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(※本投稿は私の感想です。、特に書籍からそのまま引用した部分は本文からとして分けてあり、その他の短い引用句は「」をつけて区別してあります。それ以外の文章は、私個人の感想を含みます。)
日目上人等の十数人の(僧侶の)弟子の章のあと、次の章では在家の弟子について紹介されている。その区分に違和感を抱く者は別にいないだろう。しかしここで日亨上人は、特に言うべき必要もないのにわざわざ、僧と俗とを区別することは、あるいは適確ではないと言われている。
本文から
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開山上人の弟子分については、はかりがたいほど多数であり、人名だけでも、ここに掲ぐることは容易ではない。正確なる史料すなわち宗祖大聖人の御筆になる御本尊脇書、また御消息および開山上人の同上の御筆物、その他の御筆より当時の直接の諸史料および時代写し等を、第一の正史料として、その後のものは参考資料とし、また伝説のいかがわしきものを誤謬史料として、上にすでに僧分のものは掲げおわったから、これより後は、信徒の伝記を以上の方針で列記する。
ただし僧俗と両様に区別することは、古今を通しての世界悉檀にしばらく準ずるものであって、あるいはかならずしも適確の区別でもなかろう。ことに宗祖開山御時代には、一般に末法思想が普及して、僧分の得度なんども、奈良朝から平安朝時代ほど厳格でなく、五戒の通俗戒すら確実にたもち得ぬ。また遁世出家しえぬ普通生活の男性の人々が、居家のままに高貴の身分の人とても官職を持ちながら、剃髪染衣して入道と称して、またその婦人も尼と称しておられたことは珍しくない。それより下々の人々もまた、居家のままに僧尼の形状を真似ておる時代であった。まれに出家して僧尼の生活に入るものも、それ相当の戒律をたもちえず正式の得度もなしえず、外形ばかりの人々が、沙弥僧尼として出家庵住をしておる人々もあったのである。(p703)
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僧とか俗とか区別することは、これまでの世界悉檀に沿ったものであると明言されている。世界悉檀とは、世法のことである。つまり僧とか俗とかの区別とは仏法上の区別ではないということを、ここまで明確に述べられているのである。
多くの法華講員はこれを知らねばならない。僧侶の頂点に立つ法主から、僧と俗と区別することはこれまでの慣習に沿ったもので、特に正しいことでもないとのことである。
なぜこのような表現をされたのか、日亨上人が御謙遜して勝手に言われているのか、そうではない。
日亨上人は日興上人がそうであったのを受けたのだ。それは次回。(この項つづく)
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