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最近は、この掲示板の私の書き込みは、守備範囲を大きく越えて、広がりすぎたと思っていました。木精さんのように博識ではない私は、自分の興味関心のある守備範囲を深め、少しずつ広げた方がふさわしいと思っています。
それで、最近は、この掲示板の原点である、明治の宗教、とくに国家神道の確立について、再考すべく、「宗教と国家」、「国家神道」「神々の明治維新」「国家神道と日本人」などを読み返して、国家神道の変遷を再認識していました。
1 自民党の「日本国憲法改正草案」批判
すると、なぜか、自民党の「日本国憲法改正草案」が手に入り、読んでいると、驚きました。明治の国家神道確立と「日本国憲法改正草案」が結びついていたのです。
今回は、憲法改正は、現在における重大問題でもあり、微力ながら、この掲示板での知識が誰かの役にたてばと思い、この問題を取り上げます。
まず、私の驚いた自民党の「日本国憲法改正草案」の信教の自由についての箇所を引きます。
自民党「日本国憲法改正草案」より。
「第二十条(信教の自由)
信教の自由は、保障する。国はいかなる宗教団体に対しても、特権を、与えてはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀礼又は行事に参加することを強制されない。
3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教活動をしてはならない。ただし社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない。」
この3は、明らかに明治時代に論じられた神道非宗教論を踏まえた記述です。
ここに語られているのは、「社会儀礼又は習俗の範囲を超えないもの」については、「国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教活動をして」よい。ということです。
明治以来の国家神道の経過を学んだ者からみると、「社会儀礼又は習俗の範囲を超えないもの」とは神道のことであることはあきらかです。『神道については、習俗であるから「国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教活動をして」よい。』と自民党は主張しています。
「国家神道は、宗教ではなく習俗である」という論理は、明治政府が、国民に信教の自由を認める中で、国家神道を諸宗教より一段高く位置づけ、国民誰もが国家神道に参加できるように考え出された論理なのです。それは一つの人工的宗教に普遍性を持たせるために作られた論理なのです。その経過は、この文章の2に書きます。
天照大神をはじめとして国家神道の神々が祀られること。天皇が国家神道の神々を祀る祭司であり、その儀式を、皇室祭祀として行なうこと。天皇が祭司として神ともいいうること。天皇は即位の際、真床覆襖の儀を行い、天皇霊を憑依させること。神道の神主が、地鎮祭を行ない、建築の際に土地の神の祭祀をおこなうこと。こうしたことは、宗教活動以外の何ものでもありません。
違うのでしょうか。神々を祀ることは、習俗ではなく、宗教ではないでしょうか。
「国家神道は、習俗であって、宗教ではない。」という論理は欺瞞でしかありません。
神道は習俗であって宗教でないとは、国家神道を、様々な宗教を信じる国民全体に押し付けてもいい、国家神道を全国民に押し付けたい、という自民党の願望の口実にすぎません。
こうした宗教である神道が、非宗教とされ、欺瞞的に扱われることは、宗教全体の混乱を招くことになります。非宗教と名つけられた国家神道が、国に保護され、全国民に強要されられることは、宗教全体を混乱させ、宗教の本来の価値を誤解させる働きをしてきたと思います。神道が他の宗教より上位にあるということは、非宗教と呼ばれる欺瞞的宗教の下に宗教全体があるということを示しており、宗教は、信じるに足らないものであるというイメージを持たれてきたと私は考えます。
私は、その国家神道は宗教でなく、習俗だという欺瞞の論理とそれよる宗教の混乱は避けたいと思っています。そんな欺瞞と混乱を憲法にのせるなどもっての他です。私が、この文章を、そうした欺瞞と混乱をさけるために書きました。
ただ、私は、国家神道を否定しているのではないし、それがなくなればいいとは思っているわけではありません。天皇を否定しているわけでもありません。国家神道が明治以来の日本国民の生活の中で果たしてきた役割は、それなりに評価したいと思っています。国家神道の功罪について冷静に考えてみたいと思っています。
私が主張したいのは、国家神道が宗教でないという欺瞞は許せないということ、そして、国家神道は宗教であるという自明の理をはっきりさせたいということにすぎません。
2 明治政府の神道非宗教論の経過
神道と仏教が共同して、天皇中心の神道(大教、国家神道)を伝えていく教化運動が挫折し、明治10年、教部省が廃止されました。
「天皇支配の正当化のために、天皇は日本をつくった神の子孫であるという論理を採用した明治政府にとって、天皇制を支えてゆくためには、どうしても天皇を絶対しする宗教、ないしは、宗教に近い「教化」手段が不可欠であった。そのために教部省という役所をつくり、神仏合同によって、神々や天皇の崇敬を説く「教化」運動を展開したが、たちまち、さきに紹介したような抵抗にあって頓挫することになった。だが、国家の中枢にいた人々は「信教の自由」論に表面的に一歩譲ったように見せかけて、天皇を絶対視するイデオロギーの創出を中断することはなかった。天皇を絶対視する神道を「信教の自由」の見地から国教化できないとすれば、その神道を宗教と見なさなければよいのである。もし神道を宗教と見なさないということになれば、神道を国民に強制しても「信教の自由」に一向抵触しないことになる」(「日本人はなぜ無宗教なのか」91ページ)
信教の自由、どの宗教を信じてもかまわないということと、天皇が絶対的だという宗教を両立させるために、明治政府は、「神道は宗教でない」という論理にならない論理を持ち出したのです。
『井上毅の神道非宗教論は、ことを「朝憲」と「教憲」に分けるという視点を明確にして、政策化への道を開いたといえよう。「朝憲」とは朝廷の掟、国家の掟の意味であり、「教憲」とはいわゆる宗教をさす。井上毅は、つぎのようにいう。神道をもって宗教と考えるのは、近世に入ってから、わずかの国学者に言い出したことにすぎないのであり、もともと神道とは、祖先を崇敬し、その祭祀にしたがうことであって、それはあくまでも国家の掟、朝廷の掟に属する。このような神道の祭祀を宗教のいう礼拝、祈念と同じものと考えるのは間違いだ(山県参議宗教処分意見案)、と。つまり、神道は「朝憲」であり、「教憲」ではないというのだ。国家の掟である以上、国家を構成する人民がそれに服するのは当然だということになろう。この立場では神道に服することと「信教の自由」はなんら抵触することにはならない。井上毅の論法は、神道非宗教論を政策として実行していく上で重要な論拠になった。』(「日本人はなぜ無宗教なのか」93ページ)
そうした井上の神道非宗教論は、明治政府において活用されていきましたが、それは現実的な政策としては、神道と他宗教の管轄する役所が違わせるという形において現れました。
明治十五年、「神官は教導職の兼補を廃し葬儀に関係さぜるものとする」という達丁が内務省から出されました。
教導職は宗教家の仕事であり、宗教家でない神道の神官は、教導職との兼務をやめ、また、葬儀にも関係しないというのです。
それに先立ち明治十四年(一八八一年)に内務省では以下の伺いが出ており、神官と教導職分離に理由を示しています。
「神官は、すべて教導職に兼補する旨、明治五年、題二百二十号公布の趣も候ところ、元来、神官は、司祭の職分、すなわち、社頭に奉祀し、祭式、公務を対処するの官であり、教導職は宗教者に付するの職名なれば、もとよりその性質が違っており、混同すべきでないものだ。しかしながら明治五年の法律は政教分離の制、未だ密ならざるの致す所にして、一般、神仏宗教者を同視すべき今日にあって尤もその宜を失するものというべきだ。これをもって祭典と教務互いに干渉しあい、その事に専門的に取り組むことができないだけでなく、朝憲を以って祀るところの祭神をもって即、その宗教の本尊となし、宗教紛争の禍をしてその祭神に及ばしむの恐れがないわけではない。」(大森が、カタカナを平仮名に改め、多少、現代語的に訳した)
この伺いは明治政府が出した、私の知る限り、初めての神道非宗教論の宣言です。
井上のいう『神道は「朝憲」(国家の掟)なのだ』という論理が示されています。
国家の掟をもって祀る神道の祭神を、宗教の本尊として宗教紛争の禍を神道の祭神に及ばせてはならない。神道の祭神は、一般の宗教の神々とは違う朝憲の神なのだから。というわけです。
私は、安土桃山時代以降、政治は宗教の上位に君臨し、政治は宗教を変形させたり、抹殺したりしてきたと思っています。
国家神道は、他宗教は、国家神道の下位に位置づけられる。国家神道の背後には政治が存在し、政治は、宗教を、政治の下位に位置づける。言い換えれば、宗教は、政治に好き勝手に変形させられたり、宗教本来の本質と違った奉仕を政治のためにさせられる。そうしたものとして宗教は扱われてきたと感じます。
3 神道非宗教論・神道習俗論についての木精さんの書き込み
参考として、今まで木精さんが神道非宗教論・神道習俗論について書いた一部を紹介します。詳しくは、ページをさかのぼってご覧ください。
木精さんの書き込み
「神道非宗教論への視座」
2011年1月15日
(現在の「全339件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。」のバックナンバーでいうと17をクリックすると出てきます)
『こうした構図が、黙雷が「治教(じきょう)」と「宗教」を区別し、国家神道体制の領域を「宗教」とは異なる「治教」という概念で整理していることが神道非宗教論を考えるうえで重要なヒントになると思いました。
一般的には、「治教」という語は「政治と宗教」や「政治と教育」の意味で用いられているようですが、黙雷の語法における「治教」とは、宗教的性質を濃厚に帯びながらも、今日の言葉でいう「国家イデオロギー」とほぼ重なり合っています。黙雷の整理によると、天皇教は「宗教」ではないけれども「治教」ではあるわけです。非常にすぐれた視点だと思っています。』
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木精さんによる書き込み
「習俗または宗教心という非―宗教」
2011年4月16日
(現在の「全339件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。」のバックナンバーでいうと14をクリックすると出てきます)
『戦後、GHQの神道指令によって国家神道が解体されましたが、実際には目に見えやすい事象が禁圧されたにとどまり、明治時代以降、宗教ではない「習俗」へと根をおろし続けてきた目に見えない「神道習俗」はGHQの弾圧の目を逃れて、今日までしぶとく残存してきたように思います。この「習俗」に内在する宗教心のおかげで、平均的日本人は、無宗教と自覚しながらも宗教的心性を失わず、宗教的苦悩に陥ることなく生き続けてきました。阿満氏のいう「自然宗教」ではなく、目に見えにくい近代的な「神道習俗」が、戦後の日本人をなおも宗教的に生かしめた、というのが私の見方です。阿満氏もその点はある程度認めておられます。
ただし、それは宗教の枠組みを奪い取られた宗教心です。卵の殻を失った中身だけ。中身が殻をつくり出すことはできません。そして、裸の宗教心というものは、はなはだぬるい形でしかあらわれません。戦後の日本人は、そのぬるさを戦後民主主義の反映として都合よく解釈し、ぬるく肯定し続けてきたように思うのです。
戦後日本人の「宗教なき宗教心」は、国家神道が破れた後、自然宗教へ回帰したわけではなく、それ自体としては宗教の枠組みを失いながらも戦後に生き延びた近代的「神道習俗」を受容することで、その宗教心を満足させるだけの聖性の備給を受け続けてきました。
そのため、象徴天皇制における天皇もまた、国民の宗教心の中では、「習俗」のカテゴリーに属する非‐宗教的な祭儀の司祭者という、なんとも曖昧な形で受容されてきたように思います。しかも、ソビエトとは異なって、この「習俗」と背反せず親和するような形で西洋近代科学が積極的に受容されてきました。戦後の昭和天皇が「植物学者」だったことが、それを端的に示しています。
そして、それらの総体こそ「日本型無神論」と私が呼ぶものです。日本人がそれを脱して「キリスト教型無神論」を主張するとき、その日本人はマルクス主義者にならざるを得ませんでした。近代日本において「無神論」が真の思想的課題となり得たのはマルクス主義者だけです。ところが、ロシアの革命家とは異なり、日本のマルクス主義者は恃むべき精神的支柱としての近代自然科学をすら持っていなかったのですから、その思想営為は過酷をきわめることになります。単にドストエフスキーにかぶれただけの日本の文学青年が「無神論」を口走っても、そんなのは、ただの甘ったれでしかありません』
4 参考資料
比較のために、日本国憲法の信教の自由の箇所は以下です。
「第二〇条【信教の自由】
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」
大日本帝国憲法の信教の自由の箇所は以下です。
「第28条日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」
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