読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

くらむせかい

精神虚弱なぼっちヒキニート

くらむの失恋。(後編)

mental

 

kuramuchowder020.hatenablog.com

 

 

りあがじゅうになっていたのです。 

 

いたい痛い、いたいいたいいたたたたいいたいっ、心が引き千切れちゃう! 

 

そんなはずはない、というのは、その人に対してあまりに失礼です。
それに、自分の世界が停滞中でも、自分以外の世界は止まることなく変化を続けていることくらい、さすがのくらむも理解しています。
分かっているのです、分かっている、けれど、

けれど、も…

急すぎるでしょうよ!


心の準備出来てないよお、ていうかこないだ見た時には、なにも言ってなかったじゃんかああ!げほげほ。

いやしかし、それも、分かってはいるのです。
blogに書かれていることがその人の全てではないし、それに、前提があるいは結果が虚偽である可能性も十分にあります。
しかしそこまで、疑うのはめんどうなので、基本、くらむは、ありのままをありのままに見ているのです。


吐血。

げほげほげ、ほげ、吐血。


顔文字を使わせてもらおう。

 

りあ、じゅう。

 

 ┐('д')┌

 

げほげほほほ、ほ…

 


くらむはその人のなにが好きだったのだろうと考えていました。
”その人”を好きだった、とは言えないと思うのです。
前述したとおり、blogはすべてではありません。
自分が、日に3分を裂いてその文章を読んでいるだけであったように、
その人だって、日に10分を裂いてその文章を綴っているだけの事なのです。

でも自分にとっては、他とは違いました。その人だけが特別だったし、好きだったし、しょっくだし。なあ!


自分はその人の、はやり、文章が、なにより、好きだったのだと思います。
読み続けようと思えるのは、やはりそこ。
その人の人柄や、日常ももちろんblogの大事な要素だけれど、それ以上にというか、それらすべてを超えてくような文章、は、
他の誰にも真似出来ないし、ただの情報、とは違って、代用品はないのです。
なにが、どこが、好きなのかというのを的確に、それこそ文章に、出来るほどにはくらむは言葉を知らないのですが、
なんでしょうね、はてなでも、たまにいます、文章をひとつ読んだだけで、心が、がが、っとなる人。

 

悲観を溢れさすのは、簡単です。
しにたいだとか、もういやだとか、言うのも簡単。誰にでも言える。
そう言ったありがちな言葉を一切使わずに、でも、確かな弱さを見せようと(本人に自覚は無くても)する文章は、
なによりも、生き生きしていて、力強くてでも儚くて、
やっぱりくらむが言うと、メンヘラっぽく聞こえるだろうけれど、ちがうんですよ、ほんとにね、文章が、素敵なのです。

美しい文章。


くらむはその人が好きでした。
文章がね、なんて言いつつも、でもどこかで中の人に自分との共通点を見出して、同じような躓きに対して、救いを感じていたのだと思います。
孤独、の反対、を、その人を見る事によって、見つけていたのかもしれません。
意識としては、ないんです、自分と同じような人と関わりたいとか、回復のルート、あるいは、逆の、ルートを知りたいとは、自分は思ってはいません。
だから、病名をググる事もないのです。
でも、まあ、そういうの、さくっと、飛ばして、
好きになったんだと、思います。

 

くらむはなにに失恋したのか考えていました。
好きになったのは、その人とその人の文章。
でも、失恋したのは、つまり、しょっくを受けたのは、その人とその人の文章、にではないのです。
苦しんでいた人が回復するのは喜ばしい事だし、いくらかは見続けていた人だけにその喜びも、大きいです。(至極勝手にですが)
まさか!とは正直思ったけれど、衝撃を乗り越えた今は、本当に、それは喜びだと思っています。
いいこと。
しあわせになってほしい。


けれど、感覚としては、
くらむはなんだか、失恋しているのです。
なにに、どこに。
その答えが、ついに見つかって、だからこの文章を書き始めました。

 

くらむが失恋した相手は、痛みを伴う生き方、そのものです。
その人の生き方には、痛みを伴っていました。
決してメンヘラには落ちず、かといって障害認定は受けられない、保護されるほどの状態ではないし、
でも今は自立は出来ない、そんな中で、その人は、ひどく苦しんでいました。
苦しみを、打ち消す術は、くらむと、同じ。醜い術。

でも、そうしてでも、確かに、その人は、生きていたのです。

その、不器用な生き方が、痛みを伴った生き方が、なによりも、くらむには、希望に見えました。
そうして苦しみながらでも、生きていく人がいること、
そういう生き方だとしても、いのち、を続けられることが、
なにより尊ぶべき事に見えたのです。


痛みを伴った生き方を、卒業したその人を見て、
くらむは、その”痛みを伴った生き方”そのものに、失恋したのです。


なにもかもを、こなせるのなら、
そうすればいいけれど、
それができなくて、こまったなあ、とおもう自分は、
どこかで、やっぱり、弱さを許容されたいと思っている甘えがあるし、

また、それと全く並行して、
弱さと折り合いをつけながらでもいいから、生きてゆきたい、という欲もあるのです。
折り合いをつける方法と言うのは、言うまでも無く、痛みなわけですが。


その生き方の限界がそこにあるというよりは、この失恋は、
「”そもそもの苦しみ”自体の肥大化という疑念が生じる」ところが辛いです。
結局のところ、自分たちがこんなにも苦しいという気持ちは、
そんなふうにあっさり(あっさりではないかもしれないけれど)、
他人への、からの、愛情によって、
脱ぎ捨てられるような、そんな、かんたんで、うすっぺらいものだったのかな。って。

どろりっち。


ただ、くらむは、思っていたのです。
どんなに苦しくても、傷だらけでも、生きてさえいれば、それ以上の奇跡はないんだって。
逆を言えば、生きるためには、その苦しみも痛みも、存在を許されるだろう、と思っていたのです。


でも、そんな生き方に、思いがけず失恋して。
くらむはくらむで完成している、なんて言った事もありますが、自分の考えに少し、分岐が出来たのだと思います。


希望、というには、まだ辛いところだけれど、
あんなに、しにそうだった人が、こうして、りあじゅうになれるというのは、本当は、その事こそ、希望なんです。


うん、でもやっぱりこうして文字で見ると、なんだかねえ。受け入れがたいね。

 

そんなふうに生きられるのなら、今までのはなんだったんだろう、ってやっぱり思ってしまう。
でもねえ、今の自分がそう思っていても、どうでしょうね、自分もなにかのきっかけで、
音楽でも文学でもいいけれど、がつん、と救われる事があったら、


分岐のそちらに、くらむも進んでゆけるのかもしれませんね。

 

しかしきっとまだ、くらむは、
ここにしか、いられない。

ああ、こんなに長々書いちゃって…ごめんなさい。なんでもない話なのに。

 

いつか、その人がもっともっと、しあわせになって、
なんども”しんだ”その命を、でも続けていてよかった、って思える日が来たら、
いいなと思うし、きっと、そうなるんだと確信にも似た感覚で思っています。


病名やかせを言い訳に、自分を傷付けるだけの人生、を卒業したその人を、
きっと、くらむは、ずっと、目標にしてゆくのでしょう。
この先、どんなblogに出会っても、これほどに様々が自分と酷似した人はきっと、いないから。

 

大好きだった希望が、本当にあるべき希望になって、
しかし眩しさに目が眩んで仕方がない。
それは、しばらくはくらむには手を伸ばせない光だけれど、

新しい分岐を知って、くらむは、

どこかで変われたのかも、しれません。


意識にはないけれど、意識なんていうものは、あってないようなものですしね。
記憶と、同じ。

 

そんなこんなで、くらむの失恋は、ちら、り、と頭の隅っこに希望を置き去りにして、
終りました。

 

なんだかんだ言っても、なんだか、嬉しいんです。
しあわせに、みんな、なればいいい。
みんなが、一人残らずしあわせになれたあとには、
くらむも、しあわせになれるのかもしれない、って思ったりしています。


一個の希望は衝撃だけれど、そんな希望が当たり前になったらきっと、
眩しくなんてなくなるんです。
ちゃんとこの目でも、
見られるように、なるんでしょう。

 

その時まであと何万光年。

 

とりあえず今はここから、

『さようなら』と、手を振りましょう。

 

今日も誰かがしんでしまうこの世界で。

 


くらむ


追記。
だらだら書いたけれど、途中にも言った様に、物にも人にもくらむはあまり執着しないというか、
のめり込みはしないので、大丈夫だよ、怖がらないで!(笑) ひどく執拗な感じに仕上がってないか心配しています。
実際、少し寂しいし、勝手に孤独感が増した気になってはいるけれど、でも、
出会えてよかったって(一方的に知ってるだけだけど!)、本当に思っています。
これほどまでに自分と似ている人は、そうそういないだろうから。

自伝として書籍化でもしてほしい、それくらいくらむはその文章が、好きでした。

もしその人が小説家デビューしても、その人がその人だと、名が変われば分からないのかな、ってえらい先の事考えて残念に思っています。