参考資料
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フランク・オコナー国際短編賞 日本経済新聞 2016/01/10(日)
作家・村上春樹(66)の名声を海外で高めたフランク・オコナー国際短編賞。同賞を村上より早く2005年に取った米国の作家イーユン・リー(43)の経歴は変わっている。北京で生まれ育ち、大学院で渡米するまで英語は執筆はおろか会話もおぼつかなかった。
「非効率な独裁国家から高成長国への中国の変貌に光を当てた」(ニューヨーク・タイムズ紙)と注目される。
国営企業の倒産で失業し私立学校の世話係になる女性。米国で離婚した娘を案じ中国から訪ねる父。「リーが英語で描く市井の中国人の物語は米読者の琴線に触れた」と文芸誌パブリック・スペース編集長ブリジット・ヒュー(42)は語る。
今はサンフランシスコ郊外で夫と2人の息子と暮らし、執筆の傍ら大学の創作科で教えている。いつも手元に置くトルストイの「戦争と平和」は付箋だらけ。「母国語でないから時間をかけて文章を研ぎ澄ませるのよ」
英語で書くと生まれ変わったように感じた。自由に考え始め「蓋をしてきた疑問を掘り下げたくなった」。決して消えない記憶が2つある。
一つは5歳のころ保育園から連れられて行った集会だ。喝采のなか縄でつながれた4人が壇上に押し出された。「反革命分子に死を」と警官が叫び、全員で拳を振り上げ復唱した。文化大革命の処刑前の集会だった。
もう一つは16歳の時。天安門事件の夜、様子をうかがいに出た母は近所の8歳の子の遺体を見て泣きながら帰ってきた。翌朝、父は病院の駐輪場で山積みの遺体を見た。
隣人が密告し合う社会をどう生き残るか。「家の会話は外で漏らすな」としつけられ、日記は記録だけ。科学者を目指したのも、それが安全な道だったからだ。北京大学入学後1年は軍で思想教育を受けた。自己検閲の癖がよみがえりそうで今も中国語では書けない。
初の長編の舞台は現実の事件をモデルにした。文革批判の手紙を恋人に密告され10年の投獄後、28歳で処刑された女性を巡る人間模様だ。中国の暗部を描くと批判されたが「どの国でも人間の本質は暗部に表れるから」。この本は両親に捧げた。
米国から中国を見つめて20年。帰省して北京の発展に驚いた。一党独裁を脱するまで時間がかかるだろうが、悲観しない。米国も教育に深刻な欠陥を抱えている。人間はどこでも残酷な歴史を繰り返すが、やり過ごす術も身につける。米中両方の視点を持つ自身は「何国人か意識しない」。
20世紀は米国とソ連の冷戦が続いた。21世紀の2つの超大国、米国と中国は折り合っていけるのか。リーは淡々と答えた。「両国とも自国が存在するために相手を利用しているから致命的な衝突はできないでしょう」
(敬称略、第1部おわり)
文革と天安門事件 共産党Ⅰ党独裁を死守
1949年に発足した毛沢東が率いる中国共産党政権は農業政策に失敗し凶作を招いた。責任を問われ、権威が大きく傷ついた毛が復権のため展開した運動が文化大革命だ。66年ごろから学生を扇動し、対立する政治家や知識人に資本主義へ戻ろうとする「反革命分子」とレッテルを貼り迫害。数多くの死者が出た。
毛は復権を果たしたが、経済は混乱。毛が76年に亡くなると最高指導者の鄧小平が資本主義を部分的に入れた「改革開放路線」へとカジをきった。農業には収穫を増やせば個人の収入も増える制度を入れ、深圳など沿岸部の都市を経済特区とし海外資本を導入した。
次に大きな転機は89年に北京で起きた天安門事件だ。当時、民主化を求める学生運動が広がっていた。この運動に理解を示していた胡耀邦元総書記が亡くなると天安門広場に学生らが集まり民主化デモを拡大した。中国政府は人民解放軍の戦車を投入し鎮圧した。多数の死者が出たが、情報統制により実態は公表されなかった。
その後は鄧小平が市場経済を加速させる方針を明確にして外資の誘致を強化。2001年には世界貿易機関(WTO)に加盟した。輸出主導の高成長で2010年に国内総生産(GDP)は日本を抜いて世界2位になった。経済で資本主義的な政策を入れる一方、政治は共産党1党体制を続けている。
吉田ありさ、高橋徹、大越匡洋、小高航、中村裕、早川麗、加藤宏一、佐竹実、堀田隆文、鳳山太成、松本知明、小野由香子、山崎純、菊池友美が担当しました。
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