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(※本投稿は私の感想です。、特に書籍からそのまま引用した部分は本文からとして分けてあり、その他の短い引用句は「」をつけて区別してあります。それ以外の文章は、私個人の感想を含みます。)
前回の本文では、僧と俗を分けることは世法の慣習に従っただけで、本質的なことではないとの意味であった。その本質論に続いて、特に、宗開両祖の時代には、僧侶とはいってもいろいろな形態が混在しており、外形ばかりの人が、戒律も保たずに出家庵住していたのだと言われていた。(まさに昨今もそうであるが。)
今回の本文は続いて、その後、いったん日興上人の門下数の話に移るが、再び、僧俗の立て分けの話しに戻られる。
それは日興上人の1298年の弟子分帳に記された66人の弟子について、4つの区分の仕方である。
本文から
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ここに特記すべきことは、弟子分帳の僧俗の区別である。
第一に日華上人より播磨公にいたる僧俗混位の二十八人は僧とも俗とも記せざるまったくの無標目でありながら、これがまったくの一流の御弟子であった。
第二に南条時光より下山左衛門四郎までの十四人には、明からに「次に俗弟子分」と標示してある。
第三に石川新衛後家尼より豊前房の妻まで七人には、「次に女人弟子分」と明示してある。
第四に神四郎より弥三郎までの十七人には、「次に在家人弟子分」と特記してあって、中には在家の農夫ならぬ上野殿の御家人(士分に準ずべきか)もあり、神主もあり、後家尼もある。開山上人が、この四級の区別を立てられたのは、鎌倉末期の俗制と宗門のありようとによられたものであろうが、現代から見ると、了解しがたいところもあるが、要するに「在家人」と記せられたのは、現代のごとく、僧俗と区別したる上の俗人を在家と称したのではなく、都会の外に部落があり、その所に商人工人農家等があり、それも農夫が主要であり、それを在家と称したより通称したもので、近古の長き風俗となってきた士農工商の別とは異なるもので、その士分たるものが、弟子分帳の第一階級に十人もあり、また第二階第三階の二十一人がそれに当たるのである。
鎌倉時代のの族制からすると、公卿階級の人々も、武家階級の将軍執権守護領家等は、不幸にして一人もこの帳の中にはない。地頭や荘司は三四あろうが、多くは御家人または給主級の下級の士分である。吾人は六百余年も隔ててその間に種々の行政体が変化したる昔の法制を考うるの要は少なかろうが、弟子分帳の四階級ともに「弟子」と首称せられた開山上人の御意図は、尊重すべきではなかろうか。それがまた宗祖大聖人の「弟子檀那」とおおせらるる中にもあることなればである。(P704)
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僧俗混位に記されていたのだと。第一の一流の弟子には、僧とも俗も記されず、そこには僧以外に在家の「士分たる」者が10人含まれている。第二は俗弟子とあるように教学等の専門的な修行をしていない人のことと思われる。第三は同じく専門的な修行をしていない女性との意味か。鎌倉時代のことであれば立場の弱い女性を別にしたことは致し方なく、むしろそのような立ち場の弱い人々に幾人も日蓮大聖人の御本尊が与えられていることに驚かされている。女性に限らず、大聖人の御本尊がこれほど多く門下に与えられていることは日興上人以外の五老僧にはみられはしない。そして第四の在家とは地方在住の人々のことであるから、当然ながらそこに後家尼等も含まれていた。神主も含まれいるというから、本当に様々な事情があることを伺わせる。
そして彼らが全部、弟子なのだと。僧俗に基いて厳しく分けたのではなく、信仰に基いて第一を選び、その他は御本尊を与えた様子等を思い出しやすいように実情で分けているに過ぎない。むしろ生活区分に見える。
日興上人が全てを弟子とされたように、その意図を尊重すべきではないだろうか。(この項、さらにつづく。)
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