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(※本投稿は私の感想です。、特に書籍からそのまま引用した部分は本文からとして分けてあり、その他の短い引用句は「」をつけて区別してあります。それ以外の文章は、私個人の感想を含みます。)
前回は日興上人が僧俗の区別がなされずに弟子分帳に記されていることを述べた。今回はその本文の続きである。今回は日亨上人御自身の思いを述べられておられる。
本文から
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近古いらい僧俗の区別判然として沙弥僧・入道僧の名目も撤廃せられ、愚禿(ぐとく)と称せる一向門徒のごときも、純然たる大僧正になれる時代なれば、ある急進の方面では強いて僧衣をまとい伽藍に住せずとも、居士のまま俗人のまま俗家のままで弘教はできるのみならず、かえって新鮮味があるとしておるが、そのためにまた種々の弊害が涌出するとのことである。しかし他面はしばらくおいて、僧俗峻別の常風すなはち僧は法を施し、俗は財を施すをもっぱらとする時に、売買の弊風が行われるではないか。開山上人の御深意のごとく全部弟子であって、僧俗たがいに奨励して法門を永久に相続すべきではなかろうか。
自分は五十年前に、新宗制を草案する時に、宗綱の中に「僧俗一途」という新文字をわざと加えておいたが、たいがいは漫然看過(かんか)のようであろう。戦時中官憲のために何か「折伏」の文字は削られたようだが、「僧俗一途」のみは、開規いらい五十有六年厳然と存在しておる。以上は、おのずから長文となったが、これも日興上人の御深意を縁に触れてのべたまでである。(p706)
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最初に一向門徒を例に時代が変わったことを述べられている。なのにすぐに場面を変えて、次の「ある急進の方面」の話になるがこれは学会のことのように思えるが特にそうだという記載は無い。その人たちによると、僧衣をまとわずとも在家のままで弘教できるのだと。つまり日亨上人の僧侶とは、弘教すること自体が役目なのだ。そして在家でよいというのは、これは学会が主張したというより、時代なのだと。学会が創立する前に日淳上人の若かりし頃の論文でも僧侶に代わって在家に指導的立場を設けることが主張されていたことであるから、時代がそういう要望をしていることを皆が肌で感じていたのだ。しかしそのために種々の弊害があると言う人もいると。心配しているだけなら弊害という言葉は使わうことはない。おそらくここは、学会が僧侶の役目を果して布教していることに不都合を感じる僧侶がいるということだろう。そういうことを平然と言えるところが日亨上人のすごさで、当時の頃なら読んでいる側も学会を蔑視している僧侶がいることは了解済みであろう。さすがに学会向けの出版物で日蓮正宗の中からそういう人がいるという明言を避けるために「ある急進」と話をぼかしているのであろうし、でなければ一向門徒の名前を挙げながら「ある急進の方面」の名称を挙げない不合理は無いと思われる。そしてその意見に日亨上人が同意されているだろうか。それは日亨上人の意を含む意見なのだろうか。そうではない。日亨上人はこう反論されている。それでは、僧俗が普通に僧が法を施し俗は財を施すというような関係では売買の弊風になってしまうではないかと。この反論が全てを物語っている。「弊風(へいふう)」とは、辞書によると、悪い風俗や習慣、悪習のことである。それなら売買の関係に甘んじろと言うのかと。
日亨上人は他文書で、僧俗の区別を本質的なものではなく、文化の一様式に過ぎないとお考えであったことも加えておこう。様式は変遷するので、形式に意味があるのではなく、それをどう意味づけるかは人々の使い方しだいなのだ。
だから、反論の結びに日興上人のように互いに奨励しあって法門を永久に相続すべきだと日亨上人は主張されているのだ。
そして、日亨上人は「僧俗一途」という言葉を考えられて日蓮正宗の方針とされた。「一途(いっと)」とは、辞書によると、
1 一つの方法・手段。「ただ攻撃の―あるのみ」
2 もっぱらその方向ひとすじ。「増加の―をたどる」
3 二つ以上のものが合一すること。「官武―」
である。
それを誰も漫然看過して心に留める人もあまりいなかったと。涙を呑むような話である。
僧俗はもはや形式が2つに分かれていようと、どうであろうと、もう同じ一つのことをやるのでよいのだ。
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