心配事で眠れない、大きな地震があって不安で眠れぬ夜を過ごした、などの経験は誰しも持っている。ただし、このような急性ストレスによる不眠は数日から長くて2週間ほどで改善する。不安な時に眠れないのは当たり前、危険な状況に即座に対応できるよう覚醒度が高まるために生じる一種の正常な生体反応(警告反応)なのだ。
不眠の多くが一過性であることを示す端的なデータがある。東日本大震災の時に私が主任研究者をしていた厚労省研究班で日本人の睡眠状況についての緊急調査を行う機会があった。震災直後は不眠に悩む人が急増したが、震災1カ月過ぎにはその数はかなり減少し、1年後には被災地でも平時とさほど変わらぬ頻度まで低下していた。
このように睡眠機能には大きなレジリアンス(回復力、復元力)があるのだ。ところが、一部の人ではある理由で不眠が長引いてしまうことがある。そして一度こじらせるとなかなか治らないのが不眠のやっかいな点である。ある理由というのが今回のテーマの「3つのP」である。
本題に入る前に予備知識を幾つかご紹介する。
まず不眠をこじらせるのに要する期間について。
個人差が大きいがおおよそ1カ月から数カ月と考えられている。たとえば、1カ月以上持続する不眠に陥ると自然に治ることは少なくなり、その70%では1年後も不眠が持続し、約50%では3~20年後も不眠が持続していたという調査結果もある。不眠には後戻りできないルビコン川が存在するのである。
次に不眠症の診断基準について。
■不眠症発症の原因はなぜ関係なくなったか
2014年に改訂された米国睡眠医学会の診断基準(睡眠障害国際分類第3版)では不眠症の診断基準として、「寝つきが悪い」「夜中に目が覚める」などの不眠症状があること、不眠症状のために日中に眠気や倦怠感、作業能力の低下など心身の機能異常が生じていること、その他の睡眠障害の基準に合致しないことなど6項目が設けられている。
(C)PIXTA
不眠(症状)は成人の約30%にみられるが、このような基準を満たす不眠症は軽症も含めて成人の10%、病院に受診するような中等度以上の不眠症が約7%に認められる。非常に頻度の高い疾患であることが分かる。
さて、不眠症という診断がついたとする。その次にどのようなタイプの不眠症なのか分類する作業がある。従来の診断基準では不眠症は原因別に「うつ病など精神疾患によるもの」、「痛みや痒みなど身体症状によるもの」、「薬物の副作用によるもの」など10種類以上に分類されていた。ところが新たな診断基準ではこの原因別の分類が全くなくなってしまった。
原因別の分類がなくなったのには幾つか理由があるが、最大のポイントは原因が何であれいったん不眠が慢性化するとある共通したプロセスで「正常な生体反応としての不眠」から「病気としての不眠症」に変質してしまうという不眠症の特徴である。心配事で始まった不眠も、アトピーのかゆみで始まった不眠も、最終的には同じメカニズムで悪化していく。すなわち中長期的には原因別の分類はあまり意味を持たないことが明らかになったのだ。
しかもいったん不眠症に悩み始めると、原因となった心配事や病気(痛みやかゆみなど)が解決しても不眠症だけが残存して一人歩きを始めてしまうことが少なくない。夫が大病を患い心配して不眠になってしまった奥さんがいる。その後夫はすっかり快復して一安心したのだが自身の不眠症は改善せず、高鼾(いびき)で横に寝ている夫を恨めしげにみる、などのケースはその典型である。
発症原因は問わない代わりに新たな診断基準では罹病(りびょう)期間別に分けることになった。それも、慢性不眠障害、短期不眠障害のたった2つに。前者は3カ月以上持続する不眠症、後者は3カ月未満の不眠症である。ルビコン川の川幅が3カ月に設定されたのである(旧基準では1カ月)。
要するに不眠症は原因ではなく発症してからの期間だけでタイプ分けすれば十分というのが現在の不眠症についての医学的コンセンサスなのである。
前置きが長くなったが、このような不眠症の特徴を念頭に本題である不眠症を慢性化させる「3つのP」について解説しよう。これは不眠症の発症と慢性化のメカニズムをわかりやすく説明する「3Pモデル」として有名になり、さまざまな臨床研究でその正しさが支持されている。図を見ながら解説を読んでいただきたい。
■「不適切な睡眠習慣」がダメ押しをする
第一のPは「Predisposing factor(素因)」のPである。神経質、心配性などのパーソナリティ、ストレスに対する脆弱性、加齢、性差やホルモン(女性に不眠が多い)など不眠症の罹りやすさに関わる素因(体質)がまず基盤にある。たとえば、慢性不眠症の患者さんは若い頃から「枕が変わると眠りにくい」などの不眠体験を持っていることが多い。
しかし、1つ目のPだけでは不眠症は発症しない。第二のP「Precipitating factor(増悪因子)」が加わって初めて発症に至る。Precipitatingを日本語にすると増悪、悪化などだが、元々素因として持っていた不眠傾向を悪化させて不眠症に至らせる、といったニュアンスである。当然ながら第一のP(素因)が強い(図中では高い)ほど、軽いストレスでも不眠症に罹りやすくなる。
この増悪因子がいわゆる「不眠の原因」と呼ばれるもので、人によって内容はさまざま。不眠症患者の数だけ因子があり、しかも1つだけとは限らない。心配事、病気(痛み、痒み、頻尿、うつ病)、薬剤の副作用、アルコールなどが典型だが、先にも紹介したように新しい診断基準では増悪因子の種類は特に問わないことになった。
この2つめのPまでは多くの人が経験する。これで終われば「短期不眠障害」、いわゆる自然に治る一過性の不眠で済むわけだが、これらに加えて3つめのP「Perpetuating factor(遷延因子)」が登場すると事態はややこしくなる。
遷延因子とは不眠からの回復力(レジリアンス)を妨げ、睡眠の質を変え、心身の機能異常をもたらし、不眠症を治りにくくさせる。不眠治療に抵抗するラスボスのような存在なのである。遷延因子にもいろいろあるが、代表的なものは「不眠を悪化させる睡眠習慣」であり、その結果生じる「眠りを妨げる生理的変化」である。
「不眠を悪化させる睡眠習慣」とはやたらと早い時間帯から寝ようとしたり、ベッドの中で眠れずに悶々と苦しい時間を過ごしたり、長い昼寝をしてしまったりなどの就床習慣のことで、1つ1つが不眠を悪化させる原因となる。慢性不眠症で悩み始めると大部分の人がこのような睡眠習慣に陥ることが分かっている。このような不適切な睡眠習慣や睡眠に関する誤った思い込み(8時間寝るべき、など)を修正する治療法は認知行動療法と呼ばれる。
不眠症が一定期間以上に長引くと、特有な体の変化が生じるようになる。たとえば、交感神経緊張、代謝率の亢進、体温上昇、心拍数増加、ストレスホルモン(コルチゾール/ACTH)の過剰分泌などである。これらの変化こそ「眠りを妨げる生理的変化」であり、覚醒レベルはさらに上昇する悪循環に入る。
いったんこのような状態になると不眠症が一人歩きを始め、不眠の原因が片付いても治らず、不眠症状は重症化し、睡眠薬も効きにくくなる。不眠症の対処は出だしが大事。素因は仕方がないにしても、不眠の原因となった心配事や痛みや痒みを出来るだけ早めに解決し、それでも不眠が消えないならばかかりつけ医に相談して欲しい。こじらせてからでは不眠症の治りも悪く、睡眠薬も長めに服用する羽目になる。寝酒でごまかすのはもってのほかである。
(イラスト:三島由美子)
三島和夫(みしま・かずお)
1963年、秋田県生まれ。医学博士。国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所精神生理研究部部長。1987年、秋田大学医学部医学科卒業。同大精神科学講座講師、同助教授、2002年米国バージニア大学時間生物学研究センター研究員、米国スタンフォード大学医学部睡眠研究センター客員准教授を経て、2006年6月より現職。日本睡眠学会理事、日本時間生物学会理事、日本生物学的精神医学会評議員、JAXAの宇宙医学研究シナリオワーキンググループ委員なども務めている。これまで睡眠薬の臨床試験ガイドライン、同適正使用と休薬ガイドライン、睡眠障害の病態研究などに関する厚生労働省研究班の主任研究者を歴任。『8時間睡眠のウソ。日本人の眠り、8つの新常識』(川端裕人氏と共著、日経BP社)、『睡眠薬の適正使用・休薬ガイドライン』(編著、じほう)などの著書がある。
(日経ナショナル ジオグラフィック社)
[Webナショジオ 2015年11月26日付の記事を再構成]
不眠症、3つのP
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