的場さんのギター教室のことと拓郎さんのギター教室のことを少し書いた。この二つのギター教室が広島フォーク村の中心にあったことも。ついでに広島フォーク村という“共同体”一一広島フォーク村という集まりのことを表す場合、「サークル」「同好会」「アアマチュア音楽団体」というような言葉ではどうもしっくりこない。「共同体」という言葉を辞書で引くと「人が地縁・血縁・精神的結合などによって自然に形成した社会。家族・村落など」とあった。ややおおげさな気もするが、広島フォーク村は、「当時の広島の若者がフォークやギターやポピュラーミュージックの縁によって自然に形成した共同体」だった、というのが一番実相に近い表現ではないかと思う一一がどのような構成・つながりになっていたのかを簡単に説明しておきたい。
 二つのギター教室が中心にあり、そのまわりに、二つの大きな環があった。一つは大学・短期大学(広大、広島商大、比治山女子短期大学、鈴峯女子短期大学などの学生が多かった)のフォークソング同好会などの環で、もう一つは高校(修道高校、広島女学院高校、比治山女子高校、広島女子商業高校、鈴峯女子高校、ノートルダム清心女子高等学校などの学生が多かった)の環である。
 本来なら、大学のフォークソング同好会の場合であれば、その同好会が発表会をやり、他の大学の同好会と交流したりして、大学生同士のつながりになるし、高校の場合でも大学と似たような状態になるのが自然なのだが(むろん、当時もそうした動きはあったが)、同好会の発表会などよりも広島フォーク村の
コンサートのほうが活発で人気があったので、活動や発表や交流の場を広島フォーク村に移していくようになっていた。特に広島商科大学の場合は、拓郎さん、村長、いちごの木、ユニオンジャックス(宮城由起夫/僕)、友広信夫(ボニーとクライド)一一と書いていて今ふと、広島フォーク村のアルバムは、広大の「ムツゴロー」と修道高校の「グルックス」以外は全部、広島商科大学の学生によるものだったことに気づいた一一が広島フォーク村のメンバーで、大学内での先輩後輩という関係よりも、広島フォーク村での仲間同士という人間関係になっていた(実際、今度の40周年記念ライブで拓郎さんや村長やいちごの木と再会する場合も、大学の先輩と再会するという感覚はまったくない。それに、当時は、僕だけでなく、男女を問わず、いろいろな仲間が拓郎さんのことを「拓ちゃん」と呼び、伊藤さんのことを「村長」と呼んでいた)。
 組織のことは以上にして、村長のことを書こう。何度も書いているように広島フォーク村の中心は的場さんと拓郎さんのギター教室ではあったが、的場さんと拓郎さんだけでは、広島フォーク村のムーブメントは起こらなかったに違いない。なぜなら、的場さんも拓郎さんも“活動家”タイプではなく、どちらかといえば、群れるよりもわが道を行くタイプだったからである。
 村長は実にいろいろな功績を残しているが、最大の功績の一つが、フェローシップを積極的にやったということがある。40年経っても私たちが喜んで集うのは、やはりコンサートやレコーディングやフェローシップによって、いろいろな思い出を共有しているからだと思う。ここで、僕がつくった箴言を一つ。「人間は、良い思い出をつくってくれた相手にはいつまでも感謝し続け、悪い思い出を残した相手のことはいつまでも憎み続ける」。
 今、広島フォーク村の年表を見ると、広島フォーク村が誕生した翌年の1969年(昭和44年)の8月19日〜23日に、私たちは広島県山県郡雲月小学校で夏季合宿を行っている。僕はこの合宿のことを今でもはっきりと覚えている。なぜなら、この合宿のときに僕は拓郎さんにはっきりと意識してもらったからだ。
 広島の山奥に向かうバスの中で、拓郎さんはおそらく僕のことを「こいつは俺のギター教室の生徒だ、そういえば授業料を只にしてやってたな、ギター教室のときには気づかなかったが、こいつ面白いところがあるな……」と思ったはずだ。なぜなら、僕はこの合宿に参加するにあたって、絶対に拓郎さんと親しくなる!と心に決めていて、ある作戦を立て、それを実行したからである。

以下続く