Challenge Diary

ホーム > "Challenge" Diary > 取締役会長 高橋 修

パナマ運河代替案調査 取締役会長 高橋 修

最終報告書提出時SINBOL事務所の前で中央が故大村氏、右から二人目が筆者
最終報告書提出時SINBOL事務所の前で
中央が故大村氏、右から二人目が筆者
船舶交通需要が通過能力の限界に近づきつつあったパナマ運河を将来どのように改良するかの代替案調査が、日米パ3国の共同調査として1985年9月から1993年9月までの間、日米パ政府による調査委員会のもと実施された。調査委員会は調査のマネジメントを行うコンサルタントを調達したが、日本工営は日米パのコンサルタントからなるJ/Vを結成し本業務に応札し、選定された。コンサルタントチームの構成はStone & Webster、The Industrial Bank of Japan、Nippon Koei、Bechtel Corporation、Overseas Coastal Area Development Institute of Japan、Lopez Morenoの6社で、頭文字を取ってSINBOLと名付けられた。

SINBOLが調査の内容、工程等を作成し、調査委員会の承認のもと調査が進められた。要素調査は専門のコンサルタントに発注され、その成果をもとにSINBOLが代替案を検討した。要素調査の主なものは、運河を航行する交通量の将来予測、通行料設定に関する調査、環境調査、地質調査等であった。日本経団連の永野重雄氏が海面案(Sea Level Canal)を提案したことから調査の範囲が広がり、厖大な量の調査が実施された。この調査をSINBOLのPMとして仕切ったのが日本工営の大村精一氏(1937-1993)であった。

大村氏は数多くのプロジェクトを通じ、その高い技術力とプラニング能力には皆が一目置く存在であった。しかし、性格的に頑固で一家言を持っており、氏と仕事を共にした者が口を揃えて「もう、彼と一緒に仕事をしたくない」という人物でもあった。私は一緒に仕事をした経験がなかったからか、大村氏の博識と能力の高さに傾倒し尊敬していた。1992年暮れ、パナマ調査の最終段階で大村氏はガンの大手術をした。手術は成功し、翌年3月にはSINBOLの東京会議が開催され、会議全般を病後の大村氏が見事に仕切り、本社内で高い評価を受けた。1993年4月に大村氏から「体調不良でこれ以上パナマ調査を続けられないのは残念だが、残りを君に託すからよろしく頼む」と言われ、私が引き継ぐことになった。パナマには報告書の打ち合わせと最終報告書の提出のため7月と9月に、2度出張したが、大村氏がSINBOLのメンバーのみならず調査委員会からも高い評価と尊敬を受けていることを知り大きな感銘を受けた。大村氏はその後病状が悪化し、8月に帰らぬ人となられた。調査関係者全員の希望で、最終報告者の見開きページに「この報告書を最大の功労者故大村氏に捧げる」との文章と共に大村氏の遺影が挿入された。

最終報告書では15万トン級の船舶を対象とした第3閘門を2020年までに建設することを内容とする現運河の改良案が最適代替案として勧告された。この勧告に従い、パナマ政府により準備が着々と進められ、2010年の現在、第3閘門の建設が始まろうとしている。

2010年4月 1日