2016年1月4日、安倍晋三首相は年頭の記者会見で、「憲法改正はこれまで同様、参院選でしっかりと訴えていく。その中で国民的な議論を深めていきたい」と述べました。
これから何回かにわたって、与党政治家の発言や政策の状況を参照しながら、現政権の性格と自民党が主張する「改憲」の意味することを見ていくことにします。
憲法としての問題は、既にこれらで明らかにされています(上記の図書のいずれかに、ぜひ目を通して下さい。最後のものは岩波ブックレットで562円です。)。ここでは、現在、起きていることとの関係も考えながら、自民党の「改憲」がどんなことを意味しているのか、見てみることにします。
現在、「改憲」の中で、優先事項とされているのが「緊急事態条項」です。
しばらく前から話題にあがり、安倍首相が2015年11月の衆参予算委員会審議(国会は閉会中)で「緊急事態条項」の必要性を強調し、2016年1月8日には「緊急時に国民の安全を守るため、国家と国民が果たすべき役割を憲法にどう位置付けるかは、極めて重く大切な課題だ」と述べたことから、改めてクローズアップされています。
1. 「緊急事態条項」
「自民党改憲草案」第98条(緊急事態の宣言)と第99条(緊急事態の宣言の効果)として付け加えられているものです。
1.1 「緊急事態」とはどんなときか?
「自民党改憲草案」第98条第1項には、
我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
とあります。
ここで、問題となるのは、「内乱等における社会秩序の混乱」という文言、そして「その他の法律で定める緊急事態」という文言です。
まず、「内乱等」の「等」です。「等」はいわゆる「霞ヶ関文学」の典型で、「事実上何でも入れられるようにしてしまう」機能を持ちます[1]。極端に言うと、何かのコンサートでファンが詰めかけて、といったことも「等」に入りうることになります。国会前のデモなどももちろん「等」の中で扱われ得ます[2]。
第二に、「法律で定める」という点です。国会でこの部分を拡大する余地があることになります。立憲主義のもとでは、憲法は国民が権力に対する制限を課すものですから、重要概念の範囲を法律に委ねることは原則としてはしません[3]。
1.2 「緊急事態」には政府と市民の位置づけはどうなるか?
まず、上で見たように、第98条第1項で、緊急事態の際には、内閣総理大臣は「緊急事態の宣言を発することができる」とされます。第2項で国会の承認を得ることが条件として課されていますが、事後でもよいとされています[4]。
第99条第1項には、「緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる」とあります。
第3項では、緊急事態宣言が発せられた場合、誰もが、「当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない」ことを定めています[5]。
第4項では、緊急事態宣言が効力を有する間は、「衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる」というものです。
「緊急事態」になると、
- 行政府が立法府の役割を担うことができ、
- 市民は政府の支持に従わなくてはならず、
- 市民が立法府の代表を選ぶ権利は停止されうる、
ことになります。
全体を簡単にまとめると、
- 内閣が恣意的に緊急事態を決めることができ、
- 緊急事態宣言下では、民主的な手続きは停止され、
- 行政府が立法府の機能を担えるようになることで権力の分立も無効にされる、
ということです。
以下では、(a) 非常時にはそれもやむないのだろうかという点と、(b) 「緊急事態」を内閣が決められるような体制はどのような社会をもたらすのだろうかという点を---理屈ではなく、今の状況と傾向に即して---検討することにします。
今回は、後者について。
2. 「あの手口」と「緊急事態条項」
2013年7月30日、麻生太郎副総理兼財務相は、次のように発言しました。
『静かにやろうや』ということで、ワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか。僕は民主主義を否定するつもりもまったくない。しかし、けん騒の中で決めないでほしい。
「ナチスの改憲手口に学んではどうか」という発言として報道されたものです。
ワイマール憲法を無効化したナチスの手口を学んで、改憲あるいはそれに相当することを(できれば騒がれずに)したい、と言うことでしょう[6]。
ナチスというと、ユダヤ人やロマ、障がい者の虐殺、近隣諸国の併合・侵略が頭に思い浮かびますが、これらはむしろ政策の内容や帰結であって、政治プロセスでナチスが用いた「手口」という点で決定的に重要だったのは、1933年の「全権委任法」です。
そして、全権委任法の核は、内閣が立法府も兼ねること、でした。
3. 市民と政府の関係
さて、「緊急事態条項」は、行政府が立法府も兼ねることを可能にするものであり、さらに「緊急事態」の範囲も行政府が決められる余地があることは1で確認しました。
そのような規定を導入したのは(ちょっと心理レベルの用語を使うと)、自民党の政治家たちが、本来の立法府である国会の手続きなしに法律(に相当するもの)を決めて政治をやりたい、という欲望を持っていることを示唆しています。
また、この条項を改憲草案に入れたことは、国民が国に課す制約としての憲法の位置づけを変えることにもつながっています(これについては別途検証しなくてはなりませんが)。
ところで、国会は一応、市民の代表として選挙で選ばれる議員から構成されますから、国会の手続きなしにやりたいというのは、政治は市民のものではないと見なしていることを意味します。
日本という「国」に関わる意思決定に市民を関わらせない、というのは、国が市民のものではない、ということを示しています。
実際、何人かの自民党議員や関係者は、あからさまにそのようなことを意味する発言をしています。
そもそも国民に主権があることがおかしい。(西田昌司参議院議員・副幹事長, 2012年11月)
時々、憲法改正草案に対して、「立憲主義」を理解していないという意味不明の批判を頂きます。この言葉は、Wikipediaにも載っていますが、学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。昔からある学説なのでしょうか。(礒崎陽輔前首相補佐官, 2012年5月27日)[8]
「これは国家の独立の為だ、出動せよ」と言われた時に、いや行くと死ぬかも知れないし、行きたくないという人がいないという保証はどこにもない。だから国防軍になったらそれに従えと。それに従わなければその国にある最高刑がある国なら死刑。無期懲役なら無期懲役。懲役300年なら懲役300年。(石破茂幹事長(当時), 2013年4月21日)
国は市民のものであるべきではない、日本は国民主権であるべきではない、という考えが、自民改憲草案の背後にあるとすると、では、国って誰のものなのか、そして市民はどこに位置づけられるのか、という疑問が浮かびます。
緊急事態条項のあり方や、西田昌司議員・磯崎陽輔首相補佐官、そしてとりわけ石破茂幹事長の発言から、大体(ちょっと乱暴ですが、粗いところの一部は後で個別に検討していきます)、日本を、国は政府のもので、国民は国のものであるような国にすることを望んでいるのではないかと推測できます。
そのような社会のかたちを整理する前に、日本国憲法を有する日本では、市民と政府(行政府・内閣)の関係がどうなっているかをちょっと確認しておきましょう。
日本国憲法の第73条に、内閣が何をする組織であるかが書かれています。以下のようになっています。
三 条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。
四 法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。
六 この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。
七 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。
大切な言葉は「事務」です[9]。政府って、市民のために、事務をする組織なんですね。
国民主権・立憲主義の国である日本では、「国のかたち」は、概略、次のようになります。
主権者である国民がいて、その一人一人が自由と権利を最大限発揮する環境を整えるために、議員を選んで制度を整え、内閣(行政府)はその制度を運用するために必要な事務を行う。その際、議員も閣僚も官僚も、国民が憲法を通して命ずる枠組みの中でやらなくてはならない。
実際、日本国憲法第99条には、
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
と明言されています。
一方、上で確認しきたことをまとめるならば、「緊急事態条項」を導入するような考え方が示唆する「国のかたち」は、大体、次のようなものになります。
政府が主権者で(でもここに属する人たちってどこからくるのでしょうね)、国を色々動かす。国民は、国に属するので、政府が動かす対象の一つである。憲法は、国民の振舞いを規定する。
ちょっと単純化していますが、大体のところこんな感じで、自民党改憲草案では、憲法が国民の振舞いを規定することが、第102条で「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」と明示されています[10]。
4. 現政府に見られる傾向
「主権者である市民のために憲法の制約のもとで事務をやる政府」ではなく、「自分が主権者で国民をその一部とする国を動かす政府」にするというのは、まあ、複数の人が共同で住んでいる家で、みんなで議論して家具等の配置を決め水道代や電気代の払い方を決めてその事務担当を「政府さん」にまかせると言うやり方ではなく、「政府さん」が他の住人に「お前はトイレに住め」とか「お前は5時半に起きて俺の弁当を作れ」とか言うかたちで家を運用するやり方にする、というような感じです。
市民は国の一部で、国は政府のものだから、政府は市民に直接、どうしろこうしろと指図できるし、指図し出すことになります。
現在はどうでしょうか?
政策や政府、行政の言葉を見ると、「市民に対する指図」が色々と目に付きます。少しだけ例を挙げておきましょう。
一つ目は、出生率低下への対応。
内閣府の子ども・子育て本部「少子化対策」を見ると、「さんきゅうパパプロジェクト」、「家族や地域の大切さに関する作品コンクール」「家族の日フォーラム」など、法・制度・予算の裏付けは極めて薄い、結局、「パパ」や「家族」に何とかしろと言っているに等しいような情報が色々見られます。
その一方で、待機児童を減らすかけ声などは見られますが、予算の裏付けも保育の具体的な拡充も進んでいません。
選択的夫婦別姓については手を打たないまま、「家族の価値」を重視しろといったかたちで市民の「家庭」生活のあり方に関わることについては口を挟みます。
もう一つ、少し異なるレベルで、2015年12月13日に、次のような報道がありました(NHKウェブより)。
所得が低い人ほど、コメやパンなど穀類の摂取量が増える一方で、野菜や肉の摂取量が少なく、栄養バランスのよい食事が取れていないことが、厚生労働省の調査で分かりました。・・・厚生労働省は「所得が低い人は栄養バランスのよい食事をとる余裕がなくなっているのではないか。食事の内容を見直すなど健康への関心を高めてほしい」と話しています。
所得が低い人がバランスのよい食事を取る制度や経済的なしくみを作ることはまったくせず(逆に、消費税を引き上げ、労働条件の悪化を促すような制度改正を行い)、食費を節約しなくてはならない人々に対して「健康への関心を高め」て「食事の内容を見直」せ、と言っています。
主権者である市民の「健康で文化的な最低限度の生活」を保つために、日本国憲法では「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」としていますが、それをするかわりに、「健康で文化的な」生活が十分できていない人に説教を垂れるわけです。
市民の厚生を維持し労働環境を改善する制度設計をしたいと考えて厚労省に入った官僚の方々の中にも、忸怩たる思いを抱いている人がいることでしょう。
これらは、政府や行政が市民に口を出す方向性が見られる例で、政府や行政のこうした振舞いは、国民は国に属する、政府が動かす対象の一つである、という自民党改憲草案が示す国のかたちと親和性の高い振舞いである一方、日本国憲法の規定にはそぐわない振舞いです。
実は、政府や行政によるこうした「説教型」の振舞いは、東京電力福島第一原発事故に対する無策と連動して、それを誤摩化すかのように、多数見られました。これについては、一部、次回、取り上げたいと思います。
5. まとめと蛇足
参院選で重要な争点となる「緊急事態条項」がどのような政府と市民の配置をもたらすかを簡単に見てきました。
改めてまとめると、この条項は、日本を「国は政府のもの」「国民は国の付属物だから政府がいじくる対象」「憲法はそれを可能にするものと位置づけ、立憲主義は破棄」という方向で社会を実現するための入り口を構成しているものと言うことができます。
2016年の参院選で、自民党を中心とする改憲勢力が3分の2を占めると、日本はそのような社会に大きく姿を変える恐れがある、ということです。
自らを国とみなし、市民を国の所有物であるかのようにみなし、市民に説教をして市民をいじる、というかたちの「国」が構想されています。
現在の政府や行政の振舞いから、政府が国民をいじくる程度は、食生活や家族生活といったプライベートな側面にまで及ぶことが予期されます。私自身は、何を食べるか食べないか、どんな家族を作るか、子どもを作るかどうか、政府に説教されたくはありませんし、そんな社会は少しも好ましいとは思いません。
税金を払って説教してもらうという倒錯した願望は少しもありません。
さらに、歴史は、政府が自国民に指図することがもたらす悲惨な帰結を示しています。ナチスドイツが行った障がい者やロマ、ユダヤ人の迫害・虐殺がその一つの例ですし[12]、終盤で「一億玉砕」「壮絶なる戦死」を持ち出すに至った戦時日本がもう一つの例です[13]。
先に見た、石破茂幹事長の
「これは国家の独立の為だ、出動せよ」と言われた時に、いや行くと死ぬかも知れないし、行きたくないという人がいないという保証はどこにもない。だから国防軍になったらそれに従えと。それに従わなければその国にある最高刑がある国なら死刑。無期懲役なら無期懲役。懲役300年なら懲役300年。(石破茂幹事長(当時), 2013年4月21日)
という発言は、戦前・戦時の日本を引き合いに出すことが大きな飛躍でないことを示しています。
ここからはちょっと蛇足。
もしかすると、厚労省が「所得が低い人は栄養バランスのよい食事をとる余裕がなくなっているのではないか。食事の内容を見直すなど健康への関心を高めてほしい」と述べたことは適切だとか、それほど批判されることでもないと考える方もいるかもしれません。
そう考える方がいるとすると、それは、一般に、ある課題に対処するために具体的にどのようにすればよいか設計したり運用したりそれらをアドバイスできないことを誤摩化すために、課題に面している人に説教する、というタイプのコミュニケーションが蔓延していることが一つの原因をなしているように思われます。
実際、大学でも、学生が考えることを促す環境を整え、学生の研究に対して同じ課題を見つつ具体的なアドバイスをするかわりに学生ができることを期待しできないと説教をするというコミュニケーション(正確にはその不在)しかできない教員は残念ながらそれほど希ではないようです。恐らく、説教型のコミュンケーションはかなり広い範囲で行われています。
そうした中で、説教型の人間関係に慣れて麻痺して気にならなくなってしまう可能性はあります。
ところで、ここで見てきたこと以外の様々な政府の対応や政府関係者の発言を見ると、自公政権が進めてきたこと、安倍首相が言ってきたことは相当無茶苦茶であることがわかります。「汚染水は完全にコントロールされている」といったまったく現実に反したことを世界に向けて言ったこと、安保法の説明が破綻しているのに「正しいと思いますよ。私は総理大臣なのですから」と自分の肩書きを持ち出してそれが根拠になるかのように語ったこと、「自国防衛だと総理も言っている」(これは公明党魚住裕一郎議員の言葉)というまるで無責任な発言などは、それを端的に示しています。
これらは、事実や論理をまるで無視した発言です。
現政権に反対する人の中には、これらについて「反知性主義」という言葉を使った人がいます[11]。
この言葉は人の属性として受け取られがちで、結局、政策や言葉についてではなく、現政府は「馬鹿だ」という意味合いを帯びます。それはさらに、現政権を支える人は「馬鹿だ」という含みを持ちます。
人に向けられるこのような言葉は、政府が市民に指図する言葉(これも人に向けられるものです)と対応してしまい、内容の方向性はどうであれ、個々人が健康で文化的な生活を送ることを可能にする技術や制度を具体的に整えることを検討することから話しを逸らすことになりますし、また、人と人との対立を生みかねません。
自戒の意味も含めて蛇足を書いておきました。
注など
[1] 岸博幸「霞ヶ関文学入門」神保哲生のマル激トーク・オン・ディマンド第47回(2010年03月27日)
[2] 日本国憲法にはこのような「等」はありません。「対等」「平等」「同等」の「等」はあります。
[3] 日本国憲法で法律に委ねている条項は40カ所ありますが、基本的に、それらは運用や手続きをめぐるものです。ただし、日本国憲法第10条には「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」とあり、この点は例外的です。自民党の改憲草案では内閣が制定できるとされている「法律と同等の効力を持つ政令」が緊急事態を拡大したときそれが「法律で定める緊急事態」に組み入れられるのかどうかは法律論としては議論がありそうです。運用としては、現在の自民党政権のような状況であれば、組み入れられるかたちで解釈される可能性が高そうです。
[4] 第98条は第4項まであります。第3項・第4項は国会による承認・不承認、緊急事態宣言解除についてです。
[5] 第2項は第1項の規定に関する国会の承認についてです。また、第3項には、「この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない」とあります。自民党改憲草案における「基本的人権」については、別途、見る予定です。
[6] ワイマール憲法自体が「変わった」わけではないし、「誰もが気づかない間に」変わったわけでもないし、「けん騒」がなかったわけでもないので、この発言自体、不明確な点はあります。
[7] ただし、ナチスの全権委任法は国会への通告が不要だったりと細かいところは異なります。
[8] 磯崎補佐官は、自民党改憲草案の事務局担当でした。自民党の改憲草案が立憲主義に基づくものではないこと、したがって、民主的な近代国家の「憲法」ではないことがここからも伺えます。
[9] ここでの論点とはずれますが、73条で「軍事」がないことは、政府が軍事をやる権限を有していないことを意味することは、憲法学者たちによって論じられています。
[10] 第2項には「国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う」と書かれていますが、緊急事態条項に見られたような「解釈の余地」が国民にではなく議員や内閣に与えられるので、「この憲法」の実質を恣意的に運用で変えることができるようになっています。これについては、後に改めて整理したいと思います。
[11] 「反『知性主義』」という米国の一つの動きではなく「「反知性」主義」つまり「考えない」という意味で使われています。
[12] アウシュビッツ収容所の門には「労働は自由をもたらす」と書かれていました。いわば究極の「説教標語」です。なお、戦後、このナチス政権がドイツ国籍のユダヤ人に対して行った行為を裁くために「人道に対する犯罪」という概念が導入されました。
[13] 市民と政府、国の配置が話題なので、対外侵略の帰結についてはここでは述べていません。