満州事変はなぜ起きたのか (中公選書)
満州事変といえば、よくあるのは「関東軍の謀略だ」とか「石原莞爾が暴走した」という類の話だが、本書には石原は登場しない。「大正デモクラシー」といわれた日本が、なぜ10年そこそこで満州の泥沼にはまりこんでしまったのか、というのが著者の問題意識である。

一般的には、これは「日本のデモクラシーが未熟で軍部の暴走をおさえきれなかった」と理解されているが、本書の見方はその逆である:大正デモクラシーで多くの大衆が政治参加したことが、軍部の強硬路線を後押ししたのだ。

日露戦争までは、辛うじて伊藤博文や陸奥宗光などが戦争を「負けないうちに収束」して乗り切ったが、一般大衆はそう思わなかった。三国干渉に反対する暴動が起こり、ポーツマス条約でロシアから賠償金を取れなかったことに怒った民衆は、日比谷焼き討ち事件を起こした。

こうした世論に押され、日露戦争で得た満州の権益を中国に承認させようとしたのが、1915年の対華21ヶ条要求だった。これは日本人が中国政府の「政治経済軍事顧問」になることを求めるなど露骨な内政干渉だったが、日本の世論は熱狂的にこれを支持した。朝日新聞は強硬に「要求貫徹」を求め、大正デモクラシーの旗手だった吉野作造も、この要求に賛成した。

政党政治や米騒動などの大衆デモクラシーが、大衆ナショナリズムを生み出したのだ。陸軍の中でも石原のような中間管理職が決定権をもつようになり、彼らが戦線を拡大した既成事実を首脳が追認した。満州事変以降の戦略なき戦争は、ボトムアップで「民主的に」進められたのである。

続きは1月18日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。