第42回 橋本聖子仮説
もはや言うまでもないことだが、クマムシは強い。この生きものはさまざまな極限環境を生き抜く。クマムシのがまん強さが発揮されるのは、乾燥した乾眠状態のときだけ……なんて思ったら大間違いである。クマムシは水を含んだ通常の活動状態でも、ある種の極限環境を生き延びることができる。たとえば、凍結。乾眠状態のクマムシはほぼ絶対零度にさらされても生存できることが知られているが、クマムシには通常状態で凍っても死なない種類がいる。
野生のヨコヅナクマムシは札幌市のコケの中から見つかった。冬の間、コケは雪に覆われる。春先などは雪の融解と再凍結が繰り返されるため、コケの中のヨコヅナクマムシもやはり融解と凍結を経験しているはずだ。私たちはヨコヅナクマムシが凍っても生きられるかどうかを確かめるため、冷却装置を用いて凍結させて融解させてみた。冷却装置の中のクマムシは、顕微鏡で観察できる仕組みになっている(本実験は東京工科大学の梶原一人教授と広島大学の川井清司准教授の協力のもとに行われた)。
ヨコヅナクマムシの体は氷点付近になると縮み始めた。温度を氷点より下げると、まず体の周りの水が凍結して氷となり、その氷が成長してヨコヅナクマムシの体に接触すると、体の色が一気に黒くなった。これは、体内の水が凍ったことで光の屈折率が変化したためである。次にゆっくりと温度を上げて融解すると、クマムシの体もふたたび元の色に戻り、しばらくするとヨコヅナクマムシは動き出した。ヨコヅナクマムシは凍結しても死なないのである。
ヨコヅナクマムシのこのような凍結耐性能力は、札幌のような寒い地域で役に立っているのだろう。南極に住んでいるクマムシ種も多い。南極で採取され30年間凍っていたコケから見つかったクマムシが復活した例も、国立極地研究所の辻本恵博士らにより報告されている。
ただ、クマムシの凍結耐性能力は「過剰」である。というのも、乾眠状態にならなくても地球上には存在しない-200℃付近にも耐えてしまうからだ。ヒトの細胞もグリセロールなどの凍結保護物質などを用いれば、かなり低い温度でも死ぬことなく保存できる。だがクマムシの場合は、そのような処理がなくても凍結に耐えられるのである。
クマムシが凍結耐性を身につけたのは、寒さに適応した結果ではないのではないだろうか。私はそう考え、以前、熱帯のインドネシア・ジャワ島に生息するオニクマムシの凍結耐性を調べたことがある。予想通り、インドネシアのオニクマムシも凍結耐性をもっていた。
暑い場所に住んでいるのに、凍っても死なない。では、なぜこんな無駄ともいえる能力をもっているのか。おそらく、クマムシは乾燥耐性を獲得した結果として、たまたま凍結耐性も身につけてしまったのだと思われる。
クマムシは海から陸地に進出する際に乾燥耐性、すなわち、乾眠能力を獲得したと考えられる。生物は乾燥するときだけでなく、凍結するときも細胞から水が失われる。つまり、乾燥と凍結は似たようなストレスなのである。オニクマムシやヨコヅナクマムシでは乾燥に対処するためのメカニズムが、そのまま凍結に対しても応用されているのだろう。
この現象は、橋本聖子仮説と名付けられた。スピードスケートを一生懸命に練習した結果、予期せず自転車競技も得意になって、両方の競技でオリンピックに出場した橋本聖子氏とクマムシのケースが酷似しているからである。このように、何かにチャレンジしていると思わぬ効能をもたらすことは、我々の生活でもたまにある。日々のつまらない業務も、没頭しているうちに何か別の用途に役立つと思えば、やる気も出てくるというものだ。本当にそうなるかどうかは、まったく保証できないが。
つづく
堀川大樹(ほりかわ だいき)
1978年、東京都生まれ。地球環境科学博士。慶応義塾大学SFC研究所上席研究員。2001年からクマムシの研究を始める。これまでにヨコヅナクマムシの飼育系を確立し、同生物の極限環境耐性能力を明らかにしてきた。2008年から2010年まで、NASAエイムズ研究センターおよびNASA宇宙生物学研究所にてヨコヅナクマムシを用いた宇宙生物学研究を実施。2011年から2014年まで博士研究員としてパリ第5大学およびフランス国立衛生医学研究所ユニット1001に所属。『クマムシ博士の「最強生物」学講座――私が愛した生きものたち』(新潮社)、『クマムシ研究日誌 地上最強生物に恋して』(東海大学出版部)の著書がある。Webナショジオ「研究室に行ってみた。」の回はこちら。人気ブログ「むしブロ」および人気メルマガ「むしマガ」を運営。ツイッターアカウントは@horikawad。