昨年、情熱大陸に猿回し師の村崎太郎さんが出演されたときのこと
そう。あの、太郎次郎の太郎さんだ。
この放送の後、厳しい調教をする太郎さんに対して
「動物虐待だ!」
「サルが可哀想だ!」
という声がネット上にあふれた。
私は放送を見ていない。
ここにあげた動画をとばしとばし見るのがやっと。
見れないのだ。
可哀想だと思ってしまい、辛い気持ちになるのがわかっているから。
子供の頃、太郎次郎を見てもこんな気持ちにはならなかった。
でも今は、地域のイベントで猿回しを見ても、可哀想だと思ってしまい、とてもお金を入れる気になれない。
この30年で、私の価値観もずいぶん変わった。
猿回しは江戸時代から続く、日本の伝統的な大道芸。
その時代、猿回しを見て『可哀想』だと思う人がどれくらいいただろう?
今の時代まで続いてきたのは、多くの人に受け入れられていたからに違いない。
ひと昔前、『道具』として動物が使われるのは、ありふれた光景だったんだと思う。
農具を引く牛。
家を守る番犬。
戦や移動の足となるたくさんの馬。
馬は疲れて動けなくなれば、乗り捨てられる。
そして『食べるため』の動物も身近だった。
多くの家庭で鶏や豚を飼い、食べるために自分たちでさばく。
鶏は卵を産むし、卵を産まなくなった鶏はさばく。
牛も、馬も同じだ。
山で野鳥やイノシシを狩り、さばき、食べるのもありふれた日常の一コマ。
そんな中、猿回しという演芸の道具としてサルが使われていても、可哀想と感じる人は多くなかっただろう。
でも今は違う。
牛や馬は、便利な農作業車や電車や飛行機にとって代わり
犬は番犬でもペットでもなく、『家族の一員』として大切にされている。
犬に服を着せたり美容院に行ったり、最近はヨガまでさせるそうだ。
daisuke-tsuchiya.hatenablog.com
自分の飼い犬のことを『ウチの娘』『ウチの子』と言う人も、珍しくはない。
そしてなんとなく、犬を飼ってる人に向かって「犬は?」とか言えない空気で「ワンちゃんは?」と、幼児語を使わないといけないような気になってしまう。
食べるための動物は、牛も、豚も、鶏も、舎の中で人目につかないように飼われ、そしてその屠畜も、普通に生活していれば、まず目にすることはない。
私たちが目にするのは、それが動物であったことを感じさせない、綺麗に並べられたパック詰めのお肉。牛や豚を食べていることを意識することも、少ないだろう。
そんな風に、今や生活の中で、ペットとして、家族として可愛がる存在でしかない動物が、演芸の道具として使われているのを見たら、厳しい調教を受けていたら、やっぱり多くの人が可哀想って思ってしまうんだと思う。
だって見慣れないんだもの。
虐待かどうか?
かつては一般的だった、犬のつなぎ飼いが今は虐待と言われるように
かつてはお客さんを沸かせた猿回しが、今の時代では虐待とみられてしまっても、それは時代の流れなのかなぁと思う。
こういう価値観って多数決で、マイノリティは淘汰されていくでしょう?
だから、猿回しを可哀想って感じる人が大多数になれば、伝統のある大道芸も自然と淘汰されていくものだと思う。
たとえば伝統行事の1つ、『なまはげ』も、ここ数年『幼児虐待』とか言われて中止になることが増えてきてるように。
そこにね、愛護団体、いや愛誤団体が介入するもんだから、意地にもなるし、話もややこしくなるんだよねー。
猿回し師さんは悪人じゃないから。
動物虐待してるわけじゃないから。
だから変に
『可哀想!!動物虐待!!悪しき伝統の猿回しは廃止しろ!!』
とか騒ぎ立てて責めるのはやっぱり違う。
私は猿回しの猿を見ると可哀想だなぁと感じるけれど
私がそう感じるだけで、人の感じ方は自由だし、動物虐待!!と思うほどの強い気持ちはない(そう思いたくないから動画を見れないんだけど)。
それはもしかしたら、イジメの傍観者と同じなのかもしれないけれど。
それでも、今でも猿回しが誰かを元気にしていたり、生活を支えていることも真実。
猿回しを楽しいと思う価値観を、今はまだ否定したくない。
でも。
私は子供の頃から、動物サーカスや競馬はやっぱり苦手だったんだよね。
火の輪くぐりとか、熱いだろうなって。
競馬のムチみたいなやつ、痛いだろうなって。
そんな私は、こう見えて実は愛誤予備群。
気を付けてます。いつも。
10年後。
猿回しをしていた猿が
どこにいても
猿回しを続けていたとしても
痛くないといい。
泣いてないといい。
猿回しは虐待か?
それを決めるのはその時代の人間と
猿回し師本人。
どっちにしても、サルの本心はわからない。
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