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昨年11月、福島・須賀川の火祭り「松明あかし」の見物がてら、1年ぶりに原発事故の帰還困難区域へ足を延ばした。
東京電力福島第1原発(1F)のすぐ前を通る国道6号線は通行できるようになったが、駐停車や窓を開けることは規制され、そんな車内でも放射線量は毎時5.6マイクロシーベルトとやはり高い。もちろん人の姿はない。沿道のコンビニエンスストアやガソリンスタンドはこの1年で赤さびが広がり、民家のガラス戸はすすとカビで真っ黒だ。飯館村の田畑には汚染土を詰めたフレコンバッグが高く積み上げられ、数百メートルの黒い壁をいくつもつくっていた。帰還困難区域には、存在そのものを否定されてしまったような町と里の光景が広がっている。
福島の除染と復興、賠償を東電内で任されているのが福島復興本社だ。その石崎芳行代表が『週刊女性』(1月19日号)の直撃インタビューを受け、東電幹部らしからぬ率直な発言をしている。石崎氏は東日本大震災の前年まで福島第2原発(2F)の所長を務めていた。
「2Fの所長をしたとき、自分も原発は安全と思っていました。住民たちには“安全だから地震があったら構内に逃げ込んでもいい”と言っていましたから。今は、自分の意識を恥じてます。震災後、住民から“おまえの会社の言うことは信用できない”と言われました。結果としてダマしてしまったのだから、嘘(うそ)つきと言われてもしかたがない」
石崎氏は福島を気に入り、リタイア後は富岡町で暮らそうとアパートを下見しているときに大震災に遭遇した。「原発事故は起きないという傲慢な発想が東電社内に蔓延(まんえん)していた」「外部電源が使えないときは非常用ディーゼルを、ディーゼルが使えないときはバッテリーを使うことを想定していました。が、バッテリーが使えないときは考えていませんでした」
そして、最悪の原発事故は起きた。いまだに多くの住民が帰宅のメドもたたないまま避難生活を続けている。「事故の影響は大きく深く複雑だと感じます。“賠償はしなくていいから、生活を返してくれ、そうすれば何もいらない”と言われることが一番つらい。正直、原状回復はできません。まずはお金での賠償ですが、それでも心の満足を得られないことも見てきています」(石崎氏)
もともと、石崎氏は社内では珍しく原発の管理に対して批判的だったという。こういう人が事故前にもっと発言の場を持っていてくれたらと思わざるを得ない。
福島事故などなかったかように原発再稼働が進むなか、電力各社の担当者は石崎氏の痛恨の思いを知ってほしい。
1950年横浜生まれ。週刊誌、月刊誌の記者をへて76年に創刊直後の「日刊ゲンダイ」入社。政治、経済、社会、実用ページを担当し、経済情報編集部長、社会情報編集部長を担当後、統括編集局次長、編集委員などを歴任し2010年に退社。ラジオ番組のコメンテーターも10年つとめる。現在はネットニュースサイト「J-CAST」シニアエディター。コラムニスト。
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