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(※本投稿は私の感想です。特に書籍からそのまま引用した部分は本文からとして分けてあり、その他の短い引用句は「」をつけて区別してあります。それ以外の文章は、私個人の感想を含みます。)
日興上人詳伝の最後の章には、日興上人亡き後の2つの事件の顛末が約50頁にわたって解説されてある。
その1つ目は、方便品読不論争(日代日仙問答)である。残念ながら私にはこの不可解な事件について十分に説明できる能力は無い。
本文から
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方便品読不のことは、開山上人富士定住間もなく、天目の謬解を是正せられて、またそれを後年の五人所破抄に明解せられてあるから、御門下に意義あるべきはずはなかるべきやに考えらるるけれど、主要な門下の僧分老若において、御遷化一周年のために重須より大石に詣でし日代上人が、上蓮坊(いまの百貫坊)にて老坊日仙上人と偶然方便品は読むべきや否やの問題を応答せしに、上野重須多数の傍聴者ありて、その直聞の記録なるものが、重須側の阿仏房日満上人の記では日代の説を賞揚し、上野側では薩摩阿日睿の記には日仙に肩を掲げておる。(P816)
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方便品を読むべきかどうかなんか、天目の時からみんな知ってことで、門下一同で何の意義もないはずなのだと冒頭に言われている。
方便品を読むなという日仙は、大聖人在世の頃からの僧で、日興上人と共に身延離山され、日興上人の下では本六の一人として大石寺の重鎮であった。大聖人や日興上人が日々どう過ごされていたかを知らないはずがない。反対に方便品を読むべきというのは日代で、これまた日興上人の新六の弟子の一人で、日興上人が過ごされた重須の主職であったから、日興上人が日々どうされていたかを知らないはずもない。なのである。
それが日興上人が亡くなられてから約11ヶ月、日目上人が亡くなられて約2ヶ月後、すぐのことではないか。この問題は偶発的に発生する。上蓮坊で居合わせた70歳を越す老いた日仙と40歳の日代との間で、方便品を読むべきかどうかでまじめな論争が始まるのだが、共に自分の己義を述べているつもりはなく。先師がどうだったかが主眼であるのだから不思議である。
日興上人、日目上人が日々の勤行をどうされていたのかを、なぜ、この2人が論争しなければならないのか。いや、それよりもなによりも、この日までの何十年間を大石寺や重須の多くの僧は、いったい毎日の勤行をどうしていたのだろうか?
居合わせた人の記録を読んでも釈然としない。はっきりすることは両方の意見を書きとめた複数の人々がいたが、その意見がまた様々で、周囲の僧の見識も様々だったらしいこと。そして論争が持ち越されたのかそれとも話題になったのか、結局、騒ぎになって日代は重須の地頭から嫌われて追い出されてしまうし、日仙も大石寺を離れて讃岐に行ってしまう。日道上人がどういう役割を果したかも実によくわからないが、日興上人がいた重須はやがて北山本門寺に、日代が向かった西山がやがて西山本門寺と、大石寺とは別の道を歩んでいくことから考えると、誰も日道上人を日興上人の正統な後継者とかいうふうには認めていなかったのかもしれない。
結局、重須から俊英の日代が追い出されてしまったことは手痛いが、本件はまだ次の事件に比べれば、宗派全体には何の影響もなかったと言ってよい。日亨上人は、これを「現代からは過ぎ去りし夢物語に類した無益の筆の跡とみるべき」と評されている。
本当に不思議な事件である。あるいは日興上人も日目上人も一笑に付されるようなことだったのかもしれない。なににせよ、今日では、大石寺の誰一人として、この史実について正しく説明できる人がいないという崩れ落ちたあとの歴史の断崖だけが聳えるかのようだ。
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