サウジアラビアとイランはなぜ対立するのか

はじめに

 

1月3日、中東の二大地域大国であるサウジアラビアとイランが国交を断絶するとの報道が世界を駆け巡った。

 

国交断絶の直接的な引き金となったのは、サウジ政府によるシーア派聖職者ニムル師の処刑と、それに憤ったイラン市民によるサウジ大使館の襲撃であるが、両者はかねてより対立関係にあったことで知られていた。

 

サウジとイランの対立は、しばしば「宗派対立」という言葉で語られる。すなわち、イスラームにおける多数派であるスンナ派と少数派であるシーア派の対立であり、前者を代表するのがサウジアラビア、後者を代表するのがイランというわけだ。

 

そして、中東地域における対立構造は、この宗派という分断線によって敵/味方に分かれており、相互に憎しみ合いながら争い続けていると説明される。

 

今回のサウジ・イラン間の関係悪化に際しても、多くのメディア、そして欧米諸国の政府ですら、こうした宗派対立の枠組みにしたがって両者の対立の激化を懸念する声を上げた。こうした枠組みを現在の中東地域の紛争に適用することは妥当なのかという疑問、あるいは宗派対立という概念に付随する問題については、今回の一件においても既に複数の専門家が指摘している。(注)

 

(注)例えば酒井啓子「サウディ・イラン対立の深刻度」『ニューズウィーク日本版』(2016年1月6日)青山弘之「イランとサウジアラビアはシリア紛争でどのように対立しているか?」『Yahoo! News』(2016年1月6日)髙岡豊「サウジとイランの対立激化がシリア紛争に与える影響」『Yahoo! News』(2016年1月7日)末近浩太「サウジとイランの問題を「宗派対立」で語ってはいけない」『News Pics』(2016年1月9日)など

 

また、サウジとイランの間には直接的な軍事衝突こそないものの、シリア、イエメンなどの紛争で敵対する勢力をそれぞれが背後から支援している構図は、サウジとイランの「代理戦争」と呼ばれ、こうした対立関係は「冷戦」にも例えられてきた。

 

そして、今回の危機によって両者の対立が決定的になったことは、中東地域で新たな「熱戦」が始まるのではないかという恐れすら引き起こしている。

 

ここでは、いったん宗派対立や地域紛争という広い話から少し離れて、まずは今回の危機の当事者であるサウジアラビアとイランという二つの国家の関係に注目してみよう。すなわち、サウジ政府とイラン政府はいったい何を争って対立しているのか。また、どのような手段をもって対立しているのか。

 

本稿では、こうした「争点」と「手段」という紛争を構成する要素に焦点をあてて今回の危機について論じてみたい。

 

これを明らかにすることで、今回の両国の一連の行動――47人の処刑、大使館襲撃、国交断絶――についても、それぞれの意図をより正確に推測することができるだろう。また、両者の関係性への理解を深めることは、この危機が地域にどのように波及していく可能性があるのかを検討する材料の一つにもなるはずだ。

 

 

宿命のライバル?

 

サウジアラビアとイランは、はるか昔から対立関係にあったように言われることも多いが、歴史を振り返ると、必ずしもそうではないことが分かる。

 

現在のイランの地にペルシア帝国として知られるアケメネス朝が成立したのは紀元前6世紀のことであるが、アラビア半島に統一的な政体が誕生するのは20世紀になってからのことである。また、1971年に英国が湾岸地域から撤退するまで、同地域における湾岸諸国間の関係、とりわけ安全保障問題は英国によって管理されている状況であった。

 

そして、英国撤退後は、ソ連が親ソ的なイラクを足がかりとして湾岸地域に進出することを恐れた米国によって、ともに親米政権であったサウジアラビアとイランを二つの柱とする地域秩序(二柱政策)が描かれたのである。

 

サウジアラビアとイランがはっきりと対立関係に至ったのは、1979年にイランで革命が起きたことを契機とする。新たにイランに誕生した「イスラーム共和国」は、各地で抑圧されているムスリムの解放を目指し、革命的な手段によって「イスラーム体制」を実現することを呼びかけた(「革命の輸出))。

 

これは、スンナ派・シーア派を問わず全てのムスリムに呼びかけられたものであったが、実際にはシーア派ムスリムの間で受け入れられていき、80年代にはサウジ東部、バハレーン、クウェイトにおいて、暴動、爆弾テロが頻発したほか、クーデターや国家指導者の暗殺(いずれも未遂)といった動きにつながった。

 

1980年から始まったイラン・イラク戦争(~88年)において、サウジが長年の脅威であったイラクを支援する側にまわったのは、こうした背景によるものであった。

 

しかし、サウジアラビアとイランの関係は、そのまま悪化し続けたわけではなかった。1989年に革命を主導した最高指導者ホメイニー師が死去し、ハーメネイー最高指導者・ラフサンジャーニー大統領による新たな体制が発足すると、戦争で疲弊した国内の復興が最優先に掲げられ、これまでの急進的な政策は転換、現実主義的なアプローチが採用された。

 

他方、サウジアラビアの側も、1990年のイラクによるクウェイト侵攻によって、イラクの脅威を再認識し、イランとの関係改善に乗り出す動機ができた。

 

この結果、1991年には1988年以来断絶状態となっていた国交も回復し、1997年にはサウジのアブドゥッラー皇太子によるイラン訪問、1998年にはイランのハータミー大統領によるサウジ訪問が実現したのである。

 

つまるところ、考えてみれば当然のことではあるが、サウジアラビアとイランの関係は常に対立していたわけでも、常に緊張していたわけでもなかった。両国の関係性は、時の体制や政権のイデオロギー、国内の政治状況、地域・国際情勢によって左右される、一般の国家間関係に他ならない。

 

こうした対立と協調が繰り返されている間、スンナ派/シーア派、アラブ/ペルシア、産油国同士といった両国の特徴に大きな変化はない。すなわち、両国の間に、対立を宿命づけるような要素は存在していないといえよう。

 

 

何が変わったのか?

 

それでは、なぜ2016年の今、二国間の関係はそこまで悪化することになったのか。複数の要因が複雑に絡み合っているが、ここでは3つの大きな要因を指摘しておきたい。

 

第一に、2003年のイラク戦争の結果、プレイヤーとしてのイラクが消滅したことだ。湾岸地域は、イラン、イラク、サウジアラビアという三者のバランスによって秩序が成り立ってきた。

 

70年代、そして90年代にサウジとイランが接近したのは、それぞれイラクに対抗するという利害を共有していたからである。しかし、現在のイラクは地域に影響力を発揮する存在ではなく、むしろ周辺国によって影響力を行使される「場」になっている。

 

戦後のイラクで親イランのシーア派政権が誕生したこと、「イスラーム国」対処のためにイランの革命防衛隊がイラク国内で作戦を展開していることは、サウジにとって地域のバランスが大きくイラン側に傾いていると認識させている。

 

第二に、米国の中東地域への関与の低下である。イラン革命以降の湾岸地域における大きな対立軸は、サウジ(+米国)vsイランというよりも、米国(+サウジ)vsイランというのが実態に近かった。

 

湾岸戦争後、湾岸地域に軍隊を駐留させる米軍の存在はイラン政府にとって最大の脅威であり、2001年と2003年にアフガニスタンとイラクという東西の隣国で米国の軍事介入による体制転換の実現を目の当たりにしたことで、その恐怖はピークに達した。

 

しかし、ブッシュからオバマに代わり、米国がアジアへのリバランスを表明して中東への関与を低下させたことで、その構図にも変化が現れる。これまで米国の陰に隠れていたサウジアラビアは、米国が地域において果たしていた役割の一部を代替するようになり、対立の構図はサウジ(+米国)vsイランとなりつつある。こうした傾向は、2015年7月の核合意によって米・イラン関係に改善の兆しが見られることにより、更に加速している。

 

第三に、周辺国政府の統治機能の低下である。2014年に「イスラーム国」がシリア、イラクで猛威を振るい、イエメンではフーシー派が武力をもって政府を瓦解させた。

 

これらの反政府勢力が躍進したのはそれぞれ別個の文脈から成るものであるが、結果として混乱状態が発生したことは、サウジとイランにとって、それぞれの支持勢力を支援するための軍事介入の契機となった。

 

こうした機会主義的な介入の結果、二国間での直接的な衝突はないものの、サウジとイランはそれぞれの戦場で敵方の支持勢力との対決を余儀なくされている。

 

ところで、こうした地域紛争への介入にあたり、自国の影響力を異国の地で浸透させるためには、自国に親和的なイデオロギーを持つ勢力を足場とすることが定石であろう。つまり、それぞれが敵対する勢力を支援するサウジアラビアとイランは、自国の影響力を最大化するための手法の一つとして、宗派的な分断線を利用しているのである。

 

したがって、イラン政府がアラウィー派のアサド政権、ザイド派のフーシー派を支援するのは、シーア派という宗派的な連帯感に基づくものではなく(そもそもアラウィー派やザイド派をシーア派に分類することが妥当なのかという議論もある)、彼らがイランにとっての敵と対抗する上で有力な存在であるからに他ならない。

 

同時に、アル=カーイダや「イスラーム国」にとってサウジ王政は攻撃の対象になっているように、同じスンナ派であるからといって一枚岩になっているわけでもない。

 

まとめると、(1)プレイヤーとしてのイラクの消失により、サウジ・イラン間で協調を維持する誘因がなくなった、(2)米国の関与が低下したことで、イランとの対立でサウジが前面に出てきた、(3)周辺国での混乱にそれぞれが介入した結果、各地で対立する場が増えた、ということが指摘できよう。

 

これらの要因のうち、(1)と(2)は構造的な変化であり、直接的な関係悪化の理由ではない。サウジとイランの間の最大の争点は、(3)の互いの地域紛争への介入にある。

 

今回の国交断絶においても、処刑への非難という内政干渉、そして大使館襲撃に加えて、(一連の騒動とは特に関係のない)イランの地域政策が改善されない限り国交の回復はないとサウジが主張した背景は、ここにある。

 

 

どうやって争っているのか?

 

サウジアラビアとイランの対立の争点は、互いの地域政策にある。つまり、これは、自国の影響力を拡大させ、地域覇権を確立することをそれぞれが目指している、権力闘争的な側面が強い争いだといえよう。宗派は、この目的を達成するために利用されている要素の一つであり、地域において味方を増やすための手段として用いられている。

 

とはいえ、両国は無制限に紛争を拡大させようとしているわけでは、決してない。それは、能力的な制約に加えて、そもそも両国が全面戦争に発展することを望んでいないこと、そして自国の安定や発展にとってマイナスになることは避けようとしていることに起因する。

 

メディアではサウジとイランの間で戦争が発生する危機についても多くの言及があった。サウジとイランの間には陸上国境がなく、相手国の領土に地上部隊を送り込むような空挺・揚陸能力も保有していないため、想定されるのはペルシア湾上で航空戦力、海洋戦力が衝突することであろう。

 

これはサウジとイランの二国間で比較した場合はイラン側に優位があるが、仮にサウジとイランの通常戦力が衝突する場合、同盟国であるGCC諸国、そしてバハレーンに第5艦隊を駐留させている米国も巻き込まれることになり、戦力差は逆転するだろう。

 

したがって、イランから戦争を仕掛ける理由はなく、サウジは同盟国を納得させる理由がない限り戦争に突入することはできない。また、どれだけ戦争の被害を低く見積もったとしても、戦場となるペルシア湾の油田施設に壊滅的な打撃が発生することは避けがたく、戦争に勝利したところで得られるものはほとんどない。

 

今回の国交断絶においても、両国の軍隊には示威的な行動も含めてほとんど動きが見られず、こうした軍事的な対立は抑制されていると言える。【次ページにつづく】

 

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vol.186+187 立憲主義と民主主義

・木村草太×荻上チキ「2015年、日本の立憲主義と民主主義は揺れたのか?」

・吉田徹「『野党って何?』を考える」

・橋本努「憲法改正を視野に入れた立憲主義は、いかなる価値に服すべきか――安保法制案はまだ熟していない」

・大屋雄裕「立憲主義という謎めいた思考」

・稲葉振一郎「プロセス的憲法理論から共和主義へ?」