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「富士日興上人詳伝」から 60(最終回)

 投稿者:メモリ  投稿日:2012年10月17日(水)23時23分32秒
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  ※本投稿は私の感想です。特に書籍からそのまま引用した部分は本文からとして分けてあり、その他の短い引用句は「」をつけて区別してあります。それ以外の文章は、私個人の感想を含 みます 

2つ目は、蓮蔵坊七十二年の係争(日道と日郷の係争)である。
1333年、日目上人が日郷と日尊を連れた旅の途上に遷化されてしまうと、帰ってきた日郷(東坊・蓮蔵坊)と日道(西大坊)との間で「宗義の諍ひ」が起こる。実際にどのような宗義が争われたのかは不明である。大石寺の法主の座を争ったかにもみえるが、そもそもこの時代に法主という地位はないかもしれず、大石寺のトップがたった一人であるべきという概念すらあったかどうか明確ではない。文献に見えるのは、もっぱら大石寺に並ぶ建物(僧坊)のうち、東側の幾つかの坊を日郷が自分が付属されたものと主張した争いである。だから目に見えるのは、教義上の論争ではなく、もっぱら檀那の南条家や官憲を巻き込んでの土地の跡目争いの騒動でなる。
大石寺はこの騒動に72年間も費やすのだから、相当に疲弊してしまう。

この係争によって何がもたらされたか。
1405年の「興津美作入道法陽去り状」が係争中の最後の文献の説明で日亨上人はこう言われる。

本文から
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東坊係争文書、これより後には彼我ともに半片の文献も見えず。まったくの終結と見るべきであるが、この七十年の苦闘によってかち得たるものは、双方ともに疲労の二字のみであり、苦闘によってなんらのプラスも残ってないという富士法運のまったくの壅塞(へいさい)であり、表面公正を粧(よそお)うて内心小泉党と結託したる北山ですら、漁夫の利は得られていない。(P856)

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疲労しただけで何のプラスも得られなかったのだと。日亨上人は、これによって大石寺は法運が壅塞したと表現されている。六老僧の中で誰よりも活躍された日興上人。後年、二箇相承など紛失して見当たらないがゆえに、日興上人門下の正義を主張すべく、富士門下では教学が発達したと言われる。しかしその日興上人の活躍を色褪せさせるほどに、他の老僧門下に比べても大石寺の後継は壅塞していくのだ。
どちらが相承を受けていたかどうかは、現在からは分かることではない。どちらがまじめであったかといえば、どちらも大石寺で先師から厚く信頼された人格を有していたのだ。それでも彼ら二人を基点として多くの人を巻き込んで大石寺は疲弊してしまうのだ。真剣であるからこそそうなってしまうのか。人がいる組織であるかぎり、このようなことは起こるべきして起こるものだが、避けようと努力するのも人の英知である。
他山の石として重く受け止めたい。

日亨上人は、本書の最後に、「富士日興上人詳伝」の関連年表とは別に、これについての「七十二年史表」を加えられている。その末尾にはこう記されている。

本文から
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以上の年表によりて、ほぼ郷門が東御堂を蓮蔵坊に建てて西大坊に反抗せし時代をみるべし。
日興上人の詳伝をこの不祥事にて結ぶことは、もとより不本意で、たんに付録として御滅後の史実を二品読誦の小葛藤とともに記するのみ。(P875)

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不本意であったと、わざわざ年表の最後にまで念記されている。ではなぜ不本意なものを掲載されたのだろうか。話の流れからはエピソードとしてはおかしくないが、日目上人の御遷化の後の数十年間であるから、さすがに行き過ぎの感もしないでもない。しかもこのエピソードの冒頭には日亨上人が記されているように、富士宗学要集(9-35)に「くわしく掲載しおきし」ものを転載したもので、それに(補記)として補足の文章を加えたり、一部省略されたものであり、特に論調に変化はない。であれば富士宗学要集のほうを改訂すればよいはずではないか。事実、富士宗学要集はそうして改訂されているのに。
不本意であるとされながらこの42頁分もの大幅な挿入を許されたのは、単に歴史的事実として紹介されたかったのではなく、富士が簡単に壅塞していった原因を皆に知らしめたかったのではないかと私は想像する。誰にであるのか。創価学会にである。

ちなみに、このような騒動が恥ずかしいと感じたのか、日精上人の家中抄では、この争いごとは、たったの3年で解決してしまったことにしてしまっている。日亨上人云く、「精師の演劇化驚くべし」(富士宗学要集9-58)。

(終わり)
 
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