A:言語は同心円状に広がっていく性質を持つという。つまりそこには政治的な中心、言語の中央部分が存在するということである。この政治的中心は同心円状に広がっていく性質、あるいは強制力を持つと考えられるが、同時に中央に向かって周辺もまた積極的浸食を試みようとするから、という説がある。政治的中心のちからが弱まれば、これらの言語グループは分裂し、独自のグループを形成していく。
社会人のマナー、敬語を学ぼうとするのは、中央部に対して信頼してないまでも、それに同化していくのが得策だからである。中央を批判するにも、その中央の言語を用いて批判する。政治的中心が強力であればあるほど言語も統一性を保てるのだが、これが弱まれば言語グループの分裂が起きる。その集団でしか通用しない新語、難語、業界用語は、政治的な中心が弱まることによって一層深化していくことになる。
こうした現象は言語のみに起きるとは限らないということが興味深い。マナーが敬語と並列して述べられているように、言語は文化であり、言語グループの分裂、深化は文化グループの分裂を意味する。音楽業界を見ても、複数の集団がもはや統一性を持たずにメインストリームに並ぶ有様は、政治的な中心、「国民的」なものが失われつつあることを示している、といえる。
B:さて、ここまではとてもどうでもよい話だ。問題なのは、「ニコニコがつまらなくなった」論が流行るとき、その「ニコニコ」とは何を意味するのか、ということを、もう少し自分が納得いく考え方がなかなかつかめないということである。その手がかりになりそうなものをメモしておこう。
先日、ボカロ衰退論やニコニコ衰退論について語っていた動画が流行ったが、あそこで誰でも納得できるだろうと感じたものがとりあえずひとつある。『ニコニコ動画は動画ランキングサイトだ』ということである。
ニコニコが他の動画サイトと異なるのは、ランキングだった。衰退論動画ではその性質をマイリスト至上主義と看破しているが、同時にかつてのランキングはニコニコの中での流行とともに、もともとジャンル横断的な力、まとまりを持っていたように感じる。ニコ厨どもの大半が認めなければマイリストを中心としたランキングは、工作でもしなければ上がってこなかったのではなかったろうか。そしてまた、ニコニコ組曲といった、ニコ厨であれば知っているネタが特定のジャンルに偏らず、概ねどこかで一度は見たことがあるものになっていたということは、ランキングが流行以外の「ニコニコ的なもの」の中心を表現していたと言えなくもない。
そのように仮定すれば、今の「ニコニコがつまらなくなった」という直感が、「ランキングがつまらない」という部分にあることは間違いない。ジャンルに閉じこもり、好きな動画作者を追いかけ続けていれば「ニコニコがつまらない」と感じることは少ないだろう。ランキングを覗き、見ても分からない、つまらないコメントばかりの動画があっさり100万再生されているのを目にして、なんかつまんねぇな、と感じることで、「ニコニコがつまらなくなった」という感情が湧いてくる。ただつまらない動画なら、昔だって腐るほどあったはずだ。要はつまらないと自分が思う動画が賞賛されているのを見て、「ニコニコがつまらなくなった」と感じるわけだ。
C:ではその「ニコニコ的なもの」とはなにか。中央など存在したのか。
かつては歌ってみたにせよ、ボカロやアイマスなどの御三家にせよ、それらは全員が全員楽しめているわけではないものの、ランキングに上がっている動画については多くのニコ厨が大笑いして見ていたはずだ。それでは動画の質や性質が変わったのだろうか。そんなことはないだろう。同じ製作者がニコニコに動画をあげていることを考えれば、仮に製作者の実力やアイデアが衰えた説があるにせよ、それほど極端に劣化していく、とは思われない。
目先を変えて、もっとかつて流行ったネタについて考えてみよう。
たとえばKYMなどはどうだろう。これはもともと、海外で翻訳された時に格好いいシーンが外国語ではあまりにも気が抜けて笑えてくるものだから流行ったものだった。元ネタのるろうに剣心のアニメに対する尊敬など、出発点にはなく、対象をバカにして笑い物にして楽しんでいるものだった。ドナルドやゆっくり霊夢など、他のネタについても同様のことが言える。ニコニコのネタは、原作やその動画に対する尊敬の念などなく、本来的に対象をバカにして笑いものにするものではなかったか。結果的に、いや、ニコニコ的な笑いの変化球として、それを大真面目に泣ける動画に作り変えたりすることはあり、それが流行することもあっただろう。ただ基本的にはニコニコとは、対象を笑いものにするネタを中心に成り立っていると思われる。これを仮に侮辱の笑いとする。
同時に、ニコニコの笑いには自虐も含まれている。ニコニコで流行ったネタのもうひとつの側面として、実際に馬鹿なことをやってみたり、ニート引きこもりなどの自虐系替え歌があった。つまり、自分は愚かだ、惨めだ、という自己認識をネタにすること、自らもバカにして全方位的に笑って攻撃してしまおうという性質だ。これは上に述べた話と一体の性質もある。自分が愚かだから、他人を侮辱しても構わない、という考え方である。いわばクズの集まり(2chを「便所の落書き」と自認するのと同様)だから、その内部では下品でバカらしい笑いを繰り返しても構わないというメンタルである。ニコニコ内であれば自分と他人に迷惑をかけてもいいのではないかという感覚を持っていたのではないか、と推測する。
そう考えてみれば、歌ってみたもボカロも、いわばそのジャンルをバカにすることによって笑いを生み出してきた面、そしてそのように受容した面があるように思われる。初音ミクをただのボーカロイドとしてではなく、極端なキャラの属性を付与して、バカみたいな行動を取らせる動画が流行ったことはなかったろうか(そもそもネギを振らせたりすることも…)。そしてそのような動画をあげる動画製作者も、あえてそのように笑いに変えていた面がある。自分が好きなものだからこそ、あえて侮辱するような笑いを最初に取り、内側に熱意を埋め込んで才能を開花させてきた人もいるだろう。視聴者もまた、ランキングで横断的に動画を取り上げても、自分が大して好きでもないものでも、コメントでも侮辱するという一点で笑いを共有することができるし、そこを出発点にしながら好きなものを「wwww」に隠してマイリストで評価することができた。
好きなものを正面切って褒め称えるだけではただの信者と同じ、腐して笑いながらも、こっそりとマイリストに入れておける、ということが、ニコニコ流の評価方法だったというわけだ。これならば、本当に好きなものには視聴者や製作者の中で差異がありながらも、ジャンルを横断的に飲み込むことができる。無論自分が好きなものを、不本意な形で笑われることにもなるのだが、それはニコニコ内であれば当然起きうることだと納得して、一体的な感覚を味わえた。表面上笑われているものをこっそり評価して、それがランキングに反映される楽しみが出来たからだ。
「ニコ厨」とは本来ニコニコ的な笑いを外に持ちだして迷惑をかける連中のことであるが、つまりそれは「ニコニコ的なもの」が他人やそのジャンルに迷惑をかける笑いであったわけだ。同時に「ニコ厨」自体も外に出すことに不快感を示していたこともあったことを考えるなら、製作者に限らず視聴者もまた、ここでやっている笑いは不謹慎なのだ、自分たちは愚かだから、バカしかいないこの空間でならやれるのだ、という線を引いた自虐意識をある程度含んでいたようにも思われる。自虐に基づく侮辱の笑い、そしておそらくその範囲内での自由が、かつての「ニコニコ的なもの」と位置づけることができるのではないだろうか。
D:かつてはニコニコ自体が周辺、つまり中央から外れた独自の文化グループであったと考えられる。大体公式のアニメなどを素材として、それを笑いモノにするために動画を作ることが出発点となったサイトが文化的中心であるはずがない。だからニコニコは周辺の1グループであったのだが、しかし「公式化」(衰退論動画では「商業化」と言っていたが、こちらの方が正しい表現のように感じる)の波が押し寄せてきたことで、ニコニコ内で各ジャンルでバラバラのグループを形成していくことになってしまった。
動画製作者本人のファンがつくことで、製作者が公式的なものになり、侮辱する笑いが取りにくくなった。アニメ素材を活かしてMADで遊んでいた動画に公式が参入し、侮辱する笑いが取りにくくなった。ジャンルのファンが第一になり、自虐意識が薄れ、公式を褒め称えることが中心となった。このような中では公式とファンが正しく、それを侮辱する笑いはすべて荒らしということになる。そうなれば自分の興味のないジャンルでも侮辱するという点で共有されていた「ニコニコ的なもの」は失われて、各ジャンルがそれぞれ独自のグループにまとまって分裂していくことにならざるを得ない。
現在のニコニコ動画のランキングは、各ジャンルが勝手独自に分裂し、内輪で受けているノリが並列しているだけで、ニコニコ全体を横断的に貫いている臭さや自由を持っているわけではない。だから、自分が好きなものが上がっていれば面白いけれども、それ以外はすべてつまらない、そのジャンル特有の臭さしか感じないのである。
ただし、この「公式化」は信者にとっての楽園であることは言うまでもない。今までニコニコを使っていた臭いノリを道具として、ニコ生で遊び続けることができる。製作者がダイレクトに自分に答えてくれることが嬉しいし、他の悪罵は全て荒らしとして処理することができる。/ニコ生はこないだ少しずつ使って分かってきたが、本当に自分が好きな動画製作者のニコ生とかは居心地が良い。良すぎる。/だからこそ、ニコニコ動画はかつての「ニコニコ的なもの」を二度と取り戻すことはできないだろう、と思う。
E:「ニコニコ的なもの」の中心部に、自虐と侮辱による自由があったとしよう。それが大量に人が流入していけば、そのような意識を持つ人は少なくなる。ニコニコがゴミ溜め、クズの集まりではなく、なにか「クリエイティブなサイト」のように持ち上げられ、「ニコ厨」が自信満々の自称になっていく。信者は居心地がよく、有名人が集うようになる。「お前ら」と言いがたくなる。悪罵を投げられて当然の人間ばかりではなくなる。
それこそが「ニコニコがつまらなくなった」という意識の出発点かもしれない。だとすると、そんなものを取り戻そうとするのはバカのすることでしかない、ということになる。一体誰が自分も他人も全方位に傷つけて楽しみ続けたいのだろう。自分の好きなジャンルにしがみついて、自分も信者化していれば良いではないか。それに新しく入ってくる子どもたちを思えば、不衛生なゴミ置き場で小中学生がおもちゃ遊びをするよりは、綺麗なリサイクルセンターにでもなった方が、病気にもならずに済むだろう。ただもはやそれは、たまたま住んできた場所がそこだったからずっと住んでいるだけで、自由な遊び場ではなくなった。
もちろん、侮辱や自虐が完全に失われたわけではない。たとえば公式が侮辱を推奨して、誰かをバカにするジャンルが流行し、保持されることは大いにある。だが、そこに自由はない。ある特定の方向での自虐や侮辱しか許されていないのである。侮辱もまた「公式化」したというわけだ。
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これ 大部分の視聴者側がつまらなくなった、もしくはまったく趣味が合わなくなったので全体的な面白さのアベレージが下がった 今ランキングにあがってる動画はそのジャンルに耽溺する信者にとっては面白い動画だがまったく興味ない人にとっては面白くない でも○○信者の絶対数が増えたから信者がいるジャンルの動画ばっかりあがる
コメントの質なんて淫夢が流行る以前から低下してるので無関係 これは低年齢化のせいだろう 2011年あたりから毎年右肩下がりだよ…
昔から一人弾幕なんてよほど技巧が伴ってなければ寒い目で見られてたし、
「俺がガンダムだ」をはじめとした下米連打を恥ずかしげもなくニコニコの文化だとか言ってた奴もいる
動画内容とは無関係のテンプレ連打な上、画面の大半を覆って視聴の邪魔にしならないのがなぜ文化的で面白いと思えるんだ?せめて動画内容と関係ある内容で頭捻ってくれ 下大文字赤字のほうがまだマシだ