっとしてきますよね。あの延長線上が、瞑想の世界です。
日光浴を続けていると、閉じた視界の色がいろいろに変わりはじめます。それが徐々に落ち着いてきます。そして、だんだん安定した瞑想の世界に入ります。
夏場であっても、午後3時すぎが、体に優しく、瞑想に適した陽です。ですが、肉眼では太陽を見ないように。
太陽光に当たるということは、目先の瞑想の効果だけでなく、「大きなものに身をまかせる」という点で、すごくいいです。体の具合の悪い方も、思いきって、少しだけでも太陽に当たってみましょう。そのとき、力を抜きましょう。
大きなものに身をゆだねることを知っている人は、精神病にもなりにくいです。精神病になる傾向の人は、さまつなことにチマチマとこだわり、また、自分の立場だけ考える性格です。
ときにはこだわる必要もあるのですが、その一方で、「絶対的に大きなものの中にいる自分」という事実を忘れてしまうと、あぶなくなります。要は、その両方のバランスのとりかたです。
宗教関係者の中には、普通の人間より「おおらかでない」「自己防衛本能」の強い人が多いと思います。
それよりは、サーファーのおにいちゃんや、いわゆる”自然派”のほうが、「大きなもの」に身をまかせているという意味で宗教的な世界を生きていることが多いものです。
修行を心がける人間が、”自然派”に学ぶべき点は多いと思います。

■部分から全体へ

先日、週刊誌を読んでいたら、心身のリフレッシュ法として、ある人が、「両肘(ひじ)を少し熱めのお湯にしばらくつけると、頭まで爽快になる」と書いていました。
それに対して健康アドバイザーなる人が、「人間の体は、部分に刺激を与えると全体が活性化するので、それは正しい」と、答えていました。
私は思わず、う~むと、うなってしまいました。実はそれは、ヨガ、瞑想における決定的な回答でもあるのです。
健康関係は、けっこうすすんでいるのですねー。?
私も、このブログのあちこちに書きましたよ↓。
”自分の体のどこか一箇所に自分の手を当て、ずっとずっと当て続けて様子をみていると、なんと、最後の最後には、”解脱のようなこと”になってしまいます”、と。
具体的に説明しますと、体のどこかに手を当て続けることで、その部位の気が動きますが、気の特性として、「しかるべきルート」を通るという法則があります。人体には、血管や臓器や神経があるので、当然、ある種のルートはあります。
そのルートを、気(微細な生体エネルギーというか微弱電流)がず~っと通ってゆくと、いずれは”股”の部分に集約され(この時点では性欲として感じられる)、さらにそのまま続けていると、ヨガ瞑想をやりこんでいる程度によりますが、股の気が体内を上昇し始めて、ついには頭部から外部へと、抜けます。でもまあ、”気が頭上に抜けた”だけで、クンダリニーエネルギー自体はたいして移動しません。それはまた別の話です。
私自身、何度もやってみて確認したことですが、体の部分的な現象は、「全体」に影響を及ぼします。
体の”小さな部分”をあなどってはいけません。ひとつの細胞をあなどってはいけない、ということです。
指先だって、肩だって、体中どこでも、”解脱のような世界”への入り口です。
先日、よそのホームページを見ていたら、”丹田は臍の下ではなくて、実は体全体だ。わーはっはっはっ”、と書いてありました。じつはその通りなのです。

「部分から全体へ」について、もちょっと説明します。
たとえば、池にポーンと石を投げ込むと、部分的な波紋がだんだん池全体に広がりますね。人体も水をたたえた器のようなもので、同じです。ただ、肉体の諸器官があるので、一応のルートは、あります。
だから、体の一部に手を当て続けて解脱のようなことになる、など、もう困っちゃうくらい、不思議でない現象、というわけです。
なのに「解脱」ということを、神秘的なこと、すごいこと、カネを出せばどうのこうのしてあげます、というようなことを言う宗教家は、相変わらずいるようです。
そんな人は、うさんくさい以上のなにものでもありません。

・・・というわけでありまして、前項では、「太陽に当たって、全体性に身をゆだね、部分を解決しよう」てなことを書きましたが、本項では、「部分からも全体に至れる」てな話になりました。
当たり前ですよね。全体の中に部分があり、部分は全体に含まれるわけですから。
当たり前すぎて申し訳ない話です。

■「想い」に現実がついてくる

以前私は、深い瞑想に入って、その状態で自分に「命令」をかける、ということをよくやりました。
たとえば、「自分の汚れよ、出ていきなさい」とか「疲れよ、出ていきなさい」とか、「細胞、よみがえりなさい」とか、実に勝手な命令を瞑想状態で自分に発していたのですが、これは心の中で「言葉にするようにつぶやく」と、かなり効果が出ました。
そのように自分につぶやいて命令を出すことで、体中のエネルギーがその通りに動いたり、変化が起こり始めるのが、物理的にはっきりとわかるのです。
はじめた当時は、何も思わず、そんなものかと思ってやっていたのですが、あるとき、才能ある指圧の先生の本を読みましたら、「私は、言葉で治せる」と書いてあったので、ははあ同じだな、と思いました。
私がいまここに書いていることをマユツバと思う人も多いかもしれません。ですが、ある程度瞑想のできる方でしたら、決して否定はしないでしょう。
私のように、心の中で言葉にするようにつぶやかなくても、ほんとうは、「想う」だけでもいいのです。ただ、「想い」は、ともすると散漫になりがちなので、私は、集中力を出すために「心の中で言葉にしてつぶやいている」のです。しかしほんとうは、「集中して想う」だけでいいのです。

深い瞑想のできない方でも、できる限りの「静寂な精神状態」に自分をもっていって、そのとき、自分に何か前向きな「命令」をかけてみてはどうでしょか。慣れるにしたがってコツが身につき、効能は出やすくなるでしょう。
これと関連して思い出したのですが、前に新聞にこんなことが書いてありました。
覚せい剤の常習者が、ビルの屋上から屋上へと、その幅が3メートルもあるのに、軽々と飛び移ってしまった、と。
で、それはなぜかというと、「自分は飛び移れると、なんの疑いもなく思ってしまっているため、体がついてくる」からだそうです。捜査員もそれを聞いて、ゾッとしたそうです。
(人は、自らの限界を超えるために覚せい剤に手を伸ばすのかもしれません)。

できうる限り心から雑念を取り払って自分に命令をかければ、自分の限界を超えられることは多々あります。
これは、心理学でいえば、自己暗示といわれるものなのでしょうが。
私が実験したところでは、その方法で、自分の「生体エネルギー」の状態はかなり簡単に変えられる(動かせ)ます。ただ、「金持ちになりたい」などというのは、簡単にはいきません。なぜかというと、それには、自分以外の周囲の状態まで伴わなくて(動かなくては)はいけないからです。”周囲”は、自分以外のものの支配下にあるため、簡単には変えにくいです。
そこまで「手をのばす」前に、まず最低限、自分だけを変えるテクを身につけることが大切ではないかと思います。
自分を変えれば、自分のものの見方や他人のみかたが変わり、周囲や、もっと大きなレベルのことが、関連して変わってくるのではないでしょうか。すると結果的にですが、周囲も変わります。

蛇足ですが、私は、真言がどうとか、マントラがどうとかいう話は大嫌いです。なにかというと、ヘソ曲がりですが。
でも、実際、マントラばかり唱えているヒトの多くが、いつまでたっても大馬鹿なのですから、しょうがありません! いい加減に効果が出てもいい時期なのに。

そんなことよりも、自分で自分をどうしたいのか判断し、言葉を使って自分に具体的な命令を下し、効果を確認し、どんどん、めざす自分になっていく手法のほうが現実的で、私には関心があります。
まとめますと、意識がひじょうに透明といいますかクリアになっている状態だと、そこにポーンと放り込んだ言葉でも、3次元の現実を変えるほどの強いパワーをもつ、ということです。 

■肉体があるうちに

人は死んだらどうなるのだろう?と、思ったことはありますか? 私はあります、もちろんです。
ですが、あれこれ思いめぐらせなくても、「死」は、私たちが毎日体験しているといえます。
わかりやすい例では、「睡眠」です。
人によって、「眠り」がどの程度深いかは、さまざまでしょう。
ですが、「朝、起きたときに”途中の”記憶がないほど眠ってしまって」いるようであれば、それは死の世界とイコールだといえないでしょうか。
正体不明といえるほど眠ってしまっているときは、そのまま死の世界に移行してもおかしくない意識状態ですし、本人だって、何も困ったりしないでしょう。
それなのになぜ、朝になるとまた起きて「生き始めるのか」というと、それは、肉体の側のエネルギーがまだまだ残っており、優勢だからです。

「眠り、そして死」ということと関連して、「覚者」とは何か、ということについてふれます。
「覚者」に、もし資格があるとすれば、それは最低限、「眠っているときも自意識を消失しない人間であること」ではないかと、私は思っています。なんといっても「覚(さ)めるてる者」ですからね、意識が。
「意識が起きてる」わけです、覚者は。
”泥睡”するようでは、覚者には該当しないと思います。つまり、普通の人のように眠ってしまっては覚者とはいえない、というのが私の判断です。
なぜかというと、普通の人のように眠ってしまうような覚者?であれば、肉体が死んでからも早晩、「自意識を消失してしまう」ことは間違いなしです。つまり、自分の意識を保った”有意識”の魂、解脱者として存在し続けることはできないはずです。たかが眠ったくらいで意識喪失しちゃうわけですから。
というわけでありまして、覚者というのは、私は、なまはんかなことでは世界にいるわけないと思っています。
なのに「自ら覚者を名乗る覚者」がもしいましたら、その人は、「覚者とは何か」ということが、そもそもわかっていないのではないかと思います。

では、なぜ人は、睡眠中や死後に、自意識を保つのが難しいのでしょう?
それは、「脳」だけの存在となり、肉体が置き去りにされるからです。脳だけで”漂ってしまう”という希薄な状態になるからです。脳は、それが制御する対象(肉体)を失うと、ひじょうに”はかない”存在になるのです。あっと思った瞬間・・・というのもへんですが、わけがわからなくなって、そのうちどうなったとしても、宇宙のチリになったとしても、その経過さえわかりません。
なにしろ、寝たと思ったら、次に気づいたときには朝、というくらい、脳は鈍感なのです。それなのに自分の生きる死ぬの制御など、とてもじゃありません・・・。

さて、ここで、肉体があることの利点について考えてみます。
それは、脳と肉体が関連づけられている(両方ある)ことによって、双方が支えあうかたちで存在、成立し、自意識を保ちやすくなる、ということです。
だから、せいぜい、生きて肉体を持っているうちに、それを使いこなし、知り、改善しましょうや!、というのが、ヨガ、瞑想の目的ではないかと思います。

・・・てなことを、眠りながら考えている私です。

■起こりがちなトラブル(経験者は語る)

ヨガ、瞑想の進歩のために、日々努力している方は多いと思います。
今回は、その過程で起こる可能性のある”トラブル”についてご説明します。
その方面の修行と研究をある程度されている方を対象に、どんどん書き進めます。
まず、起こることが予想されるトラブルは次の2種類が多いものです。

1)股のところに停滞したクンダリニーエネルギー(性欲エネルギー)が体内を垂直に上昇して頭部に出なかったことが原因の、とくにその直後の後遺症としての肉体的トラブル。
この場合、エネルギーが体内中心部のパイプ(スシュムナー管)にまずとどまりますので、脊髄(背骨)の痛み、とくに影響を受けたチャクラ部分の不調(胸・ノド/咳、眉間/鼻水)となってあらわれます。腰のトラブルも多いです。エネルギーが頭部に停滞してしまった場合は、意識もうろうとなります。要は、衝撃を受けた部位にまず出ます。どこが衝撃を受けるかというのは、遺伝的に弱い部分などがそれにあたります。
そして、その次の段階として、脊髄内部に停滞したエネルギーが、周辺の筋肉にもれだすので、体中がビリビリする、微熱が続くなどの症状にもつながります。

もっともまずいのは、脊髄あたりの神経がイカれちゃうことです!!

2)その後遺症が”さらに発展”したトラブル。

これは、1のような状態で体内に停滞したエネルギーが、どうにもこうにも体外に出られず、さらに長期的に体内にどんどん貯まってゆき、内臓や心臓や脳に影響を及ぼすもの。微熱がずーっと続くもの、などがあります。
最初のうちは、足がだるい、疲れやすいなどの症状ですが、それが徐々に「上に蓄積」してゆき、内臓や心臓にも負担がかかりはじめます。それでもさらに蓄積してゆくと、脳を侵しはじめます。もうろうとします。
そういうことが「一気に突然起こった場合」は、心臓発作、脳障害につながると思いますよ。

★では、どうすれば上のようなことが防げるか、ということですが、これは一にも二にも、「手の平、足の裏のツボを開けておく(体内余剰エネルギーの逃げ場を日ごろから確保しておく)」ことにつきます。体内(胴体)のエネルギーが体内を上昇しないように、足や手足に抜けるような方向にして、非常口を確保しておく、ということです。
で、そのためには、その部分をよくよくもみほぐすか、両手の平を長いこと合わせて、手の平のツボを開けておくことです。手足の末端まで気のよく通る人は、そこが温かい、あるいは熱いです。そこが冷たいタイプは、あぶないです。
ほんとは頭のてっぺんに、外部に抜けるツボが開いているといちばんいいのですが、それはけっこうむずかしかったりするので、とりあえずは手足から、というわけです。
いえ・・・、やさしいといえばやさしいのですが、真面目に落ち着いて取り組むことです、頭上への気の通路を作る作業を。

ただ、こんなことやっているうちに、人生は終わってしまうんですね。
どうせ修行など中途はんぱになるんでしょうから・・・、あと半分は、くだらないこともやりましょう。(正確には”修行より、さらにくだらないこと”というべきでしょうか)

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くだらないこと、といえば。これが結構、あとになって役立ちます!
「自分は何をすべきか。なんの才能もない・・・」などと思っている人でも、中年すぎると、過去にやった、くだらないこと、ムダなことが突然、自分の身を助けたり本業になったりするものです。私なんか、くだらないことしかしてませんから、いまになってほんと、役立っています。
だから、そういう意味では、くだらないこと、ムダなことなんて、きっとないのだと思いますよ、自分の一生を通じてみれば。 自信をもって、くだらないことをやりましょう。

■パワースポットについて

先日、朝日新聞発行の雑誌<AERA>2005年10月31日号の「パワースポット」特集を読んでいて、”ちょっと待てよ”という気分になりました。
その特集には、”パワースポットの効能例”として、次のようなことが書いてありました。
  ・行ったらカレシができた
  ・無口な男性が突然、堰を切ったようにしゃべりはじめた
  ・それまで好きでもなかった花が好きになった
  ・大好きな恋人が平凡にみえるようになった
  ・いつのまにか涙が嗚咽に変わって・・
などなど・・・。
私はげんなりして、それ以上読めませんでした。

以上のようなことって、ふだんでも、ちょっと努力したり頭を使えば、変わることですよね。
大金をつかって何度も国内外のパワースポットに「お出かけ」するのはどうかと思います。
旅行会社は儲かって大喜びでしょうが。馬鹿すぎやしない? 座って3分でも真面目に考えれば、自分のなんらかの斬新な?身の振り方くらい、思いつきませんかね。

さて・・・、そのパワースポット特集の中で、臨床心理学者の河合氏がこんなふうにコメントしていました。
「パワーを吸収できる力強い異性がそばにいないから、パワーをチャージできる場所を探しているのかもしれません」。 
やれやれ。この心理学者のそのコメントだけが、私には真理に思えました。・・・

マジな話。かなり「気の鍛錬」をしている人がパワースポットに近づくと、なんらかの肉体的な不具合が出たり、精神が異常な状態になることがあります。
パワースポットに近づくにつれての、激しい頭痛、腹痛、子宮痛、予定外の生理、大きなオデキ、などなど。強い磁場に近づくにつれて、体が反応する人がけっこういるものです。(私も過去に、散々のことがありました。あっ、べつに”過去”に限らないか・・・)。それは、内部の”気”が活発に動きはじめるからです。
なんでかというと、特殊な磁場(地面の特性)が備えている、ふだん体験したことのない大きなエネルギーの影響を受けるからです。
地面にエネルギーなどあるか?という向きの人もいるかもしれませんが、地震の研究者などは、もうそのことがわかっています。いろいろな方法で測定をしています。
それに、地下に火山帯があるかないかでも、地面の状態、大違いのはずですよ。

パワースポットに近づき、慣れない地面のエネルギーが体に影響を及ぼすと、体内ルート(経絡)が次々と無理やり開かれます。その結果として「起こる」ことは決して、”心地よい”ことではありません。むしろ逆のことが起こる可能性も大です。敏感な方なら、パワースポットに着く前に引き返さざるをえなくなるかもしれません。
登山家でもいます。「あの山に近づくにつれて猛烈な頭痛が・・。今回は3度目の挑戦です」みたいな人が。私の知人にもいました。
でありますからしてですね、「パワースポットに行って、いいムードだった」というのは、決して「自慢の材料」にはなりません!! 逆に、恥の材料にはなっても・・・。

パワースポットツアーの参加者の”気持ち”を想像すると、複雑な気分になる私です。


■鈍感と敏感

自分の状態(心身の)が悪くなっていくとき、自覚症状というのは、ほとんどないものです。
なぜかというと、「悪くなる」ということは、言葉を変えると「鈍感になること」とも、いえるからです。
ものごとが、すみからすみまで、なにからなにまで、脳がパキッと覚醒して把握できるのが「良い」状態、覚醒した状態といえるでしょう。反対に、ヨガ瞑想的に「悪い」状態は、それができない状態、すなわち鈍感な状態、といえます。
ですから、悪くなっていくこと自体、把握できないわけです。
精神についても体についても同じです。本来、体のすみずみにまでエネルギー(気)の流れる道が開け、ゆきわたり、生体のエネルギー良く流れているのを「良い状態」とすると、悪い状態の場合は、エネルギーの流れの量が少なくなり、その部位が、機能として「鈍感」になっていくということです。これも意識(精神)と同じで、悪くなっていくときは”鈍感”な方向へ行くため、自覚症状がないものです(もし、あったらたいしたものです)。
さて、悪い状態がそのまま進み、当人の何かが壊死(えし)するかもしれない方向にいきはじめると、心身は、自己保存本能から、全体的な調和を取り戻そうとして、新たな活動を始めます。すっかり閉ざされた体内のエネルギールート(経絡)を全力で押し広げようとか、そんな悪あがきが始まります。
そのときにはじめて、本人に「自覚」が生じます。”自分に何かが起こっている”、と。”痛い”、と。または精神的にぐらついたり、など。
多くの場合、人は、この時点で何かを自覚します。悪くなる過程では自覚しなかったことを。
だから、前に何かで読んだのですが、ある医者が「病気だと思っているものは、実は治ろうとする力だ」と書いていましたが、その通りなのです。
なんか、書いてる私もややこしくなりましたが、病気だと自覚したその時期は、「どうにかしなくては」と何かが動きはじめる、実に重要な、ターニングポイントなのです。
ですからこのとき、薬などに頼って、さらに自分を鈍感にしてゆくのは考えものです。多くの人は、”症状をおさえる”という目的でここで薬を使います。自分でさんざん悪くしておきながら、とつぜん医者や薬に頼るものです。
しかし、ヨガや瞑想の実践者であれば、”いまがチャンスとばかり、”改善(自分の救出)”に乗り出すべきでしょう。それまでの鈍感から脱するのです。
それには、何が原因で何が起こったかを、精神を集中させて敏感に悟り、であれば何をすべきか察知すべきです。敏感さを総動員しなくてはなりません。
さて、かといって、敏感な感性ばかりが発達していると、社会生活はしにくくなるので、鈍感と敏感のバランスは、じつに大切です。
ちなみに私は、近年になっての話ですが、自分の敏感さに呑み込まれないよう、かなり苦労をしています。
私の場合、手を膝の上に置いただけでも、そのことが発端で、内部の様子がわかり、エネルギーの移動が感じられ、さらに、さらに・・・という方向に行くので、実は「手のやり場」にも困っているありさまです。
さらに、体内の不用エネルギーが足先から出ないとき、そこからどんどん上に溜まっていくのがわかり、心臓発作が起こるのではないかと心配と恐怖のあまり、ほんとうに発作が起こりそうになります。
こういうのは一種の病気です。

自分にとって、鈍感と敏感がうまく折り合う位置をみつけることこそが、大切だと思います。

■人類消滅への、ご招待

1986年4月に、ウクライナのチェルノブイリで大きな原発事故が起き、たくさんの犠牲者が出ました。近辺住民は強制疎開させられ、現在に至ります。事故エリアに近いところでは、いまでも、放射線測定器のスイッチを入れると数値がどんどん上がり、東京の自然放射線の約500倍を測定するそうです(朝日新聞)。
あたりの、人が消えた森は、動物の楽園と化したそうです。400種以上の野生動物が繁殖し、特にイノシシ、オオカミ、鹿などが激増しているとのことで、政府は野生動物の保護区の設置を検討しているとか

人間が消えうせ、そこに動物たちの楽園が生じるとは、皮肉なことです。逆にいえば、人間がはびこることで、人間以外の生き物の自由な暮らしを奪っているといえますよね。

人間と人間以外の生き物。この双方の関係を考えるとき、私はつねに、”人間の大罪”、を感じます。

実をいうと、現在、私自身が自分のためにヨガや瞑想をやる必要はさほどありません。同時に、人類のために、という目的も、ま~ったくありません。
世界人類の幸せのために、ヨガ、瞑想をやり、祈りもするなんて・・・、そんなことは考えたくもありません! いったいなんという甘ったるい”人間勝手”な発想でしょう! ほとんどゾッとします。

人間は、同じ地球上の生き物である動植物の生存を、ほとんど支援できないという、実に迷惑な生き物です。そんな情けない生き物である人間を、これ以上存続させる必要って・・・あり? と、私はときどき思います。
それだけでもすでに困った生き物であるのに、さらに、”ある人種の幸せのために”戦争を仕掛け、多くの国で、政治家は欲の丸出し状態です。
”人類の幸せのために”という願いは、地球生命全体からみれば、ある意味、悪魔の発想にも近いのではないでしょうか。

ですが、もし・・・、私がヨガや瞑想を続けることが、地球上からその”悪魔の発想”(をする人類)を消滅させることにつながるなら・・・、私はこれからも、ヨガ、瞑想をやり続けるつもりです。じつはときどき、そう思ってやっています。

私は、人間を美しいとも醜いとも、なんとも思いません。

このブログで主として説明している「クンダリニー操作」の基本は、人間の繁殖エネルギーを、体外に追い出してしまうことです。
したがいまして、そういうことをする人がふえますと、人類の繁殖にはブレーキがかかるでしょう。
クンダリニー(性エネルギー)情報を提供する、この私のブログは、「人類消滅への招待状」ともいえます。

それでも宜しければどうぞ実践してください。
(しかし、ほんとうにやばい体験は、私自身の、書いていません。
同調する人がいると、あぶないからです)

人類以外の生物の自由な人生のためには、クンダリニー修行はとても良いことだと思います。