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(※本投稿は私の感想です。特に書籍からそのまま引用した部分は本文からとして分けてあり、その他の短い引用句は「」をつけて区別してあります。それ以外の文章は、私個人の感想を含みます。)
日興聖人の俗弟子には、筆頭には南条七郎次郎時光があげられている。
名前が長いのは、父の名前が七郎で、その次男なので七郎次郎という名前なのである。上野地方の若き地頭であったので、大聖人からは上野殿と呼ばれていた。身延を離山されたときに日興上人に今の大石寺の場所を寄進した。
大聖人が送った上野殿御返事(竜門御書)の奥書き(新編御書P1561)には、「上野賢人御返事 此れはあつわらの事の・ありがたさに申す御返事なり」とある。
この賢人は、一度は聖人と記されてから、わかるように消されて、賢人に書き直したことを日亨上人が指摘されている。
本文から
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竜門御書と申して、中国の黄河の上流なる滝を登りきる鯉は、竜と化して天上することを得るが、その道程は困難なものであることを、武将によせ、仏道によせて、こと熱原法難によせて、七郎次郎を激励せられたのに、すこぶる御賞嘆の御意がこもっておる。「熱原のありがたさに」もそれであるが、「賢人殿」との敬称に、かさねがさねの御慈愛がふくまれている。
「聖人」という敬語は、当時の高僧の官憲の待遇たる僧正等の官僧と、法眼等の位僧等にもれたる碩徳への一般称であるから、大聖人の御状中に「聖人」と当てられた御弟子はいく人か見ゆるで、七郎次郎を賛意のあまりについ「上野聖人」と筆を下されたが、これはわずか二十歳の青年にはあまりに不穏当であるから、聖の字の上に賢の字で直された本山の御正本が、まさにそのとおりで、数百通の御直書にその例のない御慈悲心が、こもっておるのを、とくに注意して、御滅後のわれらも深く「有難」がらねばならぬ。(P715)
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通常、聖人の肩書きを手紙に使う場合とは違い、あまりの賛意から「聖人」と記されて、やはりまだ青年なので道を踏み外さないようにとの念慮からあえて賢人に格下げにしたとのことである。なぜそれほどまでに讃えられることになったのだろう。身延離山の困っているときに大石寺の土地を寄進してくれたからだろうか。否である。
それは熱原のありがたさからだと大聖人は言われている。熱原の法難が1279年の秋に終結し、この竜門御書は11月に送られた。その翌年の7月に送られた上野殿御返事をあげて日亨上人はこう説明を加えられている。
本文から
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これは、法難の起こりより十か月の御状で、まだ終息しておらぬ。官憲でも種々の罪人として調査中のこととて、根源地の下方荘の熱原付近の下方政所の管内にいては危険であるから、管轄違いの上方荘の上野の南条家内に新富地神社の神主(日秀の弟子で重立ちたる者)を避難させてあった。そのほかにも若干あったろう。それらを官憲では、疑いの目で、他事にまで種々の圧迫を加えられた。
その忍耐の苦しみは、容易ならぬものであった。熱原の法難には一般の僧俗に多少の難儀はかかったろうが、直接に間接に畢死(ひっし)の苦労をさせたのは、若き地頭の七郎次郎一人である。(P716)
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実際に法難の苦労を背負ったのは、たった一人だったのだと言われている。圧迫を受けた多くの農民や、捕縛され、斬首になった人たちとの比較をここに含むのかどうかは知り難いが、南条時光に加えられた迫害はそれに匹敵するものであることは確かで、ここでの日亨上人の評価は、僧ではなく、苦労したのは南条時光、ただ一人であったのだと言われている。それゆえに聖人と大聖人がいったん書かれたものと拝される。
日興上人のその他の弟子については、残された史料が少なく、南条時光の他には6人の列伝が加えられているが詳細は略す。
日興聖人の弟子分与帳にも、高橋、西山、新田、石河の名前が見えるが、弟子分帳は通称で、主に大聖人の御本尊の行方を記すことが目的の書であるから、宗祖滅後17年目に書かれたそれ以降の弟子については、当然ながら記述は無い。この日興上人詳伝であげられた俗弟子分について、弟子分帳にある名前は以下のようである。
「次に俗弟子分、一南条兵衛七郎の子息七郎次郎平の時光は日興第一の弟子なり、仍て与え申す所件の如し。」(P708)
「高橋六郎兵衛入道は日興第一の弟子なり仍て与え申す所件の如し。」(P746)
「由比甚五郎□□□□□は日興第一の弟子なり、仍て与え申す所件の如し。」(P751)
「富士西山河合四郎光家は日興第一の弟子なり、仍て与え申す所件の如し。」(P751)
「新田四郎信綱者、日興第一の弟子也、仍て与え申す所件の如し。」(P756)
「石河新兵衛入道道念者日興第一の弟子也、仍て与え申す所件の如し。但し嫡家孫三郎伝領す。」(P764)
みな在家であるが、「日興第一の弟子」とあり、他の僧と記述に何の隔たりも無い。この他にも日亨上人は、秋山与一、秋山孫次郎(日高)、曾根氏、新池氏をあげておられる。弟子分帳より後の登場であれば弟子分帳に記載の無いのは当然であるが、日亨上人は特に秋山孫次郎を、「興尊弟子中の白眉」とまで言われている。「まれなる護法家」、「多大の功績」、「興尊の全門下が、皆この仁のようであつたならと、しきりに思い出らるる。」とされている。それほど賞賛されるべき僧侶(日高)なのに日亨上人は俗弟子分として扱っている。ここにも区分に温容である証拠が見られ、もし僧を俗とは違う名誉ある位置と考えるなら、これほど失礼なことはない。
日興上人詳伝の俗弟子分の最後の項は、背反俗弟子の項であり、波木井六郎実長および一族等があげられている。
波木井実長は日興上人によって入門し、大聖人には身延の地を寄進した大檀那であったのが、大聖人没後には、日興上人を見下して謗法を改めようとはしなかった。弟子分帳には波木井実長はこう記載されている。
「甲斐国南部六郎入道者、日興第一の弟子也、仍て与え申す所件の如し。」(P795)
日興上人の第一の弟子なのだと。ここからも日興上人が第一の弟子と言われてもそれは保障ではないことがよくわかる。仏法は立場を保障する制度などないのだ。なのに法主だけは特別に保障されているものだと考えることは、近年に台頭した幻想でしかない。
同じく寺院の場所を提供したのに南条時光とは大きな違いである。波木井は謗法を容認していく方向で進もうとしたし、南条は護法のために命がけで戦った。思うこと多々である。
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