さまざまな人が消えていく。
 語るべきものを語りつくして消えていく人はいい。だが、事件の当事者として断罪され、がんじがらめのしがらみに、語るという選択肢を閉ざされたまま死んでいく人もいる。
 六月十日、元丸紅専務の伊藤宏が亡くなった。伊藤は、ロッキード事件で、田中角栄元首相に五億円のわいろを渡した当事者であり、ロッキード社と丸紅との間の金の受け渡しを裏付ける“ピーナツ”と呼ばれる領収書に署名した当人である。しかし、伊藤宏の死を伝える記事は小さく、ありふれたものにすぎなかった。
「なにかがよじれている」。ロッキード事件について、伊藤は親しい人にこうつぶやいていたが、結局、全てを語ることはなかった。自らを引き立てた丸紅社長・檜山広への遠慮もあったろう。そして檜山がなくなり、呪縛がとけた時には、自身も病魔に襲われていた。
「語り尽くして逝ってほしかった」としみじみ思う。

戦後に復活した番町会グループ

 歴史的な疑獄事件には、それぞれに時代背景を示す含意がある。
 戦後をみても一九五四年の造船疑獄には、「官僚出身者による保守政党主流派体制が確立すること」に対するある種の異議申し立てがあった。そして一九七六年に表面化したロッキード事件には「土建国家型の利権構造が日本社会を支配すること」に対する異議申し立てがあった。一九八八年のリクルート事件は「規制社会から市場社会への移行」に対する催促だった。
 昭和史のなかで、戦前にそれらを上回る衝撃度をもつ疑獄事件を探すなら、昭和九年(一九三四年)におきた帝人事件がそれに当たるだろう。五・一五事件と二・二六事件のあいだにおきた帝人事件は、「渋沢型の資本主義から大政翼賛型の戦時体制への移行」をつげる節目だった。
 帝人事件は、昭和恐慌によって倒産した大手商社鈴木商店が保有し、担保として台湾銀行に眠っていた帝人株を、新興の財界人グループが取得したことを巡っての、政界・官界まで巻き込んだ贈収賄事件である。しかし、三年間におよぶ捜査・裁判の結果あきらかになったのは、陪席判事の石田和外(のちの最高裁長官)が書いた「水中に月影を掬せんとするの類にして」という表現に象徴されるように、検察・特高警察がつくりあげた全くの「空中楼閣」に過ぎなかった。
 事件の発端となったのは、武藤山治率いる時事新報のキャンペーン記事『番町会を暴く』だった。番町会の総帥であった郷誠之助は、男爵という家柄と、再建屋、いまでいうとブリック・アンド・モルタルの専門家というユニークな経歴をタテに、日本商工会議所会頭にのぼりつめ、渋沢栄一の後継者とみなされるまでになっていた。
 番町会のメンバーには、帝人事件で被告となった河合良成、永野護だけでなく、渋沢栄一の息子である渋沢正雄、丸紅、伊藤忠の実質的な創業者だった伊藤忠兵衛、読売新聞の創設者正力松太郎などもいた。彼らは、帝人事件に関する無罪判決が出たあとも、戦時体制のなかで活躍の場を奪われた。
 そして、戦後の復興を象徴するのは、「番町会グループ」の復活と、その遺伝子の拡散である。帝人事件の被告だった河合良成は戦後、小松製作所を日本の重機械工業のトップ企業に育てあげた。番町会メンバーではなかったが、帝人事件の被告だった小林中は、戦後、日本開発銀行の総裁となり、中山素平など後継者を育てる一方で、日本の産業・金融のさまざまな調整役として、まさに「番町会」の戦後版のまとめ役を演じた。正力松太郎は内務省官僚から転じ、部数日本一の読売新聞社の実質的創業者となり、かつ日本のテレビ業界の実質的な創業者ともなった。伊藤忠兵衛は伊藤忠商事、丸紅の創業者として、関西系の商社のドンとなり、その流れは、ロッキード事件で有罪となった檜山広、伊藤宏にまでつながる。
 その中でも、名実ともに渋沢資本主義を体現しているのは、永野護とその一族だったのかもしれない。永野護は戦後、政界入りして、岸内閣の運輸大臣になったが、その役割は三木武吉などとともに実現した戦後の保守合同で終わっていた。だが、彼の兄弟や一族は、まさに戦後の高度成長のモデルとなり、戦後の日本を支える役割を担うことになった。
 護の弟である永野重雄は、冨士製鉄の社長として、また渋沢栄一が作った日本商工会議所の会頭として、日本の財界を長らくリードした。彼だけではない、内務官僚から転じて水野組(現在の五洋建設)の社長を長らく務めた俊雄、日本航空の会長になった(伍堂)輝雄、家業の寺を継ぎ参議院議員となった鎮雄、そして石川島播磨重工の副社長を務め、日本のジェットエンジン開発の草分けとなった治など、永野七兄弟の物語はいわば渋沢資本主義の「神話」となり、九〇年代に日経連会長を務めた永野護の次男、永野健・三菱マテリアル元会長にまで受け継がれている。
 政治・官僚・産業界にひろがった永野家の壮大な人脈は、「サラリーマン主義」と「同族主義」の一種のハイブリッドだった。そして、永野一族の哲学を形作ったのは、永野護を通じて直接・間接に伝わった渋沢栄一の影響である。
 広島の片田舎から一高に入学したものの、東大法学部入学直後に父の死による経済的苦境に襲われた永野護を救ったのは、一高時代の同級生である栄一の息子、正雄の口利きによる経済的支援だった。大学卒業後も護は、「渋沢栄一の秘書」という肩書きで、大正四年(一九一五年)にサンフランシスコで開催されたパナマ運河開通記念世界大博覧会にあわせて、渋沢栄一を団長とする訪米団に随行する。番町会の主要メンバーに渋沢正雄が名を連ねていたのもこうしたわけである。

戦後日本を見通した永野護

 しかし、ひとたびできあがった大政翼賛のシステムは、帝人事件の判決で被告が全員無罪になった後も、番町会グループの復活を許さなかった。
 戦後の渋沢資本主義の復活は、小林中、河合良成、永野護など帝人事件の被告だけでなく、正力松太郎、伊藤忠兵衛、山下太郎など番町会人脈が、戦前の怨念を企業家精神に転化して作りあげた結果といえなくはない。
『敗戦真相記』という小冊子がある。永野護が昭和二十年九月に話した講演を六十ページあまりにまとめた小冊子である。そのなかで永野は、戦後賠償のあり方について「実物賠償を取りたてるために連合国側が進んで日本に対して設備原料を供給しその製品を持ち帰ることを要求するのであれば、一千万人に近い失業者の出ることが予想されている日本の現状においてはむしろ救いの神というべきです」と述べている。「第二次世界大戦が終わった後もなお、死に物狂いで原子爆弾の研究か何かを続けなければならぬ、いわゆる大国と言うものが、それほど幸福であるかどうか疑うものです」。
 アメリカに対する賠償をばねにした資本蓄積と、戦争放棄による経済的な比較優位。敗戦後一カ月に、これほど的確に現状を認識し、将来の展望を読み込んでいたことは驚嘆に値する。こうした人材の厚みに支えられてこそ日本の戦後の復活は可能だった。
 そして西暦二〇〇一年。いまや、政官民が一体となった渋沢資本主義では、新しい時代に対応できないことは誰の眼にも明らかである。ロッキード事件とは、こうした渋沢資本主義が、グローバルな経済行為のなかではシステムとしてもワークしなくなったことをつげる事件だった。
 伊藤宏の「沈黙と死」は、四半世紀にわたって日本が情報公開社会と市場型経済への移行を怠ったことへの無言のメッセージなのかもしれない。(文中敬称略)

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