2016-01-132015年12月28日の日韓合意について

昨年12月に、慰安婦問題に関して日本と韓国の外相会談が開かれ、解決にむけての日韓政府間合意が成立した。この件につき、1月初めに韓国のある雑誌から、質問を受けた、以下に掲げるのは、その質問に対する回答である。備忘のために記録しておく。
質問1.この問題を研究されてきた学者から見て、慰安婦問題での今回の合意に対して、その内容・形式・過程などを肯定的に評価されますか、それとも否定的に評価されますか? その理由も一緒にお教えください。
回答1
2011年に韓国憲法裁判所は、元「慰安婦」の損害賠償請求権問題の解決をめざして、韓国政府が具体的な努力をしないのは憲法違反であるとの見解を示しました。これにより韓国政府は日本政府に対して「慰安婦」問題の解決を求める外交交渉を進めるべき責務をおったわけです。その交渉の結果が、今回の日韓合意でありました。いろいろ問題を抱えてはいますが、困難な外交交渉を乗り切って、ともかくも合意にまで至ったことは、韓国政府にとっては自己に課された責務を果たしことになると思います。
しかし、今回の合意はあくまでも日韓両政府の間の合意であって、被害者であり、損害賠償請求者である元「慰安婦」の方々の合意はまだ得られていません。被害者である元「慰安婦」の方々が納得して認めた時に、はじめて「慰安婦」問題も解決されたと言うことができるのであり、すべては、この合意で示された解決策に対して元「慰安婦」の方々の同意が得られるかどうかにかかっています。
今のところその同意を得るのは困難にみえます。なぜならば、今回示された解決策は、ご承知のように、かつて1990年代に日本政府が実施した解決策の延長線上にあり、それを補完するものにすぎないからです。90年代の解決策とは、「河野談話」の公表と「女性のためのアジア平和国民基金」の「償い事業」との組み合わせを言います。当時の日本の内閣は、日本軍の慰安所政策により「多数の女性の名誉と尊厳」が傷つけられたとし、それに対する軍の関与と政府の責任を認め、謝罪と反省の意を示しました。しかし同時に、植民地時代の被害に対する請求権問題は、日韓基本条約の締結時に解決済みであるとして、国家による賠償には応じませんでした。
それに代わる便法として実施されたのが、民間基金による「償い事業」で、これに日本政府が補助金を与えることによって、実質的な政府補償の代わりとするというのが日本側の理解でした。 しかし、ご存知のように、この90年代の解決策は、欺瞞的・不誠実であるとして、韓国の元「慰安婦」の方々から忌避され、「慰安婦」問題の完全な解決にはいたりませんでした。現在の「慰安婦」問題の淵源のひとつは、この90年代の解決策が成功しなかったことに求められます。
今回の日韓合意で日本側が提示したものは、この90年代の解決策を継承し、それを補完するものであって、元「慰安婦」の方々から提示された批判に応じるものではありません。それゆえ原理原則からみれば、元「慰安婦」の方々にとって、今回の合意による解決策を受け入れるのはかなり難しいことだと思われます。
質問2.1965年韓日協定で請求権は終了されたというのが日本政府の立場であり、今回もその部分は変わっていないと見えますが、1965年当時の韓日協定に比べたら、(慰安婦問題に限られますが)今回合意の特徴や性格はどうだと見ていらっしゃいますか?
回答2
1で述べたように、今回の合意は、90年代に日本側が提示した解決策を踏襲したもので、その繰り返しにすぎません。日韓協定における請求権問題との関係について言えば、請求権問題はすでに解決染みであり、国家が法的責任を負う損害賠償には応じられない、しかし元「慰安婦」の方々が被害を受けたことは事実なので、それに対しては請求権問題の法的な枠組みとは別に処理するというのが、日本側の論理でした。今回もその論理によって処理されていると思います。
質問3.今回の合意のずっと前、アジア女性基金という試みがありました。一部の被害者以外には拒否しましたが、今回は民間募金ではなく、日本政府の予算というところが違います。アジア女性基金に比べると、今回の合意結果をどう評価されるかを教えていただけませんか?
回答3
すでにアジア女性基金の段階で、基金を運用する財団への補助金というかたちで、日本政府の予算から資金が流れ込んでいました。今回は韓国政府の責任でつくられる財団に日本政府が支援するということですので、その点においてちがいはありますが、大筋においては大きなちがいはないのではないでしょうか。
質問4.今回の合意で安倍晋三首相は、首相として元慰安婦に対し「日本政府の責任を痛感」「心からのおわびと反省」を表明しました。今回の合意を、謝罪・責任認定という点から見ると、どのように評価されるかをお聞かせください。
回答4
今回の合意において、安倍政権は「河野談話」を踏襲し、「軍の関与の下、多数の女性の名誉と尊厳を傷つけた」として日本政府の責任を認め、内閣総理大臣の心からのお詫びを表明しました。安倍政権の今までの態度からすれば、これは大きな譲歩であり、ある意味では「英断」と言ってもよいかと思います。これ以降、安倍政権が「河野談話」に対して否定的な立場をとったり、「慰安婦」問題に関して、その犯罪性もしくは非人道性を否定したり、軍の関与や政府の責任を否認したりすることは、非常に難しくなります。その意味で、日本国内の歴史修正主義的な動向に対する大きな歯止めとなることが期待できます。
安倍政権が、これほどの譲歩をなぜおこなったのか。ひとつの理由は回答5で述べますように、韓国政府を巻き込むためには、その譲歩が絶対に必要であったためだと考えられます。また、安倍政権が最初とろうとしたような、「人さらい的な強制連行の有無」のみを問題にする姿勢では、国際的に通用しない、とくにアメリカ合衆国からの側面支援をえることはできないことを、学習したからでもありましょう。また、安保法制を成立させて自信をもった安倍政権は、たとえそのような譲歩を行っても、国内の右派からの反対を容易に乗り切れるとの計算も働いていたのかもしれません。
質問5.「平和の碑」(少女像)に関連して、少女像の撤去が合意の前提条件だったとか、「適切に移転されると認識する」などの発言・報道がありました。韓国政府は今回の合意で、この少女像に対する懸念に関して、関連団体との協議などを通じて適切に解決されるよう努力するとしました。この問題に対して、両国はどう対応すべきだと見ていらっしゃいますか?
回答5
今回の合意は、1で述べたように、90年代の解決策の再提示であるわけですが、90年代のそれにはなかった新しい要素が含まれています。それは韓国政府のコミットメントです。今回の日韓合意により、韓国政府は日本政府によって提示された解決策を受け入れ、それを元「慰安婦」の方々に受け入れてもらうように説得する義務を負ったことになります。日本側からみれば、90年代には日本側の提示した解決策は元「慰安婦」の方々の拒否に出会って、うまくいきませんでしたが、今回はその反対を説得する役割を韓国政府に引き受けさせることに成功したことになります。
「河野談話」に対して否定的であった安倍政権が、今回の合意において、軍の関与と政府の責任を認め、謝罪と反省の意を示して、「河野談話」を踏襲するという大きな譲歩をあえておこなったのは、それと引き替えに韓国政府から上記のような約束をとりつけることができたからであると、私は考えています。
今回の合意は、じつは「慰安婦」問題解決の責任を日本政府から韓国政府に肩代わりさせる巧妙な外交的措置と解釈できるのではないでしょうか。その側面を象徴しているのが、「少女像」撤去要求だと思います。
質問6.今回の合意に対する日本内の全般的な世論をお聞きしてよろしいでしょうか?社会全般的に見ると、どういう雰囲気を読めるのかをお聞きしたいと思います。
回答6
マスコミの論調には詳しくないので、日本国内の動向は正確なところはわかりません。ただ、日本国内の多数の雰囲気としては、今回の合意に基づいて、「慰安婦」問題が解決し、「慰安婦」問題について日本が韓国から批判されることがなくなれば、それを歓迎するというものだと思います。韓国側がそれを拒否した場合、日本国内の多数は、それに対して韓国側に理があるとは考えないだろうと推測されます。元「慰安婦」の方々が今回の合意を拒否するのには、それなりのきちんとした理由があることを理解できる日本人は、残念ながら少数にとどまります。
いっぽう、「慰安婦」問題の存在そのものを否認する右派の人々は、今回の合意において安倍政権が日本の責任を認めたことに対して失望しているようです。
質問7.いわゆる吉田証言が誤報だったと「朝日新聞」が認定し、はたして韓半島で強制連行はあったのかをめぐって朴(パク)ユハさんが「帝国の慰安婦」で主張するなど、強制連行に対する疑問が出てきました。「すくなくとも韓半島では強制連行はなかったし、少女が日本軍や警察に連行されるようなことはなかったり、あったとしてもきわめて例外的な事例なので、日本に法的責任を求めるのは無理」という一連の主張について、どのようにお考えになりますか。
回答7
私は、そのような議論は、日本の右派がつくった「強制連行の有無のみを争点とする」議論の枠組みを無批判に受け入れてしまっているので、問題があると考えています。パク・ユハさんの主張では、慰安所で働く女性を集める役割を担っていた民間人(純粋な民間人ではなくて日本軍から業務を委託されている)が、就業詐欺や人身売買で女性を集めてきて働かせ、日本軍がそれを黙認して、女性を解放せずに、そのまま軍の管理する慰安所で働かせていても(これは当時においても立派な犯罪です)、日本軍には法的責任はないということになります。
パク・ユハさんの軍慰安所に対する認識は、もっぱら秦郁彦氏の慰安所=戦地公娼施設論に依拠しています。しかし、秦氏の説が誤りであることを、私は軍や警察の史料を用いて実証しました。
質問8.合意結果をめぐっては、「この道以外にはない」から、「受け止められない」、「無効」との声までも出ていると思います。とくに被害当事者と、支援団体は、「無効」「無視する」と全面的にしています。(被害当事者に関しては、受け止めるという方もいると報道もありましたが、その方も満足ではないと言っていました)慰安婦問題の真の解決のためには、これから両国がどうこの合意結果を受け止めて、これから何をすべきかに対するご意見をお願い申し上げます。
回答8
今回の合意にもとづき、韓国政府は提示された解決策を受け入れるよう、元「慰安婦」の方々に対して懸命の説得をおこなうことになるでしょう。その説得工作が成功するかどうかは、私にはわかりません。それを決めるのは元「慰安婦」の方々です。彼女たちの決断がどのようなものになるにせよ、その結論は尊重されねばならないと思います。