【第一問】大正14年、千葉県に住んでいた8歳の少女が話題になりました。さて、いったいなにが起こったでしょうか。
1 耳の穴から蜂が生まれた
2 おへそから綿が出てきた
3 鼻の穴から柿の芽が出てきた
篠沢 2 長山 3 はら 1 竹下 3 <正解は、このページの一番下に>
「倍率ドン!」「はらたいらさんに3000点」。数々の名言、名シーンを生んだ伝説のクイズ番組は、いかにして作られたのか。放送開始から40年。司会の大橋巨泉、プロデューサーの副島恒次、竹下景子ら、舞台裏を知る大物たちが語った。(週刊現代の人気企画「熱闘スタジアム」を一冊にまとめた『週刊現代Special』より特別公開)
副島 『クイズダービー』がスタートしたのは、'76年1月3日です。毎週土曜日の夜7時半から30分間放送され、'92年の12月まで丸17年間続きました。
竹下 終了してからもう22年も経つんですね。私は'76年の10月から参加させてもらいましたが、番組開始にはどんな経緯があったんですか?
巨泉 僕が『クイズダービー』の構想を得たのはたまたまあるテレビ番組をカナダで観たのがきっかけなの。『クイズダービー』同様、クイズの解答者を競走馬に見立て、出場者が正解すると予想した解答者に持ち点を賭け、賞金獲得を目指すスタイルだった。解答者の中には、学者風のおじさんからマリリン・モンローのような金髪セクシー美女もいて、難しい問題が出ると彼女に80倍のオッズがついたりするわけ。
竹下 80倍! すごいギャンブル(笑)。
巨泉 ところが、その金髪のおネエちゃんがバンバン当てるんだよ。ん~、ちょっとおかしいなと思っていると、番組の最後に「この番組の問題はあらかじめ解答者に伝えてあります」とテロップが表示された。
竹下 やらせっていうことですか?
巨泉 そう。全部演出だったわけ。なーんだとシラけたけど、すぐに思い直した。このアイディア自体は面白いぞ、と。だから録画したビデオを日本に持ち帰って、すぐに旧知のTBS制作幹部と打ち合わせ。この番組からやらせを排除し、ガチンコ勝負の日本風にアレンジしたのが『クイズダービー』だったというわけです。
副島 ルール設定も試行錯誤の連続でしたね。当初、解答者は5名ではなく6名の6枠でスタート。賞金を争う出場者も3チームではなく4チームだった。
巨泉 オッズも僕に加えて、レギュラーオッズマンの藤村俊二さん、ゲストオッズマンの計3人がいて、それぞれ解答者に◎○▲などの印を付け、それを元に計算していたんだよ。
竹下 そうだったんですか。私のときと全然違いますね。
巨泉 でも、このシステムが複雑すぎて視聴者にはウケなかった。解答者6人、出場者4チームというのも多すぎた。どうしても番組を回すためにテンポが速くなって、視聴者がついてこられない。そのせいか、視聴率も4%台と低迷した。
副島 番組開始直後の1月末には、編成から「3月打ち切り」の声があがっていたくらいですから。スポンサーとして一社提供してくれたロート製薬さんは「断固続行します」と言ってくれていたけれど、当時の営業部長からは「どうにかしないとスポンサーを替えてでも別番組にする」とプレッシャーをかけられました。
巨泉 そこで開始から約半年で出場者を3チーム、解答者は5人に簡素化し、倍率も僕の独断と偏見で付けることにした。するとこれが大当たり。じわじわ数字が上がってきて、番組開始から1年経たずして毎週20%を超えるようになったんです。
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クイズダービー/'76年1月~'92年12月、毎週土曜夜7時半からTBS系列で放送されたクイズ番組。大橋巨泉が司会を14年間務めた後、'90年に徳光和夫にバトンタッチ。番組出演当初女子大生だった竹下景子などの出演者も人気を集めた。第一問の答えは③
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