「努力すれば報われる」って、面白いよね。それについて遠回りしてなんか書いてみます。
ぼくは、ひねくれ屁理屈野郎なので、強い語調で語られる言葉に対してはすぐに逆張りしたくなって、脊髄反射でその言葉を対偶命題に脳内変換してしまいます。
先日、某書店に寄ったのですが、そこに万引き防止のために「万引きは必ず見られています」というポスターが貼られていました。 もちろん脊髄反射。対偶は、「見られていなければ万引きじゃない」。
こんなトンデモ理論が導かれた時には、ぼくはニヤリと笑いながら、やべえなこの店、と気持ち悪くつぶやきます。してやったりです。
が、そもそも。 このポスターの言葉は「万引き防止」という効果を狙ったもので、論理的整合性はハナから考慮されていないものです。 だから、「見られていなければ万引きじゃない」という対偶命題から、やべえなこの店、とほざくのは、まさしくタダの屁理屈で、的外れな指摘でしかありません。
やっぱり、いちいち対偶を考える屁理屈モンスターは気味が悪いですね。
しかし、世の俗説の中には、対偶を考慮した時に、上のような屁理屈としては放置できないようなものもあります。 例えば、僕があまり好きではない、「努力すれば報われる」という言葉。
もちろん、この言葉は、努力したい人もしくは努力している人に希望を与えるという点で、小さくない意味があるでしょう。でも逆に、そういう人たちを潰しかねない、というよりも、多くの人たちを現に潰してきている言葉でもあります。それは、対偶を考えれば、すぐに想像可能です。
「報われないのは努力していないから」。
プロになるために毎日血反吐を吐くくらい練習に励んだけれども報われなかった高校球児、
寝食惜しんで絵を描くことに費やしたけれども報われなかった美術家、
東大を目指して部活にも恋愛にも目をくれず高校生活を勉強に捧げたけれども報われなかったガリ勉(ごめん)くん、
この人たちにこんな言葉を掛けられるでしょうか。
「努力すれば報われる」という言明の裏には、「報われないのは努力していないから」という考え方が確かにある。 表に出てこないからこそ、この言葉を投げかけられた人の内面から沸き上がってくる。それが一番恐ろしく、その努力してきた本人たちを追い詰めます。
ぼくは、努力する人たちを尊敬するし、だからこそ、「努力すれば報われる」という言葉を使いたくありません。
じゃ、結局、どういう言葉を投げ掛けたいかと言うと、だいぶ論理をアクロバティックに展開させますが、 「もし、努力が報われたときは、まず先に自分に与えられた才能と周りの環境に感謝してから、さらに努力し続けよう」ということです。
これについてはまたいつか……面倒くさがり屋なので、たぶん、書きません。
いま、ぼくが決して裕福とまでは言えないけれども、衣食住不自由なく生きていることは、一般的で普通のことかもしれないけれど、ある種の才能と環境によるものとも言えるでしょう。 それらに感謝しながら、さらに努力して、生きていきたいと思います。
あれ。なんかいい話っぽくなった。